結論から言うと、彼は研究者の鑑ではあれるが、その振る舞いが一般に受け入れがたいものであったために死刑宣告をもらったと、私は考える。
ソクラテスの姿勢は、何かを探求する人の理想的な姿なのだと思う。
すべてを知っていると驕らず、自分は少なくともこれを知らないということを自覚している、という無知の知。あるいはこの事実に耐えられるだけの知的好奇心。
問答から変数と論理関係を明らかにし、矛盾を淡々と指摘するさま。
研究倫理に反した不正を認めることなく、また不正をただすこと、探求行為における正義の保持のために死んでもかまわないとする覚悟。「死ねば、ひとまずこの世からは脱せられる」ことから「(死ねば無意味になる)貯蓄への固執に対する無価値さ」に触れ「貯蓄をすべて使っても智見や真理の探究など善いことを行う」ことに生きる価値を見出したこと。
かなり振り切っている、極端なものではあるが、研究者が参照して損はないだろう道徳的教義である。
で、ソクラテスはこのとおりにふるまった。少なくとも『ソクラテスの弁明』では、そのようにふるまったとされる。
実際に死刑宣告をされても、この姿勢を曲げることはしなかった。
一部の読者が、こうした振る舞いをカッコいいと評価するのも納得できる。
で、ソクラテスがなんで死刑宣告を受けたのか、だが。
ソクラテスはこの姿勢を一般に広めようとして、いろんな人にケンカを吹っ掛けたのが直接的な原因になっている。
一般化するなら、何かについて詳しいとする当人に対し、おそらくその何かの定義とその詳細の説明、論理的に衝突する箇所の是正、を求めたと思われる。
『ソクラテスの弁明』の段落十三を引用する。前提として「ソクラテスは青年を腐敗させる≒悪人にする」という主張がある。ここでいう青年は、ソクラテスを師として接し、彼の問答を聞く人のことを指す。
そこに、善人は常に隣人に善事を、悪人は逆に悪事を働くと仮定し原告人に同意を得る。で、普通に考えて悪人が隣人になってほしいとする人はいないことについても同意を得る。そして、ソクラテスは原告人に問い、原告は「ソクラテスは故意に青年を腐敗させている」と主張した。ここまでが定義と詳細の説明に当たる。
ソクラテスは続ける、「驚いたねぇ。君はさっき、普通に考えて悪人が隣人になってほしいっていう人はいないってことに承諾したけど、同時に俺は故意に青年を腐敗させてる、ってことは悪人にさせてるって言った。君の言い分をそのまま受け取るなら、俺は自分から加害者作ってるってことになるけど、これってどゆこと?」と。これが論理的に衝突する箇所の是正に当たる。
ソクラテスを被告とする裁判が舞台の『ソクラテスの弁明』において、こうしたくだりは何回も生じる。
おそらくソクラテスはこーんな感じの対話を日常的に、いろんな人に吹っ掛けていたと思われる。
これらの対話自体は特段異常ではないと思うが、問題はこれを日常的に、いろんな人に吹っ掛けているということ。
いろんな人に吹っ掛けては「知ったかぶりすんな」と煽り、いろんな人から恨みを買ったこと。
そして、裁判の原因となった恨みつらみに対し言及こそするが、そのメカニズムについて掘り下げず賎民の振る舞いとして片づけたことにある。
段落二十九より「結局俺は有罪になったのだけれど、これは決して説明不足などではなく、嘆願とか取り繕いみたいなお前らが最も喜ぶような言葉を一個も使わなかったから。別に同情を得ようと思えば得られたけれど、それは不正に加担することになる。それだけは死んでも嫌だね」と、大体こんな感じのことを供述している。
恨みつらみを買っていることは自覚していたらしいが、なぜそのような感情が生じたかについてはあまり考察していないか、あるいは上記のように浅はかなものとして決めつけていたのだろう。
恨みつらみ含め、感情にも表出するメカニズムが存在する。論理的で合理的なお話をぶった切るために存在するうっとうしいものではない。
もっとも、よく『合理的』とされるものは実験環境のようにある程度の交絡変数による影響を統制した結果得られたある種の理想論のようなものである。すごく難しく言ったが、『合理的』というのはときどき「なるほど完璧な作戦っスねーーーっ。不可能だという点に目をつぶればよぉ~」ってことが生じるのだ。
日常でよく遭遇するのは、感情のような非言語的含む変数が乱雑に絡み合った末に表出されたものである。これらも、進化論的かつ結果論的に言えば、生存に必要なために淘汰されずに残ったものである。
現時点でうまく言語化はできないが、理屈は存在するものである。それを軽くあしらわれたらいい気分はしないし、「それ追及するのもお前(ソクラテス)の仕事では?」とも思ってしまう。
(恨みつらみに関するメカニズムについては、筆者が明るくないためここでは説明しない。ごめん)
もう1つ、ちょっと方向性を変えて切り込みたい。
そもそも人々は日常的にそんなことしない。あいまいな概念についてその定義と詳細の説明、また論理的に衝突する箇所の是正なんてめんどくさいこと、しない。
自己決定理論(Deci and Ryan 2000)から引用する限り、人間は生まれつき知的好奇心旺盛だけど、その知的好奇心を崩す要因は周りにたくさんある。
もっと柔らかく言おう。疲れているときや別のことに集中しているときに、哲学とか論理とか知的好奇心高ぶるものぶっこまれても集中できないのだ。
労働しているときに「社会貢献について具体的に定義しなさい」って言われたら誰もめんどくさがるだろうし、適当にあしらえば「知ったかぶってんじゃねぇよ」といわれるのはちょっと理不尽なまである。
ソクラテスが身をもって提示した道徳的教義は、参照してもそこまで罰当たりではないだろう。
ただ、生き様をそのまま真似て、会う人の感情を軽視するようになったら、かなり生きづらくなると思う。
参考文献
久保勉, プラトン (1950) 『ソクラテスの弁明 プラトン』, 岩波文庫。
Deci, E. L., & Ryan, R. M. (2000). The "what" and "why" of goal pursuits: Human needs and the self-determination of behavior. Psychological Inquiry, 11(4), 227–268.
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