論文を権威的で絶対的なものとして扱うのは正しくない。
論文は信頼性・妥当性への厳密さや堅苦しい記述などとっつきづらい要素はあるが、実態はある分野に性癖拗らせた人が執筆した同人誌のようなものである(※個人の感想です)。好きな同人誌の設定を採用しその性癖分野をより発展させるという行為(俗にいう、引用)が盛ん。発展先の解釈が気に入ったら大本が逆輸入するなんてもの日常的。ときどき同人誌に書かれている解釈の違いでマジで殴り合ったりするけど、とても楽しく興味深い産物なのである。少なくとも敬遠するような産物じゃない。
それに、心理学という客観性を重んじる分野の論文であっても、書き手の主観はどうしても混じる。同人誌の内容を正しく解釈しないまま引用して言及するなんてこともある。そしてRyan and Deci (2006)みたいに手厳しく言われるっていう。
そしてなにより、論文に記述されている内容が誤りなこともある。先述の引用すべきところが引用できてなかったり、手法の厳密さを詰め切れてなかったり、研究結果を改ざんしたり。理由は様々だが、誤りは結構起こるし、それを突っつき合ったりするのもまた醍醐味だったりする。先ほど言った動因低減説(Hull 1943)も「探索行為について説明できない」ことからめちゃめちゃ突っ込まれてる、細かいことは鹿毛(1994)に書いてある。
論文には信頼性・妥当性への拘りや事実をより正確に書こうとすることで生まれる読みづらさなどから、どこか神格化というか、権威的で絶対的なものとして扱われることがある。
その考えは危うい。お勧めはしない。論文も普通に間違っていること書いてる時があるから。
参考文献
Richard M. Ryan, Edward L. Deci. (2006) Self-Regulation and the Problem of Human Autonomy: Does Psychology Need Choice, Self-Determination, and Will? Journal of Personality Volume 74, Issue 6 p. 1557-1586
鹿毛 雅治, 内発的動機づけ研究の展望, 教育心理学研究, 1994, 42 巻, 3 号, p. 345-359, 公開日 2013/02/19, Online ISSN 2186-3075, Print ISSN 0021-5015, https://doi.org/10.5926/jjep1953.42.3_345, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/42/3/42_345/_article/-char/ja,
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