「私はこれをすべきだからやる」
「私はこれをする理由があるからやる」
どちらも対象自身の意思決定の表れである。
ゆえに、この2つは混在されがちだが、実際は天地ほど違う。
前者は自分に対する指示や強制に近い文脈だ。
「私はこれを「すべき」だから」と対象は自身に行動を課している。
「すべき」に適切な説明や目的がつくことはなく、「すべき」は主に本人の不安や罪悪感を解消するべく発生する。
言い換えれば「これをしなければ不安だから、罪悪感が生まれるから、やる」となる。行動の理由が明確ではなく、目的も定まらずただやることによって不安を解消するその実態は、他人に「いいからやれ」と強制されているのと同じである。
これ即ち、他人に強制された時とほぼ同じ現象と症状が発生する。「すべき」ことがちゃんとできるか、緊張やプレッシャーに押しつぶされるようになる、目的や理由は二の次になる。
あるいは、「他人からやるべきだと言われたから」というのもあるだろう。
やるべき理由が理解できていないのであれば、それは他人からの指示にただ従う行為と扱われる。
後者は一定の理解か納得をもとに動く文脈だ。
「私はこれをする「理由がある」から」と対象はその理由をもとに行動している。
理由は本人が納得できるか、最低でも理解できる目的が手元にあり、対象の志向や目的を阻害しないようある程度「説得」ができている。「私はそれをすることで利益があるからやる」とか、「理屈っぽく考えて、私にとって重要なものだから」とか、落とし所を見つけているイメージだ。
説得できている場合、時に内発的動機づけと相違ない威力を発揮する。単なる「すべき」ではなく、理由と目的が定まっているため、下手に焦ることはない。
あるいは、抱える理由は好奇心や興味関心からくるものであり、理屈つけるのも煩わしくなるぐらいに駆り立てられているのかもしれない。
好奇心や興味関心は生来のものであり、なにかを学び成長したいとする本能の表れである。言い換えれば「成長したい」という理由が突き動かしていることになる。
好奇心が理由の場合、それは紛れもない内発的動機づけである。なんの問題もない、暴れてしまえ。
どちらも自分が意思決定しているが、その中身と、もたらすものはまるで違う。
行動する原因(因果)が自己制御的かどうかが異なるからである。
前者は行動とも対象とも噛み合わない自己制御的ではない因果によった文脈だ。因果が自己制御的でない時、私たちは意気消沈するかフラストレーションが溜まる。
後者の一方は対象に噛み合うようある程度咀嚼された、ある程度自己制御的な因果による文脈だ。後者のもう一方は対象の本能の表れであり、あえて言うのであれば自己制御的な因果による文脈だ。因果が自己制御的な時、私たちは意気揚々と、あるいは違和感抱かず行動する。
因果が自己制御的か否かでなぜ変わるのかは、話が逸れるので後日取り上げる。
今日は、因果の所在が違うから、たとえ自分が意思決定したものであっても効果の程が違うということだけ覚えていってほしい。
自分が自分にことを強いることは、他人が自分にことを強いることと同義であることも、覚えていってほしい。
参考文献
Edward L. Deci &Richard M. Ryan (2000) The What and Why of Goal Pursuits Human Needs and the Self-Determination of Behavior.
Maarten Vansteenkiste, Richard M. Ryan et al. (2020) Basic psychological need theory:Advancements, critical themes, and future directions.
Ryan, R. M. (1982). Control and information in the intrapersonal sphere:An extension of cognitive evaluation theory.
Should なのか must なのか mayなのか、
そこはその人の性格に過ぎず、
イーロンマスクの第一原理思考のように、
自己の原理、目的を主とするか、
外部環境を主にするかが本来ではないでしょうか。