宇治田原から犬打ち峠を越え和束に入り、しばらくすすむと道路脇の黄色い花が今見事に咲いている。毎年この時期には咲いているのだが、以前はこの光景をこの時期にしばしば投稿していたが、ある日、この花の名前を調べたら、「オオキンケイギク」と知った。そして「特定外来植物」に指定され、植え替えたりすることは罰せられると知った。
キバナコスモスのようで、実にきれい。
先日Facebookで、高田宏臣氏の記事が目に留まった。
なるほどこのように考える方もおられるのか・・・と。
このような植物のことに無知な私には、それではどうすれば・・・と考え込んでしまう。
高田氏の記事をそのまま記載させて頂きます。
人が環境を乱して狂わせてしまい、在来の植物群や微生物群が健康に共存できなくなってしまった環境に、優先的に繁殖する植物がある。
最近、話題に上がるのが、除草剤散布跡地や呼吸できなくしてしまった土地の縁など、人為的な理由で悪くしてしまった環境に優先してくるナガミヒナゲシ。この植物が、在来植物を駆逐してしまう悪い奴として、目の敵にされているが、実際は違う。
そんな、自然の理の中で生まれたものに対して、敵と味方、善と悪を振り分けて、悪を排除すればすべてが解決するという、人間の思い上がった発想が、温かで愛に満ちた本来の命の安らぎを奪い去ってしまうということに、どうして気付いてくれないのか。
複数の人が、僕の育てているフィールドで、わずかに生えていたこのナガミヒナゲシを抜いていたのを見た。とても悲しくなった。
彼らは、「これは生態系を壊す悪い外来種ですよね」と言って、それを駆除することが良いことだ信じていた。悪気のない行為なのだが、違うのだ。
僕はそのたびに、なるべく丁寧に言う。悲しいけど、そうするしかない。
「抜かないでいいのです。彼らは人が悪化させてほかの植物や微生物たちが健康に生きていけない環境を交代して守ってくれているだけで、あらゆる生き物が健康に幸せに共存できる環境が戻ってきたら、役目を終えて黙って消えていきますから。悪い奴なんていないから。いるとしたらそれは人間だけ。黙って彼らは、人の過ちに気づかせようとしてくれているのだから」
「アレロパシーが強く、繁殖力が旺盛で在来植物を圧倒してしまう」などという、そんな、もっともらしい間違った「知識」がはびこり、これを退治除去しようされるが、それは違う。
悪いのは人の造作なのだ。そして、人にとって都合の悪い環境が顕在する理由を何か特定の命のせいにして、それを排除すればすべてが解決すると思い込み、その先に我々は、ますます心を失ってゆく。
人はいつまで、こうして、生きとし生ける特定の命を目の敵にして、それを排除しようとするのだろうか。
いつまで、人間の都合で命の愛のつながりを断ち切ってしまうことばかり、してしまうのか。
こうした繁殖個所を、土壌環境、微生物環境から丁寧にみていけば一目瞭然で、彼らは、在来の心地よい日本の野草たちが苦しんで健康に生きられなくなった土地を守る、助っ人役を黙ってかって出てくれていることが分かる。
彼らは、傷めてしまった大地を黙って守り、そして修復が進むと自然と交代して消えてゆくもの。
こんなけなげな命の営みに、いつから人は気づく感性をなくしてしまったのか。見たくない環境を排除し、傷つけようとするのか。
人はいつから、ここまで母なる命の意思に敵対するようになってしまったのだろうか。
いのちはすべて、つながって、そして、豊かにともに生きようとする、そしていのちの営みは我々人間の思考を超える神秘の中に営まれるということ、自然の本質は温かな多種共存と調和に向かう、愛の世界。その本質に基づかなければ、どんな知識も意味がない。
僕はそのことを伝えたい。でも、言葉では伝えられず、実際に環境再生の奇跡のような事実を一つ一つ、積み重ねて見せてゆくほかないのだ。
結果を積み重ねてゆくほかにない。なぜ、愛せないのだろうか。なぜ、いたわれないのだろうか。悪いのは僕ら人間なのに。
動物たちは、再生した環境を荒らさない。それは紛れもない事実。シカやイノシシは、人間の間違いを教えてくれているだけなのに、これを排除すれば解決するという、そんな感じ方の先に、自然との調和など、ありえないのだ。
温かな未来など、その先にはない。
真実を知ってもらいたい。
僕のそんな話を講座で事実を示して話すと、むしろ女性のほうがすんなりと理解してくれることに気づいた。
そして、今はまた、ナガミヒネゲシを排除すれば在来の野草が戻ってくるという幻想。自然は決してそんなものではない。
「自然の本質は愛と慈しみにあった」
そういう寺田本家先代の寺田啓佐さんの「発酵する生き方」を100冊買ったのは今年の2月のこと。
自然の本質、ここから始まらなければ何も理解できない。
苦しんでいる自然環境に対して、それが病気だから排除しようとする先に、健康で温かな共存の世界など、ありえないだろう。
年寄りも子供も、そしてどんな生き物だって、愛されたいし、そこでしか生きられないし、その中で初めて、大きないのちの一員としての本来の働きができるもの。
女性は、子宮に宇宙の本質を感じ持っているからなのだろう。神様の隣にいる子供たちもそう。
僕ら男はそんな、本質に近い存在から学ぶこと、感じることから、再出発しないといけない。