他のブログを見ていたら・・
「饒速日命が最初に降臨された山という」このような記事を見つけました・・筑豊人としてロマンを感じる記事です。(本文を紹介します。)
笠置山の山頂は平地で三角点がある。
太宰府県立自然公園の標識がある。
この山に中世の山城があった。
宗像氏が永禄十一年築城したが、この地方の豪族との軋轢(あつれき)を経て秋月氏が端城として使っていた。
本丸、二の丸、空堀・などの跡が残る。
宮田町宮田にある天照御魂神社は元はここにあったと資料にあったが、それらしい形跡はない。
天照御魂神社の祭神は饒速日命で、神武天皇が祀ったと伝える。
饒速日命は日本書紀では、天照大神の命で天磐船にて河内に天下る。
しかしここには最初に降臨されたのが笠置(笠木)山であったと書く。
そして宮田町には天照御魂神社上宮、中宮、笠城権現社などがありこの神を祀っている。
神代史論の一つによれば、饒速日命は遠賀川流域の鍛冶集団であった物部氏が、遠祖として祀っていた。物部氏の一部はやがて新天地を求めて出雲を経て(国譲りして)大和に進出していく、神武東征前のことである。
遅れて神倭磐余彦(神武天皇)は日向から瀬戸内海を経て大和へ向かう(神武東征)ことになる。
そして先着の物部氏の抵抗に合う云々。
この神社の縁起では、神倭磐余彦(神武天皇)が饒速日命を祀ったとなっているが、
饒速日命は神倭磐余彦の大和進出を妨げた神である。分からない???。
神代史は私には山よりも苦しい。
(ホームページのブログより)
又、
『筑豊を歩く』という本の中からはこんなことが記載してあった・・・これまたロマンを掻き立てる記事でした。
笠置山
笠置山と人間の関わりは古く、一帯で産出される小豆色をした輝緑疑灰岩は、弥生時代の遺跡として知られる、飯塚市の
立岩遺跡に見られる石包丁製作の原石地として知られ、採集地であったと思われる。
また、
垂仁天皇十六年に
饒速日命(にぎはやひのみこと)が笠置山に降臨されたと伝えられ後に千石・明野(脇野)、磯光と遷る磯光天満宮の故地でもある。
笠木(笠置)城跡は城の正面にあたる大手を南の嘉穂盆地にとり、背後から宮田町千石峡を搦手(からめて)とした山城で、本丸・二の丸・三の丸のほか、空堀・石塁・なども見られる。
戦国時代には、眼下に広がる嘉穂盆地のうち、飯塚市庄司にあった
葛山城、ニ瀬から幸袋にかけての
白旗城と合わせて防衛線を築いていたと考えられる。
白旗城のあった白旗山には、江戸時代初期に
小堀遠州好のみの窯跡として知られる高取焼きの白旗窯があり、その作品は、同じ高取焼の流れをくむ千石焼とは趣おことにしている。
笠木城の築造年代については不明であるが、一五六八年(永禄十一)年に近隣宗像地方を中心に勢力を伸ばし、鞍手地方にも力を持っていた
宗像氏によって既に築造されていたことがしられており、何らかの理由により宗像氏の手を離れ、秋月氏に移ったことが江戸時代の『筑前国続風土記』に記されている。
1981年 千石公園に炭鉱犠牲者の復権を願って『復権の塔』が建立された。
『筑豊を歩く』より抜粋
立岩遺跡(たていわいせき)
立岩遺跡は、標高四十メートルほどの小高い丘に散在する下ノ方、焼ノ正、堀田の各遺跡の総称である。この丘は石包丁など石製品の製造販売を核とする工業国の中心であったの
だろう。堀田遺跡(写真右)の甕棺墓から連弧文鏡、重弧文鏡など十面の前漢鏡、銅矛、鉄剣などが出土し、立岩遺跡は三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡と同様に弥生時代中期の
遺跡とみられている。石包丁等は近くの笠置山から採取された岩石を材料としたもの。
九州一円に分布する石包丁の一大生産地であった。石製品は石包丁にとどまらず、石剣、石鎌、石戈等多種多様な石製品が生産され移出された。これほどの規模を持つ国が魏志倭人伝等の文献に登場しないのはまったく不思議である。たぶん伊都国や奴国が栄えていた一、二世紀ころには立岩は衰退し、産業活動にも精細を欠いていたのかもしれない。つまり、立岩遺跡は青銅器鋳型が出土しているものの、その多くは石製品に特化しており、この工業国は鉄器が主流の時代に至っても産業転換が進まなかったのかもしれない。
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇二九年一月一日(紀元前六九年一月二六日)
垂仁天皇九九年七月一四日(紀元後七〇年八月八日)は『古事記』・『日本書紀』に伝えられる第十一代の天皇(在位:垂仁天皇元年一月二日(紀元前二九年)
垂仁天皇九九年七月一四日(紀元後七〇年)。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊。
『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、『常陸国風土記』に伊久米天皇、『令集解』所引「古記」に生目天皇、『上宮記』逸文に伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王と見える。
『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強く、その史実性については多分に疑問である。
饒速日命(にぎはやひのみこと)代氏の祖伸
御名・・天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)
葛山城(摺鉢山城)
福岡県飯塚市庄司秋月氏築城。笠木山城の出城。
白旗城
福岡県飯塚市庄司(ニ瀬から幸袋)笠木山城の出城。
小堀 政一(こぼり まさかず)は、江戸時代前期の近江小室藩藩主。
茶人、建築家、作庭家としても有名であり、遠江守に任じられた事から、一般には小堀遠州(こぼりえんしゅう)の名称で知られている。幼名を作助、元服後、初めは正一、後に政一と改める。道号は大有宗甫、庵号は孤篷庵。正室は藤堂高虎の娘。子に小堀正之、娘(池田重政室)らがいる。
天正七年(一五七九年)、小堀新介正次の子として生まれる。幼名は作助。父・正次はもともと近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であり縁
戚でもあった。しかし政一が生まれたのは、浅井家が織田信長により滅亡し、正次が長浜城主羽柴秀吉に取り立てられ、秀吉の弟秀長に仕えていた頃である。天正十三年(一五八五年)、秀長は郡山城に移封され、正次は秀長の家老となり、政一もともに郡山に移った。
この頃秀長は山上宗二を招き千利休にも師事しており、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。
小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め利休とも出会っている。
また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく没したため、文禄四年(一五九五年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。
ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになる。
慶長三年(一五九八年)秀吉が没すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。
正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、備中代官として松山(現・岡山県高梁市)に赴く。慶長九年(一六〇四年)の父の死後、政一はその遺領一万二四六〇石を継いだ。
慶長十三年(一六〇八年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により従五位下遠江守に叙任される。
以後この官名により通称・小堀遠州と呼ばれる。
居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、六角越後町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和三年(一六一七年)に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。
元和五年(一六一九年)九月、近江小室藩に移封され、さらに元和八年(一六二二年)八月に近江国奉行に任ぜられる。
ここに陣屋を整備し茶室も設けたが、政一はほとんど使わなかったと考えられている。元和九年(一六二三年)十二月にさらに伏見奉行に任ぜられ、豊後橋(現:観月橋)北詰にあたる新たに奉行屋敷を設け、その後ほとんどここを役宅として暮らしたからである。
晩年になり、真偽は不明であるが、公金一万両を流用したとする嫌疑がかかったが、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされた。その後も伏見奉行を務め
ながら茶の湯三昧に過ごし、正保四年(一六四七年)二月六日、伏見奉行屋敷で六九歳の生涯を閉じた。子孫は松平定信により、天明八年(一七八八年)改易の憂き目に逢っているが、旗本としては家名は存続された。
宗像氏(むなかたし)とは、筑前国の古族である。
出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔鳴尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。
宗像氏は、正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。九一四年までは、
胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。
また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。
戦国時代に宗像氏貞をもって大宮司家が断絶した。
また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落を意味する。
この様に、古代史の物語が筑豊地区に多いのも何かの関連付けがあるのではと思われる。
『邪馬台国東遷説』
すなわち邪馬台国と大和朝廷は連続したものであり、九州邪馬台国が東へ移動し大和朝廷となったとする説を裏付ける有力な証拠として、九州北部と大和地方に見られる“地名相似”があります。
九州北部では、笠置山を拠点として右回りに
笠置山→田原→山田市→上山田→鳥屋山→杷木町→浮羽町→星野→鷹取山→朝倉町→甘木市→高田→三輪町→小田→三井→池田→御笠→御笠山→笠置山
という地名が円を描いて並んでいますが、
大和地方でも、
笠置→笠置山→田原→山田→上山田→鳥見山→榛原町→音羽町→吉野→高取山→朝倉→大和→大和高田→三輪町→織田→三井→池田→三笠山→笠置
と極めて似通った地名が並んでいるのです。
これは到底偶然の一致で済まされるレベルではなく、これらの地名を名付けた人々に何らかの共通点があるのは明らかであり、おそらくどちらかから移住して来た人々が新しい土地に故郷と同じ地名を付けた、と見て間違いないでしょう。
私が調べた一連の流れが、本当に筑豊地方であったとすれば、ロマンを感じずには???