旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

筑前国続風土記 巻之十三(磯光村・天照宮)

2013年06月09日 10時30分46秒 | 天照伝説
天照宮(鞍手郡磯光村)


礒光村にあり。

俗読、天照大神といへども、いにしへ従五位下を授られたるを見れば、天照大神にあらず。

瓊杵速日尊也。瓊杵速日尊を天照大神といひたる事、奮事記にあり。

いつのころよりか、八幡大明神春日大神をも、相殿に祭りたてまつる。

むかしは笠木山の上に鎮座ありしか共、老幼の輩参詣のわづらひあればとて、麓にうつす。

宮田村の枝村千石原と云所の上、谷の中に今も其あとあり。

今其所を佛谷といふ、是は山上に神社ありし時、稲の初穂を麓の谷にかけて祭りしゅゑ、穂懸といひしを、訛て佛谷といふなり。

箕後神勅ありて、鶴の一番住所に、遷座したまふべきとの御告あり。

因て其瑞を見るに、鶴田村に白鶴雌雄二居ける所あり。

終に其所を御廟地と定む、今の神廟の地是他。此社むかしは鶴田村の境内也しが、礒光の田地、鶴田村の近邊にありて遠く、鶴田の圃、礒光の村際にありて遠かりし故、たがひに耕作の便よろしからずとて、近年農民共各相替へて、其の地を耕作せり。

故に天照宮のまします所は、むかしのまゝなれど、今は礒光村の境内となる。鶴田村も、本より天照宮の敷地也。

鶴田といふも、白鶴田の中に栖し故、是に りて村のなとすと云。

大凡此御神は上代より鎮座ましまし、住昔は御宮造もいかめしく、神領多くして、
年中の祭禮其数しげく、祠官も数多ありて、是を勤行ひけるとかや。

按ずるに、三代實録に、陽成天皇元慶元年十二月十五日、筑前國正六位上天照神に、從五位下を授たまふとあり。此御神の事ならし。

徳治三年造營有し棟札あり。

延寳八年庚申に、敷地の人々相共にはかりて、新に神殿を改め作り。禄元六年直方の家臣、小川権左衛門氏信、石鳥居を創立す。

粥田庄の惣社にして、礒光、鶴田、龍徳、宮田、大隈、尾崎、兵段(ひょうたん)、皆天照宮の敷地なり。

先年直方の頒主黒田長清君の命をうけて、篤信縁記を作りて納めける。

(貝原 益軒著 筑前国続風土記 巻之十三より抜粋)


ひもろぎ逍遥・天照神社(1)

筑豊の古代史(石包丁)

2013年06月08日 17時21分41秒 | 天照伝説
○ 笠置山


笠置山と人間の関わりは古く、一帯で産出される小豆色をした輝緑疑灰岩は、弥生時代の遺跡として知られる、飯塚市の立岩遺跡に見られる石包丁製作の原石地として知られ、採集地であったと思われる。

また、垂仁天皇16年に饒速日命(にぎはやひのみこと)が笠置山に降臨されたと伝えられ後に千石・明野(脇野)、磯光と遷る磯光天満宮の故地でもある。

『筑豊を歩く』より抜粋


○ 立岩遺跡の石包丁


遠賀川流域と他地域との交流がかなり広範囲に亘っていたことは弥生前期から中期と見られる石包丁の分布からも窺われます。石包丁は稲作の渡来とほぼ同時期あるいは遅れたとしても稲作の渡来からそれ程遅れない時期に列島に渡ってきたと思われる、かまぼこ型をした薄型の石器です。

直線に近い部分に二つの穴が開いていますが、この穴に紐を通して手の指に握るようにして、丸くなった側で稲の穂を摘み取るように刈入れていたと考えられています。

当時は現在のように根本近くから刈り取るのではなく、実った穂だけを摘み取っていたようです。
 
この石包丁が北部九州の各地から出土しているのですが、初期には加工しやすい頁岩質の砂岩で出来たものが多く出土するのですが、この石は脆いため包丁としての寿命はそれ程長くなかったと思われ、後の時代になると硬い輝緑凝灰岩製の石包丁の割合が増えていきます。

輝緑凝灰岩は比較的広く各地に見られる岩ですが、包丁に加工した遺跡は立岩周辺の他では見つかっていないことから、立岩で加工されて各地に運ばれたものと考えられております。立岩の西北6Kmに位置する笠置山からは加工途中の石包丁の半製品や石屑が見つかっており、ここが石包丁の加工場であったと考えられております。

立岩式石包丁は北部九州のほぼ全域に亘って分布が見られるのですが、立岩以外から見つかった立岩式石包丁の全体を100として各地域に分布している比率を見てみますと、板付・須玖を中心とした福岡平野と朝倉地区が夫々25%強と最も多く、立岩から搬出された石包丁の半数強は峠を一つ隔てた福岡平野や朝倉地域に運ばれたことが分かります。

次いで大分県の宇佐地域が15%と高い割合を占めております。

この三地域だけで四分の三となり、当時の交流の様子を窺うことが出来ると思われます。

一方、同じ筑豊地域でも嘉穂盆地の隣の遠賀川中流に位置する鞍手・直方では5%弱、遠賀川下流では1%程度と、至近の位置にありながら搬出量の割合が少ないことが注目されます。

また、地場製と見られる石包丁と立岩式石包丁との割合を比べて見ますと、立岩式石包丁の各地域における浸透具合が分かります。嘉穂盆地を除いて浸透度合いが高いのは筑後の60%、次いで朝倉が50%弱、福岡平野が35%程度となっております。

この比率も隣の鞍手・直方では35%程度、遠賀川下流では10%程度とそれ程高くないことは注目されます。

この二つの比率を元に、石包丁の相対的な出土数(≒消費量)から見た当時の各地の稲作活動を推定してみますと須玖・岡本を中心とした福岡地区が最大で、朝倉地区が続き、その他の地区は格段に少ない値になりました。

立岩遺跡より抜粋


上記のような資料を読むと、私たちの住んでいる筑豊平野は、古代にあっては素晴らしい文化を持っているように思う。

天孫降臨の主舞台がこの北九州にあるかのごとく『北九州説』が多く論じられるようになって来ている。

古代へのロマンが広がる一因ともなってきている。


旧・鎮西村(古代のロマン)

2013年05月18日 00時35分15秒 | 天照伝説
古代のロマン(天孫降臨説話の本来の主人公)

『鞍手町史』の「第三章 大和時代 第五節 日本神話と鞍手神話」の178ページに出ている小見出しである。

鞍手の地には神話時代から古墳時代にかけて、記紀や旧事本紀と関連して重要な神や人物が登場する。

宗像三女神、饒速日(にぎはやひ)命、倭建(やまとたける)命、そして、神功皇后、鞍橋くらじ君等である。

饒速日命は、天孫降臨説話の本来の主人公と考えられる。ニニギノ命の兄、天火明命に間違いなかろう。

ニギハヤヒは天照国照彦火明櫛玉饒速日尊と天神本紀にあり、天照大神とはどうやら彼のことのようである。

その名も天照宮が、鞍手郡宮田町磯光にあり、祭神が天照国照彦火明櫛玉饒速日尊で、記紀に拠っていなこの宮は、元は笠置(木)山の頂上にあった。

● 笠置山 (四二五m 福岡県宮田町) ・・「饒速日命が最初に降臨された山という」

笠置山の山頂は平地で三角点がある。太宰府県立自然公園の標識がある。この山に中世の山城があった。

宗像氏が永禄十一年築城したが、この地方の豪族との軋轢(あつれき)を経て秋月氏が端城として使っていた。本丸、二の丸、空堀・などの跡が残る。

宮田町宮田にある天照御魂神社は元はここにあったと資料にあったが、それらしい形跡はない。

天照御魂神社の祭神は饒速日命で、神武天皇が祀ったと伝える。

饒速日命は日本書紀では、天照大神の命で天磐船にて河内に天下る。

しかしここには最初に降臨されたのが笠置(笠木)山であったと書く。

そして宮田町には天照御魂神社上宮、中宮、笠城権現社などがありこの神を祀っている。

神代史論の一つによれば、饒速日命は遠賀川流域の鍛冶集団であった物部氏が、遠祖として祀っていた。

物部氏の一部はやがて新天地を求めて出雲を経て(国譲りして)大和に進出していく、神武東征前のことである。

遅れて神倭磐余彦(神武天皇)は日向から瀬戸内海を経て大和へ向かう(神武東征)ことになる。

そして先着の物部氏の抵抗に合う云々。

この神社の縁起では、神倭磐余彦(神武天皇)が饒速日命を祀ったとなっているが、饒速日命は神倭磐余彦の大和進出を妨げた神である。分からない。

神代史は私には山よりも苦しい。
(ホームページのブログより)


笠置山







笠置山と人間の関わりは古く、一帯で産出される小豆色をした輝緑疑灰岩は、弥生時代の遺跡として知られる、飯塚市の立岩遺跡に見られる石包丁製作の原石地として知られ、採集地であったと思われる。

また、垂仁天皇十六年に饒速日命(にぎはやひのみこと)が笠置山に降臨されたと伝えられ後に千石・明野(脇野)、磯光と遷る磯光天満宮の故地でもある。

笠木(笠置)城跡は城の正面にあたる大手を南の嘉穂盆地にとり、背後から宮田町千石峡を搦手(からめて)とした山城で、本丸・二の丸・三の丸のほか、空堀・石塁・なども見られる。

戦国時代には、眼下に広がる嘉穂盆地のうち、飯塚市庄司にあった葛山城、ニ瀬から幸袋にかけての白旗城と合わせて防衛線を築いていたと考えられる。

白旗城のあった白旗山には、江戸時代初期に小堀遠州好のみの窯跡として知られる高取焼きの白旗窯があり、その作品は、同じ高取焼の流れをくむ千石焼とは趣おことにしている。
 
笠木城の築造年代については不明であるが、一五六八年(永禄十一)年に近隣宗像地方を中心に勢力を伸ばし、鞍手地方にも力を持っていた宗像氏によって既に築造されていたことがしられており、何らかの理由により宗像氏の手を離れ、秋月氏に移ったことが江戸時代の『筑前国続風土記』に記されている。
『筑豊を歩く』より抜粋


意外な新情報

「笠置山を挟んで反対側にもうちと同じ天照神社がありました。」
飯塚市蓮台寺の地に確かに天照大神社があった。
この宮の祭神が、天照大神、瓊々杵命、手力男命であった。

天照大神は元々男神であって、天岩屋戸説話で天宇受売命がストリップを行なったという伝承の本意が見えたのである。

男神だからこそ岩屋戸を細めに開けてしまったのであろう。

笠木山は立岩式石包丁(立岩遺跡)の分布の中心に位置している。



この饒速日古事記にある「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」の詔は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命がこの笠置山の頂上で発せられたもののようである。

饒速日命が降臨時に鞍手町新北とその周辺(古遠賀湾)に率いて来たのが、天の物部二十五部衆であり、そのうちの贄田物部がここ新北(和名抄に云う新分)に住まいした。
そこは剣岳の西麓でもある。

「剣岳は蓋し物部氏の兵仗を祭る所にして、以て往時其の族党の住まいしと致すべきものとす」とあり、
(吉田東伍『大日本地名辞典』より)

この記事を読み、蓮台寺・建花寺・大日寺の神社周りを私自身で廻ったところ。
蓮台寺池尻には、天照神社(地元では天神様という。)があり、天照大神・手力男神・猿田毘古神が祀てあります。





蓮台寺本村には、天照皇大神社(旧・八面宮という。)には瓊瓊杵尊・天照大神・建花寺本村の安養院近くの小高い山の上に猿田毘古神(五穀神)が祀てあり、大日寺本村の神社には本殿の寶満宮の正面向いて右上のほうに妙見宮が祭てあり其処の祭神が伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が祀ってありました。

下記の資料は、私の住んでいる建花寺に隣接する蓮台寺の方が書かれた本の一部です。

“何れが元祖か天照皇大神”

筑前風土記やその他の古文書によれば、池尻地区に天照皇大神が祭られ、本村地区には八面神社(八面宮)が祭られています。

天照皇大神(池尻地区)





八面神社(八面宮)(本村地区)





八面神社の由来は、峰八面を有する八額山の麓に位置するところからその名がつけられたと記されています。

処が今日の現状を見ると主客が入れ変わっています。

池尻の天照皇大神宮が天照神社となり、本村の八面神社が天照皇大神宮と姿を変えているのです。

天照神社の祭神は申すまでもなく天照皇大神を中心に手力雄命と万幡姫命の三柱が祭られています。

天照皇大神宮と姿を変えた旧八面神社の祭神は瓊々杵尊が中心で、天照大神と猿田彦神の三柱が祭られています。

瓊々杵尊を主神として祭る八面神社が何故に天照皇大神宮となったのかその理由は分かりません。

昭和三年の十一月に奉納された八面神社の鳥居に、初めて天照皇大神宮の名前が登場するのです。

それ以前のものは八面宮の名が刻まれています。

昭和三年は昭和天皇が即位された御大典の年に当たり、その年の六月には池尻の水田で鎮西村の田植祭典が実施されました。

そして秋には稲の刈取り行事が行われ、新米の一部が県当局を通じ皇室へ献上されました。

皇居では十一月に大嘗祭が盛大に実施されました。

蓮台寺ではその大嘗祭を記念して八面神杜に大鳥居が奉納されました。

その鳥居には天照皇大神宮の名が刻まれていました。

この鳥居が池尻の天照神杜でなく、八面神社に奉納されたのは何故だろうか、不思議に思われてなりません。

私はその謎を解き明かしたいと思い、古文書の調査に取りかかりました。

そして新しい発見をしたのでした。

新しい発見とは天照神杜誕生のいきさつであります。

その資料によれば、蓮台寺の氏神は八面神社の方が古くからありました。

処が今から六百三十年の昔、正平十七年(南北朝時代・1363)筑紫の探題北条氏経が菊池肥後守に攻められ、大日寺山で敗れました。

その時の兵火で、十二月二日、八面神社は跡片もなく焼失したのでした。

その翌年の一月、八面神社の御神体が、近くの池尻山の大木の梢に引懸り、神鏡の如くあかあかと照り輝いたといいます。

そこへ一人の翁が現われ、水浴して身を清め、その木の下に平伏して、天降り給え、天降り給え、と祈り続けたるに、御神体はひらひらと舞い降りて翁の袖に止りしといふ。

村人ひとしくこの事実に感泣し、大木の下に仮殿を建立したといふ。

これ即ち天照神社の誕生なり。

八面神社の跡地はその後百三十年も廃墟となっていたが、明応元年(1492)に再建されたといふ。

池尻の天照神社は八面神社再建後もそのまま祭られ、以来六百三十年の歳月を数えています。その後寛保三年四月(1743)に改築され、寛政三年十月(1801)に幣殿が増築されました。

笠置山(425m 福岡県宮田町)

2013年05月08日 11時06分48秒 | 天照伝説
他のブログを見ていたら・・「饒速日命が最初に降臨された山という」このような記事を見つけました・・筑豊人としてロマンを感じる記事です。(本文を紹介します。)

笠置山の山頂は平地で三角点がある。
太宰府県立自然公園の標識がある。

この山に中世の山城があった。
宗像氏が永禄十一年築城したが、この地方の豪族との軋轢(あつれき)を経て秋月氏が端城として使っていた。

本丸、二の丸、空堀・などの跡が残る。

宮田町宮田にある天照御魂神社は元はここにあったと資料にあったが、それらしい形跡はない。

天照御魂神社の祭神は饒速日命で、神武天皇が祀ったと伝える。

饒速日命は日本書紀では、天照大神の命で天磐船にて河内に天下る。

しかしここには最初に降臨されたのが笠置(笠木)山であったと書く。

そして宮田町には天照御魂神社上宮、中宮、笠城権現社などがありこの神を祀っている。

神代史論の一つによれば、饒速日命は遠賀川流域の鍛冶集団であった物部氏が、遠祖として祀っていた。物部氏の一部はやがて新天地を求めて出雲を経て(国譲りして)大和に進出していく、神武東征前のことである。

遅れて神倭磐余彦(神武天皇)は日向から瀬戸内海を経て大和へ向かう(神武東征)ことになる。

そして先着の物部氏の抵抗に合う云々。

この神社の縁起では、神倭磐余彦(神武天皇)が饒速日命を祀ったとなっているが、
饒速日命は神倭磐余彦の大和進出を妨げた神である。分からない???。

神代史は私には山よりも苦しい。
(ホームページのブログより)


又、『筑豊を歩く』という本の中からはこんなことが記載してあった・・・これまたロマンを掻き立てる記事でした。

笠置山

笠置山と人間の関わりは古く、一帯で産出される小豆色をした輝緑疑灰岩は、弥生時代の遺跡として知られる、飯塚市の立岩遺跡に見られる石包丁製作の原石地として知られ、採集地であったと思われる。

また、垂仁天皇十六年に饒速日命(にぎはやひのみこと)が笠置山に降臨されたと伝えられ後に千石・明野(脇野)、磯光と遷る磯光天満宮の故地でもある。

笠木(笠置)城跡は城の正面にあたる大手を南の嘉穂盆地にとり、背後から宮田町千石峡を搦手(からめて)とした山城で、本丸・二の丸・三の丸のほか、空堀・石塁・なども見られる。

戦国時代には、眼下に広がる嘉穂盆地のうち、飯塚市庄司にあった葛山城、ニ瀬から幸袋にかけての白旗城と合わせて防衛線を築いていたと考えられる。

白旗城のあった白旗山には、江戸時代初期に小堀遠州好のみの窯跡として知られる高取焼きの白旗窯があり、その作品は、同じ高取焼の流れをくむ千石焼とは趣おことにしている。

笠木城の築造年代については不明であるが、一五六八年(永禄十一)年に近隣宗像地方を中心に勢力を伸ばし、鞍手地方にも力を持っていた宗像氏によって既に築造されていたことがしられており、何らかの理由により宗像氏の手を離れ、秋月氏に移ったことが江戸時代の『筑前国続風土記』に記されている。

1981年 千石公園に炭鉱犠牲者の復権を願って『復権の塔』が建立された。
『筑豊を歩く』より抜粋


立岩遺跡(たていわいせき)

立岩遺跡は、標高四十メートルほどの小高い丘に散在する下ノ方、焼ノ正、堀田の各遺跡の総称である。この丘は石包丁など石製品の製造販売を核とする工業国の中心であったの
だろう。堀田遺跡(写真右)の甕棺墓から連弧文鏡、重弧文鏡など十面の前漢鏡、銅矛、鉄剣などが出土し、立岩遺跡は三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡と同様に弥生時代中期の
遺跡とみられている。石包丁等は近くの笠置山から採取された岩石を材料としたもの。
九州一円に分布する石包丁の一大生産地であった。石製品は石包丁にとどまらず、石剣、石鎌、石戈等多種多様な石製品が生産され移出された。これほどの規模を持つ国が魏志倭人伝等の文献に登場しないのはまったく不思議である。たぶん伊都国や奴国が栄えていた一、二世紀ころには立岩は衰退し、産業活動にも精細を欠いていたのかもしれない。つまり、立岩遺跡は青銅器鋳型が出土しているものの、その多くは石製品に特化しており、この工業国は鉄器が主流の時代に至っても産業転換が進まなかったのかもしれない。

垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇二九年一月一日(紀元前六九年一月二六日)

垂仁天皇九九年七月一四日(紀元後七〇年八月八日)は『古事記』・『日本書紀』に伝えられる第十一代の天皇(在位:垂仁天皇元年一月二日(紀元前二九年)
垂仁天皇九九年七月一四日(紀元後七〇年)。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊。
『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、『常陸国風土記』に伊久米天皇、『令集解』所引「古記」に生目天皇、『上宮記』逸文に伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王と見える。
『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強く、その史実性については多分に疑問である。

饒速日命(にぎはやひのみこと)代氏の祖伸

御名・・天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

葛山城(摺鉢山城)

福岡県飯塚市庄司秋月氏築城。笠木山城の出城。

白旗城

福岡県飯塚市庄司(ニ瀬から幸袋)笠木山城の出城。

小堀 政一(こぼり まさかず)は、江戸時代前期の近江小室藩藩主。

茶人、建築家、作庭家としても有名であり、遠江守に任じられた事から、一般には小堀遠州(こぼりえんしゅう)の名称で知られている。幼名を作助、元服後、初めは正一、後に政一と改める。道号は大有宗甫、庵号は孤篷庵。正室は藤堂高虎の娘。子に小堀正之、娘(池田重政室)らがいる。
天正七年(一五七九年)、小堀新介正次の子として生まれる。幼名は作助。父・正次はもともと近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であり縁
戚でもあった。しかし政一が生まれたのは、浅井家が織田信長により滅亡し、正次が長浜城主羽柴秀吉に取り立てられ、秀吉の弟秀長に仕えていた頃である。天正十三年(一五八五年)、秀長は郡山城に移封され、正次は秀長の家老となり、政一もともに郡山に移った。
この頃秀長は山上宗二を招き千利休にも師事しており、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。
小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め利休とも出会っている。
また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく没したため、文禄四年(一五九五年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。
ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになる。
慶長三年(一五九八年)秀吉が没すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。
正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、備中代官として松山(現・岡山県高梁市)に赴く。慶長九年(一六〇四年)の父の死後、政一はその遺領一万二四六〇石を継いだ。
慶長十三年(一六〇八年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により従五位下遠江守に叙任される。
以後この官名により通称・小堀遠州と呼ばれる。
居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、六角越後町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和三年(一六一七年)に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。
元和五年(一六一九年)九月、近江小室藩に移封され、さらに元和八年(一六二二年)八月に近江国奉行に任ぜられる。
ここに陣屋を整備し茶室も設けたが、政一はほとんど使わなかったと考えられている。元和九年(一六二三年)十二月にさらに伏見奉行に任ぜられ、豊後橋(現:観月橋)北詰にあたる新たに奉行屋敷を設け、その後ほとんどここを役宅として暮らしたからである。
晩年になり、真偽は不明であるが、公金一万両を流用したとする嫌疑がかかったが、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされた。その後も伏見奉行を務め
ながら茶の湯三昧に過ごし、正保四年(一六四七年)二月六日、伏見奉行屋敷で六九歳の生涯を閉じた。子孫は松平定信により、天明八年(一七八八年)改易の憂き目に逢っているが、旗本としては家名は存続された。

宗像氏(むなかたし)とは、筑前国の古族である。

出雲神の嫡裔、大国主命の神裔として伝えられ、天照大神と素戔鳴尊の誓約によって生まれた宗像三神を祭神とする全国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家を中核とする。
宗像氏は、正三位中納言清氏親王を祖とするが、伝承の域を出ない。九一四年までは、
胸形氏、宗形氏、胸肩氏等と表記された。
また、平安時代末期辺りから武士化し、戦国大名としても活躍した。
戦国時代に宗像氏貞をもって大宮司家が断絶した。
また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落を意味する。

この様に、古代史の物語が筑豊地区に多いのも何かの関連付けがあるのではと思われる。

『邪馬台国東遷説』

すなわち邪馬台国と大和朝廷は連続したものであり、九州邪馬台国が東へ移動し大和朝廷となったとする説を裏付ける有力な証拠として、九州北部と大和地方に見られる“地名相似”があります。

九州北部では、笠置山を拠点として右回りに
笠置山→田原→山田市→上山田→鳥屋山→杷木町→浮羽町→星野→鷹取山→朝倉町→甘木市→高田→三輪町→小田→三井→池田→御笠→御笠山→笠置山
という地名が円を描いて並んでいますが、

大和地方でも、
笠置→笠置山→田原→山田→上山田→鳥見山→榛原町→音羽町→吉野→高取山→朝倉→大和→大和高田→三輪町→織田→三井→池田→三笠山→笠置
と極めて似通った地名が並んでいるのです。

これは到底偶然の一致で済まされるレベルではなく、これらの地名を名付けた人々に何らかの共通点があるのは明らかであり、おそらくどちらかから移住して来た人々が新しい土地に故郷と同じ地名を付けた、と見て間違いないでしょう。

私が調べた一連の流れが、本当に筑豊地方であったとすれば、ロマンを感じずには???