第2話 聖光上人と明星寺
聖光上人と明星寺の関係については上人の伝記に記されているとおりである。
彼が明星寺の学僧常寂を訪ねて明星寺に住したのは治承2年(1178)のことであり、彼と明星寺との関係の発端となったようである。
その後衰退しゆく明星寺の再興に力を尽したことは、彼と明星寺との関係をさらに深めてついには聖光上人の明星寺の感を強くするに至った。
確かに明星寺それ自体の資料となるものはきわめて乏しく、早く廃寺となった明星寺に関して幾っかの文献にその寺旧蹟としてであつたようである。
いずれにしても虚空蔵堂を語るすべもなく、わずかに所在を示すに過ぎない廃寺が全国でも数多いことを思えば、なんとしても明星寺にとっては切りはなすことのできない条件とも考えられるようである。
ただ注意すべき点は明星寺のすべてが聖光上人との関係を説明し尽しているのではなく、いいかえると明星寺の縁起の中に上人との関係がある時期において深かったということである。
「此寺中比頽して修理する人なかりしに、聖光上人是をなげき再興を志し……(筑前国続風土記)」と益軒も述べているように、聖光上人以前にすでに彼が学業を志して入山した明星寺があり、そのころすでに衰運におもむいていたことは諸書にも明白である。
そのことは彼以前に明星寺開基の年代がさかのぼることを教えているものである。
さらにまた彼以後に廃絶するまで幾ばくかの歳月を重ね存続したことも容易に推察されるのである。
以下、聖光上人との年代を中心として、その前後の年代を推論して明星寺の縁記を組立ててみよう。
(鎮西村誌より抜粋)
明星寺
明星寺村にあり。平壽山妙覚院と号す。天台宗也。
開基の時代分明ならず。
比叡山の末寺にして、虚空藏を本尊とす。
此寺中此頽破して、修理する人なかりしに、聖光上人(弁長と号す。仁元年に寂す。筑前の人なり。行年六十四暦)是をなげき再興をこころざし、大日寺山に入りて樹を切とり、路に三層の塔を立ける。
されば昔は大寺にて、堂舎敷多く、いといかめしき伽藍なりしとかや。
いまはただ虚空藏堂(昔は方九間の瓦堂也。今は横二間、縦三間の堂あり。
当村の田の字に虚空蔵田など云て、昔の祭田の名残れり。
地蔵堂(昔は方四間の堂なり。今は方一間半の堂あり。)
薬師堂(今横二間縦三間の堂あり。薬師田とて祭田の名残れり。)のみ残れり。
此外阿弥陀堂(方四間の堂に阿弥陀安置せりと云。あみだ田とて、今も田の字に祭田の名残れり。)
観音堂(方四間の堂なりしと言い伝えたり。今に田の字に観音田とて祭田の名残れり。)
鐘楼(方二間の楼なりしと云い伝ふ。田の字に鐘楼田の名残れり。)など皆圃と成りて、ただ其の名のみ残りぬ。
湯屋池と云小池の形ある所あり。今竹林しげりて、池の形もさだかならず。
中に小島ありて石仏を安置しぬ。
此の池に明星の光怪しく映ぜし故に、寺号とせしとと云い伝わり。
又、昔は此の寺に十二坊ありしが、今は圃と成り、或民宅と成りて其の名のみ残れり。
(十二坊は本坊、是則座主坊なり。妙覚坊、籠蔵坊、俊光坊、定壽坊、楠田坊、花坊、横谷坊、峰坊、谷坊、土坊、春海坊是也。)此十二坊各当村の田地を以って、其産とせしと云。今此所を見るに、所々に古跡のこりて、むかしの繁栄を思ひやられ待る。
虚空藏堂の前には櫻の木数株あり。凡此寺は山上なれぱ、堂前の跳望目をよろこぱしむ。
堂を下るに石階百八段あり。鐘のこゑを表せりといふ。
此寺ありし故、今も村の名を明星寺と云。
此村の境内日敷が原と云所に松樹あり。
是は聖光上人、豊前彦山に参詣せし度ごとに植し松なる故に、日数原といヘり。
(以上は筑前国続風土記 巻之十二より抜粋)原文のまま記録する。