旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

鎮西村宗教史(仏教編)

2013年06月22日 00時51分37秒 | 鎮西村の仏教史
第2話 聖光上人と明星寺


聖光上人と明星寺の関係については上人の伝記に記されているとおりである。

彼が明星寺の学僧常寂を訪ねて明星寺に住したのは治承2年(1178)のことであり、彼と明星寺との関係の発端となったようである。

その後衰退しゆく明星寺の再興に力を尽したことは、彼と明星寺との関係をさらに深めてついには聖光上人の明星寺の感を強くするに至った。

確かに明星寺それ自体の資料となるものはきわめて乏しく、早く廃寺となった明星寺に関して幾っかの文献にその寺旧蹟としてであつたようである。


いずれにしても虚空蔵堂を語るすべもなく、わずかに所在を示すに過ぎない廃寺が全国でも数多いことを思えば、なんとしても明星寺にとっては切りはなすことのできない条件とも考えられるようである。

ただ注意すべき点は明星寺のすべてが聖光上人との関係を説明し尽しているのではなく、いいかえると明星寺の縁起の中に上人との関係がある時期において深かったということである。

「此寺中比頽して修理する人なかりしに、聖光上人是をなげき再興を志し……(筑前国続風土記)」と益軒も述べているように、聖光上人以前にすでに彼が学業を志して入山した明星寺があり、そのころすでに衰運におもむいていたことは諸書にも明白である。

そのことは彼以前に明星寺開基の年代がさかのぼることを教えているものである。

さらにまた彼以後に廃絶するまで幾ばくかの歳月を重ね存続したことも容易に推察されるのである。

以下、聖光上人との年代を中心として、その前後の年代を推論して明星寺の縁記を組立ててみよう。

(鎮西村誌より抜粋)



明星寺


明星寺村にあり。平壽山妙覚院と号す。天台宗也。

開基の時代分明ならず。

比叡山の末寺にして、虚空藏を本尊とす。

此寺中此頽破して、修理する人なかりしに、聖光上人(弁長と号す。仁元年に寂す。筑前の人なり。行年六十四暦)是をなげき再興をこころざし、大日寺山に入りて樹を切とり、路に三層の塔を立ける。

されば昔は大寺にて、堂舎敷多く、いといかめしき伽藍なりしとかや。

いまはただ虚空藏堂(昔は方九間の瓦堂也。今は横二間、縦三間の堂あり。

当村の田の字に虚空蔵田など云て、昔の祭田の名残れり。

地蔵堂(昔は方四間の堂なり。今は方一間半の堂あり。)

薬師堂(今横二間縦三間の堂あり。薬師田とて祭田の名残れり。)のみ残れり。

此外阿弥陀堂(方四間の堂に阿弥陀安置せりと云。あみだ田とて、今も田の字に祭田の名残れり。)

観音堂(方四間の堂なりしと言い伝えたり。今に田の字に観音田とて祭田の名残れり。)

鐘楼(方二間の楼なりしと云い伝ふ。田の字に鐘楼田の名残れり。)など皆圃と成りて、ただ其の名のみ残りぬ。



湯屋池と云小池の形ある所あり。今竹林しげりて、池の形もさだかならず。
中に小島ありて石仏を安置しぬ。
此の池に明星の光怪しく映ぜし故に、寺号とせしとと云い伝わり。

又、昔は此の寺に十二坊ありしが、今は圃と成り、或民宅と成りて其の名のみ残れり。
(十二坊は本坊、是則座主坊なり。妙覚坊、籠蔵坊、俊光坊、定壽坊、楠田坊、花坊、横谷坊、峰坊、谷坊、土坊、春海坊是也。)此十二坊各当村の田地を以って、其産とせしと云。今此所を見るに、所々に古跡のこりて、むかしの繁栄を思ひやられ待る。

虚空藏堂の前には櫻の木数株あり。凡此寺は山上なれぱ、堂前の跳望目をよろこぱしむ。

堂を下るに石階百八段あり。鐘のこゑを表せりといふ。

此寺ありし故、今も村の名を明星寺と云。

此村の境内日敷が原と云所に松樹あり。
是は聖光上人、豊前彦山に参詣せし度ごとに植し松なる故に、日数原といヘり。

(以上は筑前国続風土記 巻之十二より抜粋)原文のまま記録する。




鎮西村宗教史(仏教編)

2013年06月18日 12時10分17秒 | 鎮西村の仏教史
第1話 鎮西村宗教の今昔


西の比叡とうたわれた天台宗の一大道場であった鎮西の地は、浄土宗第二祖鎮西国師の高徳により一層隆昌をみた。

このことは、鎮西村宗教の輝かしい特質としてあげられる。

秀峯龍王の東山麓、鎮西村一帯は、昔仏教伝道の地として栄えたところであった。

老杉青松の丘に丹青の堂塔が甍を並べ、寺々の梵鐘の音は、谷を巡り里に流れ仏心を衆生に伝えたと思われる。

隆昌の原因を地域よりみれば、当時西海の政治文化国防の中心地太宰府とは、龍王山を隔てて近距離にあり、海陸交通の拠点博多港とは、八木山峠により結ばれていた。

そのうえ嘉穂盆地南北の中央、西の境にあり、眼下はるかに平地が開け、東方、北方の交通もいたって便利であった。



仏教伝道のうえから考察すれば、太宰府には、勅願寺観世音寺があり、全国の僧侶と関係が深かった。

したがって、この地とも接触が多かったと考えられる。

以上のことから、ようやく日本化され布教の期にあった仏家たちが、ここを適地として選んだものと、思われる。

昔、明星寺を本寺とした、舎利蔵・大日寺,・蓮台寺・建花寺一帯は天台宗の教地として栄えた。

仁安3年(1168)鎮西上人が七才のとき、今の八幡市香月から大日寺の地に、菩提寺の妙法法師を訪ねて勉学にこられ、以来21才まで、この地で修業を積んだと伝えられる。


鎮西上人が修行した“金剛禅寺”址の写真(昭和38年頃)


明星寺五重の塔建立の勤行など上人がこの地に印した偉大な業績は、ひろく大衆の帰依するところとなって仏教の隆昌は往時をしのいだ。

今に残る飯塚・木屋ノ瀬の地名は、昔日の面影の一端である。

800年前の上人の高徳が今もなお里人の心に伝わり、鎮西村の名称が生れたといわれる。

浄土宗に帰依改宗後の上人のこの地の消息は明らかでない。

さて再度の隆昌をみた仏教の地も栄枯盛衰は世の習いの例にもれず、光妙・安養の二寺はあるが、昔の面影をしのぶものはほとんどない。

 


静かな山麓の所々にわずかに残る跡を訪ねると、岩にしみ入る虫の音にも感慨無量のものがある。

(鎮西村誌より抜粋)


今に残る飯塚・木屋ノ瀬の地名の由来



○ 県央・飯塚の地名のおこり

五重の塔ができ上ったので近郷の善男善女がお祝いのご飯を持って参り、食べもしたが集たご飯の白い山はいっこうに滅らずついにご飯の塚(飯塚)ができた。

しかし、現在では甍は無く、貝原益軒筑前国風土記に伝わるのみです。

これが飯塚のおこりでそこを飯の山といっている。

その場所が器運山太養院(飯塚市本町)であったが後今の地にうつた、また京都から持ち帰った菩提樹の杖を立てていたのが芽を出して茂ったが、今北谷と南谷との間にある菩提樹である。

(鎮西村誌より抜粋)


○ 木屋ノ瀬(八幡市小屋ノ瀬)

このように勉強した上人はまだ勉強したいと比叡山にのぼり,仏教の奥義を学んだ。

そして帰郷し明星寺に五重の塔を再建するため全国行脚に出発し、建立の材木も毎日
遠賀川をのぼり・木材運びの人夫が休むたびに木材の山ができたので
木屋ノ瀬(鞍手郡いまは八幡市)の名がついた。

(鎮西村誌より抜粋)



光妙・安養の二寺はある・・


○ 光妙寺(蓮台寺)

蓮台寺字本村にあって天照山という。

本尊阿弥陀如来、本堂横四間、入四間、昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。

寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。

当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。

時に慶安2年(1649)「7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一宇を建立したということである。

たまたま昭和三七年,境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、340年前の面影をしのび恭しく納骨堂の階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。

十一世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。

○ 安養院(建花寺)

建花寺字荒巻にあり、報土山と号し、本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。

この寺は、昔、現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって、仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。

安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀2年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。

その後・建久3年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師により、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。

後天正9年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ、元禄二年(一六八九)現在の地に一小宇を再興したということである。

現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。

鎮西村誌より抜粋


まず、鎮西上人の偉業を記録したく仏教編から纏めてまいります。

筑前国続風土記 巻之十三(磯光村・天照宮)

2013年06月09日 10時30分46秒 | 天照伝説
天照宮(鞍手郡磯光村)


礒光村にあり。

俗読、天照大神といへども、いにしへ従五位下を授られたるを見れば、天照大神にあらず。

瓊杵速日尊也。瓊杵速日尊を天照大神といひたる事、奮事記にあり。

いつのころよりか、八幡大明神春日大神をも、相殿に祭りたてまつる。

むかしは笠木山の上に鎮座ありしか共、老幼の輩参詣のわづらひあればとて、麓にうつす。

宮田村の枝村千石原と云所の上、谷の中に今も其あとあり。

今其所を佛谷といふ、是は山上に神社ありし時、稲の初穂を麓の谷にかけて祭りしゅゑ、穂懸といひしを、訛て佛谷といふなり。

箕後神勅ありて、鶴の一番住所に、遷座したまふべきとの御告あり。

因て其瑞を見るに、鶴田村に白鶴雌雄二居ける所あり。

終に其所を御廟地と定む、今の神廟の地是他。此社むかしは鶴田村の境内也しが、礒光の田地、鶴田村の近邊にありて遠く、鶴田の圃、礒光の村際にありて遠かりし故、たがひに耕作の便よろしからずとて、近年農民共各相替へて、其の地を耕作せり。

故に天照宮のまします所は、むかしのまゝなれど、今は礒光村の境内となる。鶴田村も、本より天照宮の敷地也。

鶴田といふも、白鶴田の中に栖し故、是に りて村のなとすと云。

大凡此御神は上代より鎮座ましまし、住昔は御宮造もいかめしく、神領多くして、
年中の祭禮其数しげく、祠官も数多ありて、是を勤行ひけるとかや。

按ずるに、三代實録に、陽成天皇元慶元年十二月十五日、筑前國正六位上天照神に、從五位下を授たまふとあり。此御神の事ならし。

徳治三年造營有し棟札あり。

延寳八年庚申に、敷地の人々相共にはかりて、新に神殿を改め作り。禄元六年直方の家臣、小川権左衛門氏信、石鳥居を創立す。

粥田庄の惣社にして、礒光、鶴田、龍徳、宮田、大隈、尾崎、兵段(ひょうたん)、皆天照宮の敷地なり。

先年直方の頒主黒田長清君の命をうけて、篤信縁記を作りて納めける。

(貝原 益軒著 筑前国続風土記 巻之十三より抜粋)


ひもろぎ逍遥・天照神社(1)

浦嶋神社縁起書

2013年06月08日 22時48分27秒 | 御伽噺
「浦嶋神社縁起書」


浦嶋子雄略天皇の御世二十二年(西暦478年)七月七日に美女に誘われて常世の国に行き、その後三百年を経て淳和天皇の天長二年(西暦825年)に帰って来た。

常世の国に住んでいた年数は三百四十七年間で、淳和天皇はこの話を聞いて浦嶋子を筒川大明神と名付け、小野篁を勅使として、勅宣を述べたうえ勅命を承って宮殿を御造営し、ここの筒川大明神に鎮座された

続・竹林の宮愚人
・・浦嶋明神縁起絵巻

浦島太郎伝説


「水江浦嶋子」

当時この物語の主人公は「水江浦嶋子」つまり、「水江の浦」に住む「しまこ」という人物だったようです。「丹後国風土記」は彼の住所を丹後国与謝郡日置里筒川村、「日本書紀」は丹波国余社郡管川、と記しています。

「丹後国」は和銅六年(七一三)丹後の五郡を割いたものであり、「日本書紀」はそれ以前の形を留めているだけで同一の地名、現在の伊根町が浦嶋の故郷だったのです。

「亀を助けなかった浦嶋」

亀を助けた話が初めて出てくるのは、近世を過ぎてからのことで、「丹後国風土記」では、次のように記しています。

浦嶋子はひとり小舟に乗って釣りをしていました。

しかし、三日三晩たっても魚は一匹もつれません。あきらめていた矢先のこと、浦嶋子は五色の亀を釣り上げました。

舟の中で居眠りをしている間に、亀は美しい乙女の姿になっていました。

乙女は、目を覚ました浦嶋子を蓬莢の島に誘います。

蓬莢の島に着いた浦嶋子は、乙女が彼を門前に待たせて内に入っている間に七人づれ、八人づれの子供たちに会います。

その子たちが、亀姫の夫だと囁きあっているのを耳にした浦嶋子は、乙女が亀姫(神女)だと知ったのです。

古くは、亀は乙姫の遣いではなく乙姫自身だったのです。

「浦嶋子は常世の国で-神婚物語の結末-」

亀に姿を変え、美しい女性の姿をした神に誘われ、浦嶋は神の国を訪れました。

この訪れた先のことを「万葉集」では「わたつみの神の宮」また「常世」と呼んでいます。

一方「日本書紀」は「蓬莱山」(とこよ)、「丹後国風土記」は「蓬山」(とこよ)と呼び、龍宮城の名前が見られるのは中世のお伽草子以降です。

浦嶋子は神の女性を妻にして、きらびやかな大宮殿で暮らしていましたが、三年が過ぎた頃故郷を思い出します。亀姫は開けることを禁じて自分の玉櫛笥(=玉手箱)を手渡し、見送りました。

櫛を入れる玉櫛笥は霊力を持つもの、己の分身と考えられました。

つまり、浦嶋子は亀姫(おとひめ)の分け御霊を手渡されたのでした。

やがて故郷に戻った浦嶋子は変わり果てた風景に驚き、出会った老女に尋ねてみると「三百年も昔、嶋子という人が海に出たまま帰ってこなかったという言い伝えがある」と告げられ、途方に暮れます。

そして、寂しさがつのり亀姫を想うあまり、玉櫛笥の蓋を開けてしまいます。すると中から白煙がたち昇り、年老いて死んでしまいました。

浦島 太郎の物語はこの様なものです、現実離れしたお話ですが現在に伝わっていることは・・何か想いがあった事だと思います。


筑豊の古代史(石包丁)

2013年06月08日 17時21分41秒 | 天照伝説
○ 笠置山


笠置山と人間の関わりは古く、一帯で産出される小豆色をした輝緑疑灰岩は、弥生時代の遺跡として知られる、飯塚市の立岩遺跡に見られる石包丁製作の原石地として知られ、採集地であったと思われる。

また、垂仁天皇16年に饒速日命(にぎはやひのみこと)が笠置山に降臨されたと伝えられ後に千石・明野(脇野)、磯光と遷る磯光天満宮の故地でもある。

『筑豊を歩く』より抜粋


○ 立岩遺跡の石包丁


遠賀川流域と他地域との交流がかなり広範囲に亘っていたことは弥生前期から中期と見られる石包丁の分布からも窺われます。石包丁は稲作の渡来とほぼ同時期あるいは遅れたとしても稲作の渡来からそれ程遅れない時期に列島に渡ってきたと思われる、かまぼこ型をした薄型の石器です。

直線に近い部分に二つの穴が開いていますが、この穴に紐を通して手の指に握るようにして、丸くなった側で稲の穂を摘み取るように刈入れていたと考えられています。

当時は現在のように根本近くから刈り取るのではなく、実った穂だけを摘み取っていたようです。
 
この石包丁が北部九州の各地から出土しているのですが、初期には加工しやすい頁岩質の砂岩で出来たものが多く出土するのですが、この石は脆いため包丁としての寿命はそれ程長くなかったと思われ、後の時代になると硬い輝緑凝灰岩製の石包丁の割合が増えていきます。

輝緑凝灰岩は比較的広く各地に見られる岩ですが、包丁に加工した遺跡は立岩周辺の他では見つかっていないことから、立岩で加工されて各地に運ばれたものと考えられております。立岩の西北6Kmに位置する笠置山からは加工途中の石包丁の半製品や石屑が見つかっており、ここが石包丁の加工場であったと考えられております。

立岩式石包丁は北部九州のほぼ全域に亘って分布が見られるのですが、立岩以外から見つかった立岩式石包丁の全体を100として各地域に分布している比率を見てみますと、板付・須玖を中心とした福岡平野と朝倉地区が夫々25%強と最も多く、立岩から搬出された石包丁の半数強は峠を一つ隔てた福岡平野や朝倉地域に運ばれたことが分かります。

次いで大分県の宇佐地域が15%と高い割合を占めております。

この三地域だけで四分の三となり、当時の交流の様子を窺うことが出来ると思われます。

一方、同じ筑豊地域でも嘉穂盆地の隣の遠賀川中流に位置する鞍手・直方では5%弱、遠賀川下流では1%程度と、至近の位置にありながら搬出量の割合が少ないことが注目されます。

また、地場製と見られる石包丁と立岩式石包丁との割合を比べて見ますと、立岩式石包丁の各地域における浸透具合が分かります。嘉穂盆地を除いて浸透度合いが高いのは筑後の60%、次いで朝倉が50%弱、福岡平野が35%程度となっております。

この比率も隣の鞍手・直方では35%程度、遠賀川下流では10%程度とそれ程高くないことは注目されます。

この二つの比率を元に、石包丁の相対的な出土数(≒消費量)から見た当時の各地の稲作活動を推定してみますと須玖・岡本を中心とした福岡地区が最大で、朝倉地区が続き、その他の地区は格段に少ない値になりました。

立岩遺跡より抜粋


上記のような資料を読むと、私たちの住んでいる筑豊平野は、古代にあっては素晴らしい文化を持っているように思う。

天孫降臨の主舞台がこの北九州にあるかのごとく『北九州説』が多く論じられるようになって来ている。

古代へのロマンが広がる一因ともなってきている。


旧・鎮西村(お祭り)

2013年06月07日 19時38分30秒 | 地域のお祭り
○ 万年願のまつり(潤野上区)


潤野上区に伝わる万年願の祭りは、敬神の念が里人の生活に融合したものである。

輸番の当番では、潤野鉱入口の堀店の裏に祭壇を作り四すみに竹を立てしめなわを張り竹にそれぞれわら籠を結び中にお供えを入れる。

また万年願の軸を掛けて馳走の用意をする。昔は酒は手づくり、さかなは川魚と定められ一斗入りの新穀の俵を床に供えた。

神官は代表を従え、座元、宝満宮、二叉川祭壇の順にお祓いをしてお祈りをする。

この式が終り座元の家に引き上げ、各戸から出て待っている戸主たちと酒杯をかわし馳走を食べる。

タベは青年主催で万年願の踊りを踊る。昔は老若男女が参加し「十五夜の月は、まんまるにござれ……」と歌って祓いの順にまわった。

二宮医院の近くに草地があるがこの所で踊るのは次の伝説によるのである。

「二叉川のふちに住む大蛇が人々をなやますので、宝満宮の山伏に退治てもらいこの地にうずめた。その供養であると」

 


大村与一郎氏談


* 万年願・・感謝の思いを万年後も伝えるために奉納する「万年願」の祭り

山口県豊田町の亀ノ尾山八幡宮に奉納された江戸時代に流行した疫病退散のための鶏頭踊が万願祭の始まり。

万願祭(まんがんさい)[春-行事] 別名⇒願解踊(がんげおどり)、願解祭(がんげさい)、鶏頭踊(けいとうおどり)、万年願(まんねんがん)万年願という無病息災を祈る祭事で奉納される。

江戸時代の宝暦年間(1950年)、若宮に疫病がはやり、多くの人が犠牲になりました。

当時の宮永村では、疫病をなくすため、万年願といって、神に願をかけました。

その願いがかなったので、そのお礼に踊りを神前で奉納したのが始まりといわれています。

病気平癒のために万年願をかけ、それがかなえられたお礼として、神前で 踊り奉納したのが始まりといわれています。

○ 水祖神杜(明星寺・八木山)


龍王山頂にあって雨乞いの神としてあがめられている。

昔から干ばつの際は神前で雨乞いの行事をした。

神酒を供えかがり火をたき雨が降るまでお籠りを続ける。

明星寺民が4組に分かれ一昼夜交代でこれにあたった。

川辺拓氏談


またこの行事は八木山地区も行なっている。

○ 五穀神の祭事(建花寺荒巻)


建花寺地区に今も続いている。4月15日、神官が田土および御幣を神前に供え五穀豊穣を祈願し区民は参列する。供えた土および御幣を区長宅に保管しさらにこれを各戸に分ける。

   

  


8月7日早朝各戸では御幣を田に立て土を入れて成長する稲をほめ豊じょうを祈る。

これ田ほめの式という。素朴な行事の中に土に感謝し神に祈る気持があふれている。

関幾次郎氏談


浄地を牛馬のつなぎ場、勝手な物置場としてけがせし為なり。」と言ったので一同は驚いて浄化の祈とうを願いこの神を祭る。

* 「田ほめ」田ほめはたわわに実った稲穂を見て田を誉める行事

田んぼにお酒をふって稲の実入りを誉めてまわる「田ほめ」行事の時に田のあぜにゴザを
敷いてのっぺい汁を食べます。他に塩さば、ちくわ、かまぼこ、てんぷらなども食べていました

田ほめの節句として、当日酒を持って田に出て、田にこれを供え、自分も飲み田をまわって「よか田ができた」とほめ、二百十日の厄日を前にして稲の豊穣を祈る。

農業者心得に、「作物田畑をかわいがり常に見回ることを怠らぬ」という個条があり、「うちの田はいい田だ。立派な稲を育ててくれる」と「田褒め」をしながら見て回ることが良い米を作る在り方だと教えられている。これは人の心が農作物にも通じるということであり、「一切は鏡である」という真理の表れでもある。

中干しを終えて稲の姿勢が整って清々しい。この時期にある祇園祭の日には、田んぼには入らずに畦をまわって“田褒め”をしてきたというが、この言い伝えもよく理解できる。
○ 石坂神杜(八木山)


郡誌に「石坂通路の左右に大岩あり、大己貴命を祭る。古来この大岩の神体なることを知る人なかりしに、明和四年(1767)国中に蝗災(いなごのわざわい)あり、里民皆憂い歎きし折節、里人に夢想ありて、大岩の左右にある小石を取り田の水口に置かば蝗災消失すべしとありしより、聞伝え国中の庶人争って此所に来り小石を反に一つ宛とて持帰取り田一り田の水口のに入る。後郡中蝗退散して秋実常に異なることなかりしと云ふ。」とあり、またこの神は牛馬病気の神で昔は沢山の草鞋が供えてあった。いま石の石像を奉納して神徳を称えている。

○ 大行事さま(花瀬)


道を隔てて納骨堂と対称の位置に祭ってあった。その跡は広さが二畝あまりで、老木が数本残っている。昭和7年(1932)9月建物を宝満官にうつした際、一石に一字ずつ経文を写した石が数多くでた。

この小石は納骨堂横に埋め上に「於花瀬二九○番地高木神杜跡発掘」と刻んだ小碑をたてた。高木神社を「大行事さま」とよんだ訳はわからない。」

この神は作神で毎年6月20日ごろ、灌概用水賂掃除の後に神前で祭事を行ないお籠りをする。

本杜は彦山高住神杜で、年に一回代表が交代で参拝している。


旧・鎮西村(六地蔵)

2013年06月07日 16時52分12秒 | お寺と本尊
六地蔵


今から200年前、建花寺村から吉川村に越す峠に山賊が出て、旅人を悩ませたのです。

黒田藩の武士が捕らえて打ち首にしたところ、山賊どもの往生が悪く幽霊となって迷い出た、そこで地蔵菩薩を六体刻んで供養したといわれるが、いつしか子供の病気、特に百日咳に効き目があるとつたえられ、前回祈願のため詣でる人が多く祈願成就の暁には、はったい粉やよだれかけを供えている。
(鎮西村誌より)


六地蔵て何だろう??

笠地蔵に出てくるお地蔵さんは何体だったでしょう。

地域によっては数が異なっているようですが、たいていの人の記憶では六体ではないでしょうか。

また、実際にお地蔵さんが複数祀られているところを見ると、六体という数が多いのに気がつくと思います。

この六体という数は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六界のこと)から来ています。

平安時代、命は六道を転生するという「六道輪廻」の思想が広まると、人界だけではなく、六道全てにおいて救済してくれる存在として、地蔵菩薩が六道それぞれに現れる(これを「六道能化」という)という六地蔵信仰が盛んになりました。

これらの地蔵にはそれぞれ名前がついています。

『覚禅鈔』の例を出せば、先の六道の順番で、大定智悲・大徳清浄・大光明・清浄無垢・大清浄・大堅固という名前がつけられています。

これらは、持ち物などで姿からも区別されます。

六地蔵は墓地の入り口などに多くあるのは、死者の世界と現世との境である墓地に立って悪霊などの侵入を防ぐという、地蔵の「塞の神」的な性格も窺われます。

地獄に地蔵が救済に現れるという信仰は、この六地蔵信仰の一側面であるとも言えます。
また、石幢(せきどう)に六角柱のものが圧倒的に多いのは、この六地蔵信仰の表れです。

六地蔵(本当の意味)

日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。

これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。

六地蔵の個々の名称については一定していない。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合と、それぞれを金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合が多いが、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げている物もある。

いずれにしても、像容のみからそれぞれの地蔵がどれに当たるかを判別することはほぼ不可能である。

日本では、六地蔵像は墓地の入口などにしばしば祀られている。中尊寺金色堂には、藤原清衡基衡秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である。

六道(りくどう、ろくどう)は、仏教用語で6種類の世界のこと。仏教成立以前の古代インド思想を起源とし、原始仏教においてはさほど重大な意味を為さない。体系化が進行したのは後代と考えられる。

この世に生を受けた迷いのある生命は死後、生前の罪により、地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天道(てんどう、天上道、天界道とも)の6つのいずれかに転生し、これら六道で生死を繰り返す(六道輪廻)と言われている。

たとえ天道であっても、苦しみの輪廻する世界を脱することは出来ない。

諸行無常の原則により、どの世界に生まれ変わろうとも、何時かは死に絶え、別の世界(或いは同一世界)へ転生する宿命。

上記6種の世界は、須弥山世界観等においては、しばしば空間的領域として捉えられる。 この輪廻の道から外れたものを俗に外道(魔縁)という。

六道にはそれぞれ観音がおるとし、観音の導きによりその世界から救われるという来世的な観音信仰が生まれ、それらの観音を六観音と呼ぶ。なお天台宗真言宗では人間道における解釈が異なり、不空羂索観音准胝観音がそれぞれ置かれている。七観音と呼ばれる場合はこの2観音を含めた観音のこととなる。

尚、初期仏教の時代は五趣として、修羅(阿修羅)はなく、大乗仏教になってから六道となった。これらを一括して五趣六道という。

インド・中国起源ではないが、日本では11世紀ころ、六道の各々に配当された六地蔵が各所に祀られ、大いに庶民から信仰された。

こうして見ると山賊も皆さんのお役に立つことを遣っていることがわかった、お堂へ行った時は、供養だけでは無く、ご利益をお願いすることも大切だと思う。

旧・鎮西村(明星寺の菩提樹)

2013年06月07日 04時19分56秒 | お寺と本尊
天然記念物(明星寺のボダイジュ 一本)

飯塚市大手明星寺字河内八二六 


  


飯塚市の西南部、龍主山の麓に平寿山妙覚院と号する明星寺があり、この境内にボダイジュは所在している。

明星寺は、平安時代に開かれた天台宗の寺であったが、その後衰退し、のちに浄上宗第二祖聖光上人が寺を復興した。

全盛時は一二坊を数えたというが、戦国時代(石坂の戦い)の兵火で廃絶し、今は本七・地蔵堂・観音堂等があるだけである。

なお、境内には県指定の元享二(1322)年在銘法橋琳塀卒都婆がある。

  


ボダイジュは、寺院の庭などに植えられる中国原産のシナノキ科の落葉喬木で、枝分かれしてよく茂り、小枝には星形の細毛が密生する。

明星寺のボダイジュは、海抜100mの傾斜地にあり、周囲がスギ及びヒノキ林に囲まれ、南側は道路に接したところに生育している。

隣接して生育する数本のスギに陽光を一部遮られていたが、その後、スギは伐採されて、十分に陽光が当たるようになり、多数の萌芽枝が幹の基部や樹幹から発生している。

本樹は、多数の株立ちが見られ、予備調査では六本の枝分かれを確認したが、本調査では幹は四本であり、その形状は表十一のとおりである。

樹高は、17.5mであり、これは福岡県指定の最高の樹高を示す求菩提のボダイジュの19mについで二番日に大きいことになる。

胸高周囲は幹が根元で分岐しているため、最大のもので1.13mしかないが、根元周囲は4.5mと大きい。

なお、明星寺を復興した聖光上人が立てた杖が成長してこのボダイジュになったという伝説がある。

本樹の形状は、樹高では県内二番日の高さを誇るが、株立ちした幹であるために、幹の胸高周囲は最も小さい。

旧・鎮西村(鎮西八郎為朝の竜退治)

2013年06月06日 11時29分11秒 | 地域の伝説
地元に残る昔話として伝えられている、竜王山に纏わるお話として残っている。
大河ドラマ『平 清盛』の中で鎮西八郎為朝が出てきたが、豪快な人物とイメージがあり、地元の歴史の中に、この様に残っているとは奇遇でした。

竜王山(鎮西村誌の題材として掲載されていました。)

昔といっても今から八百年程も昔のこと、鎮西八郎為朝という弓の上手な剛の者がいたころの話てある。

そのころ、このあたりに竜王というとっても大きな竜が住んでいて、娘をさらったり・畑を荒したり・悪いことばかりして人を困らせておった。

それで剛の者の為朝がその竜退治をするということになった。

何本弓を射かけても竜王はびくともしなかった。

それで為朝は腹を立ててそれならこの矢を受けてみよといって、つぱを矢尻にはっかけて矢弦を満月のように引きしぼってから「エイ!!」と竜王目がけて矢を射った。

そしたら矢がヒユーンと飛んでもののみごとに竜王の眉問にあたったので竜王は「あいた〃」といってのたうちまわった。

そして死に物狂いで風を呼び雨を呼んで山に爪を立て尻ぽを地面にたたきつけて「工ーイ」と掛声をかけて天に昇った。

そのとき峰に五つへこみがてきたのが爪のあとでそれから竜王山と陣ぶようになった。

(古老の話)


竜王神社の水神



竜王神社は水神で、旱魃のとき祈願すれば霊験あらたかであった。

そこに祀られている龍は、鎮西八郎為朝の弓で殺された龍だという伝説がある。
 
源為朝は頼朝義経の父源義朝の弟で、頼朝の叔父になるが、身の丈2m を越える大男で傍若無人のため父為義に勘当され、九州に追放される。

豊後阿蘇氏の養子となり九州の大将、我こそは鎮西の追補使と自認した。

その頃のことである、為朝は得意の弓を携えて犬をつれて鶴見岳(大分県別府市)に猟に出かけた。

眠くなり木の下で眠っていると犬がけたたましく吠えたてる。

うるさいと怒って犬の首をはねてしまう。

ところが犬の首は飛んでいって、彼の背後に迫っていた大蛇に噛みついた。

やっと為朝は危急の事態を知り大蛇の首をはねた。為朝は犬のお陰で命拾いをした。
 
この大蛇が筑前のこの山まで飛んできて祀られた。

(参考資料)

● 由布院伝説考 其の三 ~源為朝・竜退治伝説

● 黒髪山の大蛇退治

● 黒髪山大蛇退治伝説

今では考えられないが、昔は面白く話が伝わり「鎮西八郎為朝の大蛇退治」が基になりこの様な話が創造されたのではないかと思われる。

大分八幡宮と筥崎宮・宇佐神宮との関わり

2013年06月04日 22時15分41秒 | 古代史
飯塚市と合併した、筑穂町にある大分八幡宮は神功皇后で有名ですが、筥崎宮・宇佐神宮とも大きな関わりがあることを皆さんご存知ですか??

私も建花寺の獅子舞の元祖が大分の獅子舞だと、村内の人から聞き、筑穂町大分に親しさを感じていましたが、此処にもこんな歴史があったことを知り驚いています。

大分八幡宮

大分村の中にあり。

日本國中にて八幡五所別宮の第一なり。

仲哀天皇九年十二月十四日、神功皇后糟屋郡字美邑にて、應神天皇を誕生したまひ、翌年の春都にのぼりたまはんとて、皇子を相具し、字美村より大口嶺乳呑坂を越、御腰掛を過て此地に留り給ふ。

則八幡宮のある所なり。

此所を宮の浦といふ。

かゝる霊跡なればにや、聖武天皇神亀二年、御託宣ありて、御社を立らる。

祭れる所の榊三座、中殿八幡大神、左殿神功皇后、右殿竈門山神なり。

はじめの宮所は、今の御社のうしろの山上一町ばかりにあり。今其所を嶽の宮といふ。

礎なほのこれり。近世今の所に移し奉る。御杜ば南にむかへり。

箱崎八幡大神もとは此肚におはします。

延喜二十一年六月二十一日、八幡大神の託宣によりて、是より箱崎にうつし奉る其事箱崎八幡宮のところに詳にしるす。

されど此所は、むかし神功皇后應神天皇のとゞまりたまひしところなれば、御社はそのままにて、もとの如く三神を祭り奉る。

或書に、この御神體は神功皇后の御腰にはさみたまひし石、怡土郡深江の邑子負原に在しを、のちに此社の神體とせしといへり。

しかれども今かの石此御社にはなし。

此社いにしへは大社にて、宮立尤いかめしく、祭田も多かりしに、中比乱世にて衰廃し、棲門末社もなく、神領も絶てなくなりぬ。

され共猶いにしへの跡のこりて、宮所いと廣く、御社のまはりに、しげれる森の木立も古めかしく、御社には小流ありて潔し。

石の鳥居は、寛永七年に長政公の家臣、小河久太夫が家禮、安部惣兵衛といふ者建立せり。

過にし庚午の冬、村民伊佐甚九郎といふ者、叉別に荷の鳥居を建立す。(額の大分宮の三字は、花山院前内府定誠公の筆なり。是元禄四年篤信が都に在しとき、乞によりて筆をそめたまえり。)

むかしは八月十五日に放生會を取行ひ、神輿を頓宮に移し奉る。

八幡宮より南四町許に、貴船の森あり。是神輿御幸ありし所也。今は此禮絶たり。

叉九月九日に流鏑馬神楽など有て、大なる祭を執行せしとかや。

今も其日には村民うちつどひ、それとばかりに祭禮を執行へり。

比御社の前、大楠多し。

其中にいと大なるは、めぐり五圍あり。むかし此所に大なるつき鐘ありしを、豊後の賊兵來りし時、打わり取て歸り、龍頭ばかり残りて今社邊にあり。

社僧の坊を妙珍山長樂寺と云、天台宗也。むかしは社僧の家を榮えて、大寺なりしにや。

其時の小寺め名、今も畠の字に残れり。八幡宮より七八町東の方、田の中に輪藏の跡あり。大なる礎石多し。大石を切て柱をすへたる杜あり。

凡大分村は町ながく、里廣く、やどころふかくしづかにして、其景色物ふりたり。境内の山のたヾずまひ、林の木だちいとおもしろく、西なる山谷のあひだ中野山と云所、叉塘のほとりに、おほくおひしげれる松のうるはしきよそほひなど、叉なくめでたしと見ゆ。直なる雌松多し。

すべて此あらりの山林の風景いとすぐれたる事、遙に他郷に異なり。

豊前より博多の方に來る者、往々此村を通り、御宮の前をすぎ、花廻へ行、篠栗に出る者多し。是叉大道なり。神前の二王門は、寳永五年村中より立之。

二王門の木像は郡中より立之。
筑前国続風土記 巻之十二より抜粋


筑前国続風土記 巻之十二より抜粋

● 大分八幡神社の由緒

奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。

『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりであるとし、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。

創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。天正5年(1577年)に秋月種実が現在地に再建した。

明治5年(1872年)郷社に列した。
ウイキペディア(大分八幡神社)より


● 大分八幡神社とは筥崎宮との関わり

延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。

延長元年(923年)に現在地に遷座。

延喜式神名帳には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。

近代社格制度のもと明治4年(1871年)に県社に列格し、明治18年(1885年)に官幣中社に、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した。

元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた。以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。

「敵国降伏」

● 大分八幡神社と宇佐神宮との関わり

宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪(穂波郡大分)大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。

八幡宮の起源は大分八幡宮とされ、そこから宇佐神宮や筥崎宮が分霊されていった。
近代社格制度においては宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮、鹿児島神宮の四社が官幣大社の社格に列し、特に宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮(※または筥崎宮に代えて、鶴岡八幡宮)の三社が日本三大八幡宮とされる。 大分八幡宮、千栗八幡宮、藤崎八旛宮、鹿児島神宮、新田神社の五社は九州五所別宮や宇佐八幡宮五所別、石清水五所別宮、八幡五所別宮などとも呼ばれ、承平天慶の乱の平定を願い宇佐神宮、石清水八幡宮から勧請した。
八幡宇佐宮託宣集より

宇佐八幡宮神託事件

人には戦がつき物だが、戦乱の戦火の中、民衆は平和を求めていた、『権力』を得るため一部の人間が争っていたが、これまた『民の安心・安全を求めていた』とは皮肉なものです。