旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(鎮西炭鉱)

2013年05月16日 11時44分12秒 | 地域・歴史
鎮西炭鉱のあゆみ

牟田炭鉱のはじめ(伊藤伝右衛門時代)

鎮西鉱はむかし牟田炭鉱と呼ばれていた。鉱区はなだらかな起伏のある潤野丘陵のうち,花瀬・鎮西・牟田にひろがっていた。

石炭の発見は潤野鉱と同じく宝暦年間とみられる。

明治2年鉱区が開放され採掘も自由だったので、家族や使用人をつかい「石ほり」といって掘っていたようである。

土地が平坦なため,たこつぼ式の直径1mの立て穴をほり,深くなると3本柱のはね木を設け,4斗だるにつるべをつけ大づなを上下して掘りだした。

明治6年「日本坑法」ができてから村の共有地を盛んに掘り、排水ができなくなるとまた新らしいところを掘ったので、あちこちに穴ができ軍隊の野外演習のときには危険なので赤旗をたてていたそうだ。

この鉱区は山本延太郎(現在牟田の山本幹助の実父)が、明治6年日本坑法による借区開鉱願によって所有していたのを、幸袋の伊藤伝右衛門,中野徳次郎,松本健次郎が譲り受け、三者の共同経営で始めたようだ。



その後松本は明治鉱へ,中野が相田鉱を始めたのが明治30年である。
 
当時は「たぬき掘り」であったが、排水がいちばん困難で湧水にあうと切り羽を見すてなくてはならず多大の影響を及ぼした。
 
近いところは手びしゃくでくみだしたが、坑道がのびるとふいごをつくって,2、3丈もある大竹の節を通し、その竹の中に小竹を入れて、水鉄砲の要領で排水し、坑道が長くなると水溜めをこしらえ、何本かの竹で坑外へ排水した。
 
明治31年ころ,伝右衛門は硯在の鎮西鉱杜宅の川向う付近に蒸気ガマを取りつけたが、これが始めての蒸気による動力で排水および巻上機につかわれた。
 
そのときのようすを赤間幸太郎(82才)にきくと次のようである。花瀬街道をコロをつかって蒸気ガマは運ばれたが、付近の人は珍らしく大きな機械に目をみはった。
 
またこのとき土台に始めてコンクリートを使用しているが、毎日数台の車力に気勢をあげ
ながらにぎゃかに、砂や石を運んだそうである。当時にしては'革新的な事業といえよう。
 
鎮西鉱の着炭祝いには、4斗樽を6丁もあけて「目玉つきいわし」で自由に飲ませ、余興には「操りつり人形」で気炎を上げたそうだが、伝右衛門の気骨がしのばれる。
 
明治37年日露開戦の影響は鎮西鉱にも大いに反映して,付近に大納屋や小納屋がぞくぞくとたてられたが,頭領は5人もいて一納屋には20人~30人住んでいた。
 
あと向きには近所の人だけでも200人ぐらい働いており,盛んなときには坑夫が500人~600人いたそうである。後に牟田に第2坑口が掘られたが,大日寺川の底を掘っていたためその水がながれこみ6人の死者を出すという悲惨事がおきている。
 
労働時間も二交替制で一番方は朝午前4時~午後2時,二番方は午後4時~午前2時の10時間であって,実質12時間労働を強いられたようである。
 
しかし賃金のかわりに出した金券は、飯塚の町でも大手の三菱・住友と同価値で,「伊藤さんの金券」といって通用しその羽振りのほどが想像されるのである。

ここでも、筑豊を代表する伊藤 伝右衛門の名前が出てくる・・この当時を代表する炭鉱主であった事と思います。

それと、飯塚を紹介するブログがありました。


第一不動産・文野さん



旧・鎮西村の娯楽(2)

2013年05月12日 11時02分21秒 | 地域・歴史
相  撲

神への奉納相撲なので、娯楽とはいえないが、娯楽の少なかった昔としては、けっこう
娯楽的な行事としての要素をもっていた。

力士も他町村から多数が参加して大相撲を展開していた。

そして東京相撲のように化粧まわしをしめ土俵入りなどもしたのである。

いまなおこの化粧まわしを所蔵してある家がある。

現在は内の行事として行われているにすぎないけれどもただ八木山の老松神杜で行なわれる相撲だけはいまもなお他町村からの参加があり、なかなか盛んである。

いまもなお行なわれているのは次のである。

大日寺 六月二七目 大日さま祭りのとき。

花 瀬 七月 十日 観音さま祭りのとき。

潤 野  八月十七日 豆観音祭りのとき。

家ごとに「まさめ」を煮て相撲のすんだ後でこれを振舞う。

八木山 八月二四日 久保尾のお宮で行なう。

八月二七日 明神様で行なう。

昔は明神様の近くの田や畑などに土俵を仮設して行なっていたが、今は学校でする。

十月一四日 宮相撲として老松神社の境内で行たう。

蓮台寺 八月二〇日 こうらぼしの大師堂前て行なう。

建花寺 八月一五日 安養院の境内で行なうが、これについては次のような話が伝っている。



昔、庄屋の下女が疲れのためつい居眠りをしているところを人にみられて笑われたので、これを恥じて池に身を投げて死んでしまった。

しかし成仏ができず幽霊となって迷いでたので、これを可哀そうに思った村人がその霊を慰めるために安養院に祭り、相撲をするようになったということである。

(建花寺の古老の話)


村人から寄付を集め賞品を購入し、子供相撲の勝者に揚げる、又、本村と古野の対抗相撲では老若男女を問わず・・応援合戦も盛んなものでした。(現在は子供の数が少なく廃止となっています。)

盆踊り

八月の盆会(昔は旧暦七月)には,どのでも初盆の家で青年たちが盆踊りをするが、昔は八木山を除いて「しあんばし」が盛んに踊られた。

庭の中央に縁台をだして唐傘をさし、その下で三味線と太鼓の合奏で唄をうたいこれをとり巻いて踊った。

中には変装する者もいた。

「しあんばし」は節まわしがむずかしく、これを唄う人がだんだん減りかつ三味線もなくなり太鼓だけになってしまったのだが、これではあまり単調なので、今はポータブルと音盤てにぎやかに踊って新仏を供養している。

八木山は「黒木節」を唄ったそうだが歌詞は採集てきなかった。

明星寺では「しあんばし」のほかに「ざんざ節」というのもあったという。

なお個人の家のほか次の場所でも踊っている。

八月一五日 蓮台寺では光妙寺境内で精霊送りをすました後で区民がする。

八月十七日 潤野では豆観音で女子がする。

八月十七日 建花寺では堂園の観世音堂の前で、また古野公民館前の石仏(いしぼとけ)でも無縁仏を慰めるためにする。

古野地区では、公民館の前にある石仏(いしぼとけ)の前で盆踊りを遣るんですが、言い伝えがあり八月十六日には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。(現在は八月九日に石仏の前で踊っています。)

盆踊り唄(しあんばし)を採集した順に同じ言葉もあるがそのまま揚げる。

南無河弥陀仏 西のお寺の鐘の声
(太鼓でドンドンとたたき、踊る者は「盆々ひやまかほい」という)
去年盆まじゃ踊り子にでたが 
ことしゃお墓の水祭り
(合いの手は前に同じ、以下略す以下同じ)
盆は嬉しや別れた人と 
はれてこの世に蓬いにくる
ことしゃ万作穂に穂が咲いて
 道の小草に米(よね)がなる
祝い目出度の老松様よ枝も栄ゆりゃ葉も繁る(太鼓でドンドンドンと五回たたき終ったことを表わす)
(以上大日寺)

南無阿弥陀仏 西のお寺の鐘の声 
(返し)お寺の西の西のお寺の鐘の声
揃うた揃うた踊り子が揃た 
踊りゃやめまや夜中まで
(返し)やめまや踊りゃ 
踊りゃやめまや夜中まで
踊り踊るならお寺のつぼで 
踊るかたでに後生ねがう
(返し)かたでに踊る 
踊るかたでに後生ねがう
富士の高嶺に西行が昼寝 
富士を枕に田子をみる
(返し)枕に富士を 富士を枕に田子をみる
去年盆まじゃ踊り子にでたが 
ことしゃみ墓の水まつり
(返し)み墓のことしゃ 
ことしゃみ墓の水まつり
繁昌繁昌よ この家が繁昌 
末は鶴亀五葉の松
(返し)鶴亀末は 末は鶴亀五葉の松
(以上蓮台寺)

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 
西のお寺の鐘の音
空の七夕いんかいさまよ 
川をへだてて恋をする
去年(けねん)盆まじゃ 
踊りよったさまが ことしやみ墓の水祭り
かねをたたくのが仏であれば 
かじ屋ばんご(向う打ち)はみな仏
山は焼けても小鳥はたたぬ 
何のたとうか羽がない
盆の十三日の小豆餅はよいが 
草の三駄(1駄は6束) 切りはひどござる
(ばんぱ節やしあん節で歌う)
(以上明星寺南谷)

南無阿彌陀仏 西のお寺の鐘の音
(返し)お寺の西の西のお寺の鐘の音
去年盆まじゃ踊り子にでたが 
ことしゃみ墓の水祭り
(返し)み墓のことしゃ ことしゃみ墓の水祭り
揃うた揃うた踊り子が揃た 
踊りゃやめまい夜中まで
(返し)やめまい踊りゃ 
踊りゃやめまい夜中まで
かねをたたいて仏になれば 
かじ屋ばんごはみな仏
(返し)ばんごはかじ屋 
かじ屋ばんごはみな仏
竹に短冊七夕さまよ 
川をへだてて越えなさる
(返し)へだてて川を 
川をへだてて越えなさる
繁昌繁昌 この家が繁昌 末は鶴亀五葉の松
(返し)鶴亀末は 末は鶴亀五葉の松
(以上花瀬)

南無阿彌陀仏 西のお寺の鐘の声
(返し) お寺の西の西のお寺め鐘の声
ことしゃ万作 穂に穂が咲いて 
道の小草に米(よね)がなる
(返し)小草に道の 道の小草に米がなる
去年盆まじゃ踊り子に出たが 
ことしゃみ墓の水祭り
(返し)み墓のことしゃ ことしゃみ墓の水祭り
踊りゃやめましよこの唄ぎりに 
あまり長いと人が知る
(この分は最後で返しはしない)
(以上潤野上区)

南無阿弥陀仏 西のお寺の鐘の声 
(返し)お寺の西の西のお寺の鐘の声
去年盆まじゃ踊ったさまも 
ことしゃみ墓の水祭り
(返し)み墓のことしゃ ことしゃみ墓の水祭り
いこか戻ろか戻ろかいこか 
殿ごみたさの思案橋
(返し)みたさの殿ご 殿ごみたさの思案橋
(以上建花寺本村)


人形芝居「桂木座」

建花寺の古野には浄瑠璃にあわせて人形をあやつる一座があって、村人に伝えられていた記録がないのではっきりしないが、百六十年年~百七十年前,村瀬甚次郎という人がいて浄瑠璃が好きで、また人形を扱うことが器用であった。

この人が主となって粕屋郡伊賀のあやつり師(姓名不祥)を招き同好の士とこれを習ったのがはじまりらしい。

後熊本果出身で鞍手郡若宮町に住む大西岩吉なる人を師としていよいよ研究し、最盛期を作りあげた。

そのころは地元の人で浄瑠璃を語らない人はないというくらいで、また三味線を弾く人もいたが飯塚や伊岐須にも浄瑠璃が好きでぜひあやつり人形をまわしてほしいという人もあって,この人たちは引き幕や舞台のうえの垂れ幕などを寄贈した。

これによって「建古座」ともいったことがわかる。






巡業は嘉穂郡内はもちろんのこと、直方・宮田・田川までいき,ことに日鉄二瀬の山神杜祭りや大隈では毎年演じてたいへんに喜ばれたものである。

また遠くは佐賀県岩屋までいき三日間も開演したこともある。

村内でも春秋の祭りや,先祖の追善供養などにも農閑期にはほとんど家にいたことがない。

出し物は太閤記十段目、先代萩、三十三間堂、阿波の鳴門、御所桜、忠臣蔵など多彩で、人形も30体ほどあり、他に八尾の狐、馬、鼠、などの動物と、箱下駄、建具(35枚)、見台、引き幕などもあった。演出者も義太夫,三味線を除いても15人ほどもおり、なかなかにぎやかであった。

このような立派な文化財も,浄瑠璃を語る人もなくなり,人形をあやつる人もだんだん少なくなって現在ではわずかに2人を残すばかりである。

また人形もこわれ、衣装も破れ、狐、馬、鼠などの動物、箱下駄、建具、見台も散逸し、残ったものの維持にも困るありさまとなっている。

現在では三番そうを酒宴などに披露する程度にすぎず、これが衰微の一途をたどっているのは数少ない村の文化財としてまことに残念なことである。

掛け芝居

村民の娯楽一つに掛け芝居がある。

これは中津座という巡業芝居の一座で農閑期にきて、掛け小屋を建てて公開していたが、大正の中頃まででその後は今の映画、当時の活動写真などのためすたれてしまった。

仕組み芝居

やはり農閑期や、おくんちなどに青年たちが芝居を仕組み村人たちにみせていたが、掛け芝居と同じようにすたれた。

演芸会

戦後青年達が舞踊を主とした演芸会を催していたが、合併以降も二三のでは年中行事として行い、青年自身はもとより観客である村人も充分楽しんでいたそうです。

今では、若者の地元離れが進み、ほとんど残っていない・・老人たちは昔を懐かしむ話などに出てくるが・・廃ってしまっている。

旧・鎮西村の娯楽

2013年05月11日 10時34分51秒 | 地域・歴史
獅子舞い


獅子舞いは厳かな神事であるが,娯楽施設のなかった昔は一つの娯楽行事でもあった。
獅子舞いを奉納するのは夏の祇園祭りが多いが、八木山のように祇園祭りと「おくんち」と二回、潤野のように「おくんち」だけ舞わすところもある。

また神前や堂塔だけしか舞わないところもあるが、内のすべての家で舞うところもある。



獅子舞いの編成はこの世話をする人(獅子頭というところもある)と獅子を舞わす役として雄獅子に二名・雌獅子に二名・交替の者四名の八名の獅子かたがいる。
衣しょうは腕ぬき(甲かけ)・白衣・赤だすき・はかま・白足袋・わらじ・白の鉢巻で腕ぬき・はかまは胴と同じ図柄のものを着る。

囃子かたは大太鼓(潤野では子供の役で老練巧者な介添えがつく)・小太鼓(竹を細長くむちのように削ったものをばちとして用いる)・かね・苗で、笛は二・三名が吹き、他は交替者がいる。

その他清道の旗やちょうちん・御幣・面・矛などをささげる人など多くの人数が必要である。

獅子舞の稽古はその月のはじめから行ない、祭の前日に仕上げをして奉納する。
獅子舞いは大太鼓・小太鼓・かね・笛の囃子(音楽)にあわせて行なう。
獅子舞いの移動のとぎには道巾で奏する「道ばやし」や・神殿を一巡するときの「堂めぐり」があり、舞は序(はじめのきり)・破(なかのきり)・急(のり)の三段階で舞う。

序ではゆるやかな音楽で雌雄の獅子は同じ舞い方をし、破では急調となり二つの獅子はそれぞれ別の舞いをし、急では高潮に達し二つの獅子は最初の位置を入れかわって勇ましく舞い終る。

なお、明星寺(南谷)では祇園・おこもり・彼岸まつり・おくんちと年四回も舞わしている。

そしてここだけが獅子を舞わす前に杖を使う行事をする。

はじめ天地四方のよろずの神がみに向って獅子を舞わす四人が楽にあわせて「エーイ・エーイッ」と天に向い杖をつかうと、中の二人が残り「エイッ・エイッ・ヤッ」「エイッ・エイッ・ヤッ」と掛声を勇ましくかけ、杖を立てたり組み合わせたりして意気をあげて場払いをして獅子舞をするのである。

最近では肝心の獅子かたである獅子を舞わす青年が県外へ就職するなどでだんだん滅り、この獅子舞いを続げて行くのに困り今年はとうとう取り止めたところもある。
今なお舞わしているのは次のである。




大日寺・花瀬・潤野・明星寺(南谷)・八木山(本村・東部・久保尾)・蓮台寺(池尻)・建花寺(本村)。





私の住んでいる建花寺での獅子舞風景・現在では本村の保存会で年1回・・桂郷神社の
“お籠もり”の時に待っています。(9月15日前後の日曜日)

“お籠もり”風景も掲載しています。・・・村の親睦会みたいなものと現在はなっています。






旧・鎮西村に伝わる民謡

2013年05月06日 02時59分32秒 | 地域・歴史
昔は,作業は単調であったが重労働だったので気をまぎらわすためか、疲れないようにするためか,あるいは情緒が豊かであったのか、作業には唄を歌ったものである。
昔から歌い継がれたものもあるが、とんちがあって即興的に作り歌ったものもある。
だいたい各ともよく似たものが多いが、中には全然違うものもあるので聞き得た分を揚げてみる。

麦打ち唄

昔は、麦を刈った後干して「せんば」で手こぎし、またよく干して、「ぶりこ」で打って実と殻とにした。

そのときに歌ったのが麦打ち唄である。花瀬の歌に出る「ちり打ち唄」というのは、もみを選別したちり(かす)を「ぶりこ」で打つときの唄である。

一つだしましょか はばかりながら
唄の文句は知らねども
(はやし)粉になる 粉になる
肥前の皿山 石でも粉になる
あなた百までわしゃ九十九までともに
しらがの生えるまで
(はやし)同前
祝いめでたの若松様よ枝も栄ゆりゃ
葉もしげる(はやし)同前

(以上大日寺で)


麦打ち唄・ちリ打ち唄

花瀬じょうもんさんは 深田のたにし
人がものいや顔かくす (うつ人が)
深田にさし下駄はまってきなさい
わしが老いときは吉原に通うた
道の小草もなびかせて(うつ人が)同前(以上花瀬て)


田植唄

今年やよかろぱな 五反田の稲が
 よかりゃ実もとる殻もとる
 ヨイショーヨイショー
(はやし)深田にさし下駄
 はまってきなさい
腰の痛さや畝町(せまち)の長さ
 四月五月の日の長さ
 ヨイショーヨイショー
(はやし)六部さんの昼ねで
チンチン(鐘の音)のお休み
いつも五月で田植えなら
よかろさまの手苗をわしがとる
(はやし)前のどちらかではやす
(以上大日寺で)


いつも五月で田植ならよかろ
 さまの手苗で植えまする
(はやし)深田にさし下駄はまってきなさい
腰の痛さや畝町の長さ
  四月五月の日の長さ
(はやし)同前
(以上花瀬で)


いつも五月(ごんがつ)田植ならよかろ  好いた殿ごさんの手苗とる
声はすれども姿は見えぬ
 それは深山(みやま)のほととぎす
私が殿ごは浮舟船頭
 空がくもれば気にかかる


うすすり唄(籾摺り唄)

うすは舞え舞えキリキリシャンと
 うすは手車でうわの空
(はやし)ア一ギャッコン ギヤッコン
様はござるかな夜うすの晩に
 うすはもゆるかというてござれ
(はやし)アーヨイショ ヨイショ'
紺の前垂れ松葉のちらし
 松に元とはおらりょかな
(はやし)前のどちらかではやす
(以上大日寺で)

うすは舞え舞えキリキリシャンと
 うすはてんぐるまでうわのそら
うすはすりたむなし夜食は食いたし
 茶碗がらめきゃ目がさめる
(以上花瀬で)

うすは舞え舞え キリキリシャンと
 外に殿ごが待ちござる
(はやし)どうかな寺かな
天神森かな天神森かな
山は焼けても山鳥や立たぬ
 立たぬはずだよ羽ぬけ鳥
(はやし)六部さんころんでおいずる投げた 前のチンチン昼休み
(以上建花寺で〉


田の草取り唄

わしが唄とうたら隣がつけた
 昔なじみの友だちか
松の葉のよな せまい気もつな
 広い芭蕉葉の気をもちゃれ
青い松葉の中のよさみやれ
 枯れて落ちても二人連れ
(以上大日寺で)・・


地築き唄(胴づき唄)

伊勢にゃ七度 熊野にゃ三度(はやし)
アラヨイ ヨイ ヨイ
あたご様には月参り(はやし)コラコラヤートコセヨーイヤナー アレワイセー
コレフイセー ササナンデモ
こチの屋敷に井戸掘りかけて
水が出らずに金がでる(はやし)同前
こちの座敷は祝いの座敷
鶴と亀とが舞い遊ぶ
(はやし)同前


子守歌

ねんねんこんぼは子守の役目
 ねんねんしなされおやすみなされ
ヨーイ ヨーイ
ねんねんこんぽいうて寝いらぬややは
 ふとんかぶせてたたきねせ
 ヨーイヨーイ
うちのごりょんさんはガラガラ柿よ
 見かけよけれど渋うござる
 ヨーイ ヨーイ
うちのごりょんさんは手ききこた手きき
 夜着もふとんも丸洗い
 ヨーイ ヨーイ
師走十三日がきたばなごりょん
 守の仕着せはでけたかや
 ヨーイ ヨーイ
ねんねんしなされまだ夜は夜中
 明けりゃ御てんの鐘がなる
 ヨーイ ヨーイ
うちのおとっつあんは位がござる
 なんの位か酒くらい
 ヨーイ ヨーイ
ごりょんさよく聞け且那も聞けよ
 守に悪うすりゃ子にあたる
  ヨーイ ヨーイ
ねんねする子は可愛ゆてよいが
 起きて泣く子の面憎さ
 ヨーイ ヨーイ
どしたこの子は泣く子であろか
帰りゃごりょんの目が光る
 ヨーイ ヨーイ
師走十三目の日の暮れ方にゃ
 うれし涙で袖しぽる
 ヨーイ ヨーイ
泣いておくれな泣かせちゃならぬ
 私はあなたの守じゃもの
 ヨーイ ヨーイ
(以上大日寺で)

うちのごりょんさんはごろごろごきりょう
 きりょう良けれど渋ござる
 ヨーイ ヨーィ
うちのごりょんさはごろごろごぎりょう
 守りに悪うすりゃ子にあたる
子供悪すりゃお目玉一つ
 お目玉もらえぱおらんばい
 ヨーイ ヨーイ
こっちのごりょんさんはがらがら柿よ
 みかけ良けれど渋ござる
 ヨーイ ヨーイ
ごりょん聞け聞け 旦那も聞けよ
 守に悪くすりゃ子にさわる
 ヨーイ ヨーイ
(以上明星寺で)



昔は、作業時や子供寝かせ付けるときに歌った歌が、のどかな田園風景の中にあったのでしょう・・・大切にしたい文化です!!!

旧・鎮西村(伝承)

2013年05月05日 09時17分02秒 | 地域・歴史
伝 承

遠い昔から、父から子へ、子から孫へと鎮西村に代々語りつぎ、いいつがれてきた伝説や民話あるいは民謡などがたくさんあったのであるが、語りつがれる時に誤り語りつがれたのもあり、忘れ去られたものもある。
しかしいまなお残っているものを年代に調係なく書いてみよう。

伝説と民話

鎮西上人と伝説



昔、明星寺に鎮西上人という偉い坊さんがいた。
この坊さんは香月(遠賀郡いまは八幡市)の人で7才の時、大日寺の菩提寺で小僧さんとなって勉強し後明星寺に移り、ますます勉強に励んだ。
その頃師の坊さんから「しきみの薬をとれ。)と命令されたことがある。
いざ木に登ろうとしたが木は高くすべってなかなか登れない。
何度も苦心のすえやっと薬をちぎることができた。
このとき「学問の修業もこのとおりだ。」と思ったということである。






またあるとき虚空蔵様の前で真っ赤にうれた柿の実に墨で黒々と丸と井形とそれぞれしるして,お願いしていうに「私がもし偉い坊さんになることができるならば無理なことだが,このようなしるしの柿の実をならせてほしい。」と。
そしてこの実を境内に埋めたのであるが,やがてみごとに丸印や井印のついた実がなったという。
この木をお墨柿といったが今は枯れはててない。

また,'青年の頃,英彦山権現に1000日参りの願をかけた。
そして一回英彦山に行くたびに松の木を一本ずつ植えて願かけの日数を数えた。
その原っぱを日数ガ原といっていたが今は訛って彼岸原という。

上人が英彦山にまいるときはいつも白い衣を着て夜中に出発した。村の人びとの間に「一つ目小僧が通る。」といって大さわぎとなった。
そこである夜鯰田の城主葦ガ谷右京という人が上人を目がげて弓をひいたところ矢は上人のたもとをかすめて空中に飛んだ。
上人は思わず叫んで「寿命めでたし」といったが、桂川町に寿命・中屋(中矢)と地名のついたのもこのことからであるといわれる。

このように勉強した上人はまだ勉強したいと比叡山にのぽり、仏教の奥義を学んだ。
そして帰郷し明星寺に五重の塔を再建するため全国行脚に出発した。
建立の材木も毎日.遠賀川をのぼり、木材運びの人夫が休むたびに木材の山ができたので木屋ノ瀬(鞍手郡いまは八幡市)の地名がついた。





五重の塔ができ上ったので近郷の善男善女がお祝いのご飯を持って参り、食べもしたが集ったご飯の白い山はいっこうに減らずついにご飯の塚ができた。
これが飯塚のおこりでそこを飯の山といっている。
その場所が器運山太養院(飯塚市本町)であったが後今の地にうつった。

また京郡から持ち帰った菩提樹の杖を立てていたのが芽を出して茂ったが、今北谷と南谷との間にある菩提樹である。

(明星寺の古老の話)


湯屋の池(明星ガ池ともいう)







明星寺土址の前から南に一三〇段の石段を下った所に方2mほどの石垣で囲んだ小池があって、中に板石がある。
この池はこの村に七才の子が七人いる時だけ掃除するしきたりで今から140年ほど前にしたことがあると伝えている。
昔、この池に明星の光が怪しく映じたので明星寺の寺号としたをいう。
どうしたわけか、この池の水を産前に飲むと安産すると伝えている。
また千天のときこの池をほして雨請いするともいう。

夜泣きの呪岩(まじない岩)



明星寺趾の境内にある。
昔から幼児の夜泣きに霊験あらたかで、お参りしないで家からお願いしても聞いていただくといい伝えている。
実際地元でも夜泣きして困る家が数軒この呪岩にたのんでなおった例がある。
村外の人も伝え聞いてまいりにくる人がある。
なおった後は「御願が成就した。」といってまたお礼参りをしている。

八木山氏宅址と八木山殿墓



八木山の老松神杜の杜地前に八木山氏の宅址という所があり、中村に八木山氏の先祖の墓という所がある。
墓という所は高さ60cmで1.5m四方の盛り土に小さい祠がたっている。
土地の人は地主様といっている。

湯の木屋

大日寺の明見田の奥にあるというが,どこにあるのかはっきりわからないが、昔から温泉の址という。
これについて次のような伝説がある。「昔、湯の木屋の神と太宰府の神とかけごとをして、湯の木屋の神が負けたのでここからは湯が出ないようになり、二日市に温泉がでるようになった。」と。

神様の恋

大日寺と潤野の境の所に、ついこの頃まで松の木が三本そびえていたが、それについて次のような話がある。
昔といってもずいぶん昔のこと。
大日寺の男神の八幡様が、潤野の女の神宝満様に化想されて毎夜のように潤野に通われた。
そしてある晩のこと、二人か喧嘩をなさって宝満様が八幡様を嫌われた。
それで荒神様である男神の八幡様は腹立ちまぎれにあそこの毛を三本引き抜いて帰られた。
そして帰る途中で「こりや、あまりはしたないことをした。」といって、その毛を道端に捨てられた。ところがその毛から根が生え芽がでて'大きな三本の松の木となった。
それからは大日寺の八幡様は潤野の宝満様に通われなくなったが、こうした伝説のためか今でも大日寺の者と潤野の者との間には縁談がまとまったことがないという。
(大日寺の古老の話)


竜王山



昔といっても今から八百年程も昔のこと、鎮西八郎為朝という弓の上手な剛の着がいたころの話てある。
そのころ、このあたりに竜王というとっても大きな竜が住んでいて、娘をさらったり・畑を荒したり・悪いことばかりして人を困らせておった。
それで剛の者の為朝がその竜退治をするということになった。
何本弓を射かけても竜王はびくともしなかった。
それで為朝は腹を立ててそれならこの矢を受けてみよといって、つぱを矢尻にはっかけて矢弦を満月のように引きしぼってから「エイ!!」と竜王目がけて矢を射った。
そしたら矢がヒユーンと飛んでもののみごとに竜王の眉間にあたったので竜王は「あいた〃」といってのたうちまわった。
そして死に物狂いで風を呼び雨を呼んで山に爪を立て尻ぽを地面にたたきつけて「工ーイ」と掛声をかけて天に昇った。
そのとき峰に五つへこみがてきたのが爪のあとでそれから竜王山と陣ぶようになった。
(古老の話)


女郎ガ原(じょうらがはる)



八木山と吉川村(今の鞍手郡若宮町)の境の所に女郎ガ原という所がある。
その昔、源平時代の最後の戦いである壇の浦で負げた平家の武者や上(女官)が九州の山中に逃げこんだ時、その一部の上がここにたどりついて仮家のわび住まい、朝に夕に六波羅の昔をしのんで夢にも枕をぬらしながらいく年もすごしついにはかなくも山奥の露と消えた跡である。
墓石も心なき商人のため石材として利用売買されようとしたが、上の霊のなせるゆえか、売ることもできず残っている。
(八木山の古老の話)


明星寺と墓地

明星寺は鎮西無二の霊場なので、この内に埋葬してもらうとお坊さんに読経してもらはなくても極楽にやっていただけるというので、他村の人も争って明星寺に墓地を求めたと伝られる。
毎目毎日棺が通ったので日棺原といったが後詑って彼岸原といったともいわれてる。
彼岸原から南谷に行く途にも昔の墓の跡と思われる所が数あり、明願寺もそのために建立されたのではないかという。
(明星寺の古老の話)


鉄砲塚と獄門畑



昔、この地方は水清く空も澄み風光も明媚で鶴も飛来蓮台寺から伊川にかけての田や畑でゆうゆうと餌をあさってた。
そのころ、黒田藩では鶴の保護のため、蓮台寺の国道から建花寺に通ずる道を境として、東方伊川側を禁猟区とし、その「従是東ノ方鉄砲御留」と彫った石柱をたてた。
これが鉄砲塚である。
けれどもときどきこの禁を犯して鶴を捕る者がいたので、藩庁ではこれを捕え斬罪にして首を獄門にかけた。
これが今の坂の下の停留所付近で獄門畑という。
(蓮台寺の古老の話)


お声がかリの助の字

八木山の都落には代々名前に助の字をおりこむ家がある。
なぜ助の字を名前におりこむかというと、こんな因縁話が残つている。
昔、黒田の殿様がよく明神に来たころの話である。
そのころはこのあたり一帯は大杉の森で昼でも暗かった。
それで日が暮れると鼻をつままれても誰がつまんだのか判らないほどだった。
ある時、黒田の殿様が明神にきてからのかえりにこの大杉の森の中で日が暮れてしまった。
殿様は暗くて動けず木の切株に腰かけてしまった。
それを聞いて右衛門が茶屋でたいまつを急ぎこしらえてお迎えにでた。
殿様は大そう喜んで歩きだしたが、いつまでたってもたいまつが黒いかがりをだして消えないので「そのたいまつは何で作ってあるのか。」と聞いたので、右衛門さんが「こりゃ、こえまつというて松の根の肥えている所を割って竹にさしております。」といった。
殿様はこえまつのたいまつで無事に杉の大森を通りぬけたが、そのとぎ「こえまつのたいまつで難儀を助けたお礼にお前に助の字をやろう、名前に加えるがよい。」といった。
それから右衛門は殿様のお声がかりの助の字をありがたく頂戴して「助右衛門」と名のって代々この功の字を子供の名前におりこんだという。
(八木山の古老の話)


数の子は竹の子と親類

昔、山の中の者が祝言によばれて博多にいった。
博多の祝言の膳には日ごろ食べたこともない珍らしい馳走が山のようにでたが、その中で数の子が一番珍らしくおいしかった。
それで村の者のお土産にといって、乾物屋にいき数の子をたくさん仕入れて帰った。
そして近所の者を集めて数の子を食わしたが、料理の仕方をならってこなかったので、ほとぼさないでそのままたした。
それで近所の者はくえないので、数の子は子供の癖になんと固いものか。」といって帰っていいった。
あてのはずれたこの人は仕方がないので、裏の竹やぶに数の子を捨ててしまった。
そして四・五日たったある日ふと竹籔をみると、博多の祝言の時のようにふやけた数の子が山のようにたくさんあるのでびっくりして「へーえ、数の子は竹の子の親類だ。
竹の根に置いておかないと食えるようにならん。」と感心し、改めて近所の考をよんで「数の子は竹の子の親類。」という講釈入りでご馳走した。
前とちがって、かむと一粒ごとにコリコリつぶれてなんともいえないよい味だったから、皆も感心して「なるほど数の子は竹の子と親類じや。」といって舌鼓をうったという。
(大日寺の古老の話)


おちようずまおせ

昔、殿様が村の庄屋の家にお泊りになった。そして一夜が明げて顔を洗おうと思い「これ、手水をまわせ。」といった。
これを聞いた庄屋が「ちようずとはなんであろう?」と思案したがどうしてもわからない。
困ってしまってとうとう村一番の物知りのお寺の坊さんの所へいきこれを尋ねた。
坊さんも考えた末、「ちようずとは長頭のことだ。」といったので庄屋は村一番の頭の長い著を探しだし、待らくたびれた殿様の前でその長い頭をまわさせた。
これをみた殿様はさっぱり訳がわからず「手水をまわせといっているのにどうした。」とぎびしく叱った庄屋は恐る恐る「これより長い頭の者がおりませんので勘弁して下さい。」といったので殿様は,「そんなものではない。
顔を洗うための水だ。」とどなったので庄屋ははじめて・合点がいき、早々に引き下って、改めて手洗いを持ってきた。
(大日寺の古'老の話)


首巻き素めん・投げ饅頭

昔、田舎者が町にお客によぱれていった。夏だったので夕飯のかわりに素めんがでたが、今まで食べたことがないのでどうしたらよいかわからない。
まあなんとかなるだろうと思って薯をつっこんで素めんをはさみあげたが、どんぶりからあげきらず頭の上までさし上げて、ようやくどんぶりとの間がきれた。
しかしそのままでは食べられないので素めんがどんぶりに入らないように首に一回まいてようやく食べた。
このようにしてようやく夕食がすんで泊ったが夜になって茶にそえて饅頭がでた。
これを食べようとして箸をつけたが、鰻頭がころころところんでびょうぶのむこうへころんでいったので、これを取ろうとしたところ、びょうぶを倒してしまった。
田舎者はびょうぶを取り扱ったことがないので立てかたを知らない。
起こしては倒し、倒しては起こし、とうとう二人で両方から引っ張って夜を明かした。
このありさまをみた町の者はこの田舎者のしたことを笑って「首巻き素めん・投げ鰻頭・引っ張りびょうぶで夜が明けた。」といった。
(花瀬の古老の話)


六三郎さんと田植

昔、六三郎さんが八木山の村から宿場にでて,遅くなったので宿場のはずれにある宿屋に行った。
なにしろ、八木山から宿場にきたのだから久し振りに床屋にでもいって男振りを作ろうと思い,パンパン手を叩いて「女中、女中」と呼んだ。
けれども女中は八木山の山の中からきた六三郎さんを岡舎者と思って、おうへいにかまえ面倒くさそうに部屋にあがってきた。
六三郎さんはなれたもので「下駄をだしてくれ,自分は頭をつんでくるから。」といった。
とごろがその女中は「田舎者のくせに、よしひとつ困らしてやれ。」と思って、「もしもしあんた,ほんとうに頭をつみなすと?」といった。
六三郎さんはまさか女中が自分をなめてそんなことをいっていると思わないので、「ああ、つんでくるとたい。」といった。
そうしたら女中が、しり顔して「お客さん。頭をつんだら死んでしまうでしよう。」とひやかした。
六三郎さんは「この女中は自分をひょくらかしているな。」と思ったけれども、それを顔にもださないで、おうむ返しに外を指さして、「あれはなんだろう?なにをしているのかね。と聞いた。時は五月、宿場はずれのたんぽでは田植えがあっていた。
そこで女中はこんなことも知らないのかといわんぱかりに「お客さん、あれを知りませんか、あれは田を植えているのですよ。」という。
それで六三郎さんはすかさず「ほほう、妙なことがあればあるものじゃ。
自分は八木山の者であるけれども田を植えるとははじめて聞いた。田に苗を植えているとならみたがねえ。」といい返した。
それを聞いた女中は真っ赤になって「どうぞ。」といって下駄を揃えた。
それで六三郎さんはゆうゆうと下駄をつっかけて髪をつみにいった。
(八木山の古老の話)

尻叩き

明治七年頃のこと,筑前に大一揆があった。嘉麻,穂波の百姓が八木山を越えて博多の県庁へ竹槍をもって押しかけた。
それで通り道の八木山の女子はみんな山の中に小屋掛けしてかくれてしまい、男子のさかしい者たちはたきだしをしたが,中にはのぽせあがって博多へついていった者もあった。
しかし県庁では鎮台(兵隊のこと)が鉄砲でしかけたから、ひとたまりもなくくずれて逃げ帰った。
一揆がおさまって取り調べがありたいていの者は、尻叩きといって縄で尻を百回も打たれた。
はれあがった尻を冷やすのに博多中のとうふが売り切れたという。
そして親類や近所の者に引きとられたが、歩こうにも歩かれないので担架にうち伏せになって婦ってきた。
(八木山の古老の話)



豊前坊と牛神祭リ

潤野にはまぐさを刈るような草山がないので,大日寺の奥の八木山境までまぐさ刈りにいった。
一日に二回、一回に六把の草を牛の鞍につけて帰ったがその過労ででもあるのか、ここでは年々数頭の牛が死んでいる。
それで村人たちは牛神を英彦山の豊前坊からこの地に勧請して祭った。
昔は方二間もある拝殿があうたが後朽ちて倒れたので村人が払い下げ稲屋にした。
今も豊前坊と浮き彫りにした鬼瓦があがっている。.
宝満宮の南にある小山に今は祠がある。正面に豊国杜と刻んであり右側には文政七年(一八二四年)甲申天六月吉日と彫ってある。
潤野ではこの死んだ牛の霊を慰めるためと生きている牛の健康を祈るため、昔から毎年旧暦四月の丑の日に拝殿でおこもりをしていた。
今でも五月の丑の日に神前でおこもりをして神に供え、のち戴いてその一都を持ち帰り牛に食わせる風習は今もかわりない。
(潤野の古老の話)


このように、旧・鎮西村には多くの物語が伝えられている・・しかし、村の若者たちは、このような物語さえ知らないのが現状です。
村に伝わるお話を、もっと見つけて知らせたいと思っています。