第5話 明星寺の廃絶
仏教布教のうえに大きな貢献をなしとげながら寺院経営の困難に堪えてきた明星寺がはたしていつころまで存続したかは、これまた明確には伝えていないようである。
この点についても信頼するにたる記録はないが、現存する資料として法橋琳弁の墓碑はきわめて貴重な価値をもつものである。
すなわち、81才で没した琳弁はこれまたいかなる人物であるか明白にすることはできないが、彼が法橋琳弁と呼ばれ、今日その墓碑を残していることからして少なくとも一山衆徒の中でも凡庸の者とは考えられない。
あるいは彼の年代における明星寺一山の学頭とも称すべき地位を占めていた者であつたかも知れない。前にも述べたように常寂が初期を代表する人物であれば、琳弁は鎌倉後期の明星寺を代表する重要な存在であったともいえよう。
しかも碑文によれば彼の没年は鎌倉も末期に近い元享2年(1322)2月2日と刻んであることから、元享2年頃(鎌倉末期)までは明星寺が存在していたものとみて間違いはない。
元享2年まで存在したとして平安末期から鎌倉末期までのおよそ150年間の歳月を重ねてきたことになる。
ここまでは確かに存続したことを認め得るがその後はたして何時ころまで続いたか、そしてどのような事情のもとに廃絶したか、その点全く不明というほかはない。
江戸時代に至っては今日の現状と全く同じ程度に荒廃して、わずかに面影をしのぶに過ぎないありさまであったことは筑前国続風土記のとおりである。
そのよな状態になったのはいつのころからであろうか。
これからは全く推論に過ぎないが、現在虚空蔵堂の前庭にたてられている赤間富次郎の碑文にもあるように、この地方一帯を荒廃と化した天正年間の兵災に堂塔伽藍を一朝にして焼失して、再び復興することがなかったとみることも意外に真実を語っているのかも知れない。
もし天正年間をもって明星寺廃絶の時期と想定するならば、平安末期以来およそ400年におよぶ明星寺の存続が推定されることになる。明星寺終末の時期をいつごろとするかについては、これ以上確かな資料となるものがみあたらないようである。
(鎮西村誌より抜粋)