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建花寺公民館前の,一本榎の根もとに石が1個置いて有る。
この石を「いぼころり」というが,土地の人の話によれば、この石にいぼをすりつげると取れるという。
青柳貞信神官の神杜由緒記録調査には観世音堂と記きされている。
古老の話では豊後大交宗麟との戦いに、笠置の落人かこの地に来て死んだのを葬った跡と言われ道賂改修のため道すれすれとなって残っている。
8月16日には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。
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下記の記事は鎮西村が飯塚市・二瀬・幸袋が合併したときに編纂された
“鎮西村誌”より抜粋して記載しております。
御夢想御伝記(原文のまま)
原夫日本は神国にして道は則ち神道なり 故に天祖国常立尊を始として天神七代地神五代の神々耳統御し給ひ人皇ハ神武天皇に始まり既に九拾六代の今に至る迄天照大神の皇御孫天行をしろし召して神より伝ふる三種の神宝を御身の護とならせ給ひ皇統万々歳天壌と共に窮りなきは蓋し是神国なる此故に日本は万国に勝りて貴き事を記すべし如笹日本は神国なれぱ神の教を神と云へる神道は却ち人道なれぱ朝暮身には離れさる道なり抑舞山桂木の由来は人皇九十六代光巌院の御宇将軍守邦親王正慶二年癸酉二月廿八日夜年頃廿三四計り女神轟髪冠装東着し枕頭に忽然と現れ是甚三左衛門汝が宅より申の方位に当る木山の谷奥ヘ三枝に生る夏木あり此木世に類なき末世には必ず秋津島の名木となる而して此木の元より出る泉を用ゆれば人盛長寿牛馬安穏五穀豊熟せむ克民に伝へ給へ吾案内にして教へくれんと宣ぺり依りて案内に従ひ登りけるに大深谷口に着ければ左右より少し流れ出づる水音鈴鳴の如くきこへしに此処より凡二丁余も登りけるに二筋に流れ出づるを桂川の内浦と宣ふ左桂の内川伝へ登りけれぱ谷迫となり誠に三枝に生る夏木ありる末世名を発せむものをと凝ひあるべからずと宣ひて消へ失せ給ふにぞ否や夢覚けり扱て不思議なる正敷夢中とは思へ共神の御告なりと其儘捨て置かれじと翌日與平兵次郎を招き夢中の次第を語り含けるに両氏誠に氏神の御告ならんと深く感じ直に申合わせ三人連れにて夢想の如く彼の山へ登りければあんの如く大谷口左の谷より流れ出づる水音鈴のなる如く聞えけるにぞ此処より凡二丁余登るに左右に流れ出づる川佳の内浦と教へある 左桂の内川り行く谷の迫りと成る処を見れば正敷三枝に生る夏木あり 誠に氏神の夢想にして御告なるやと拝し奉り有難再三拝し奉りて席宅いたし郷中の人々呼寄せ委細夢想神のまにまに物語りし其上申し合せ 翌三月三日上巳遊日なる故皆々引連れ桂木の元に参りける誠に神の御告ならんと皆々肝心仕りける 其後字を舞山桂木桂川の桂郷名発いたし月、又氏神に桂郷妙見宮と御尊号拝し奉りける誠に御夢想の有難ぎ感ずるに余りあり仰ぐべし尊むべし之に依りて氏神の報恩謝徳の瑞として敬而此一巻を末世に伝へ残す者也
坂垣四郎高房末孫.
正慶二年癸酉三月上旬
甚三左衛門
興平
兵次郎
興平
兵次郎
舞山桂木の由来(原文のまま)
抑舞山と云ふ険山の深谷に桂木といふ名木あり 其辺一神埋りて二度御世に出でさせ給ふ事なしと言ひ伝ふ共由来を尋ぬるに人皇七十九代六条院の御宇安元年間一老人あり 薪を取らんとてかの険山深谷をつたひて登りけるに頂は陽春桜花真盛り時にかかわらず 四方静かにして物すごく只ましらの声と諸鳥の口帝くのみなり 忽ち不思議の音して出づるものあり老人は猪鹿の類ならんと思ひしに遂に見馴れざる尊き老人身に白衣をつけ白馬に跨り老人に告げて日く我こそは此険山の霊神なり諸人我を祭らば五穀豊醸 諸病除去子孫繁栄凝ひなし
此深奥に当りて一つの奇木あり桂木と言う是我身体なり如何なる事あるとも此神木の枝葉を切る事勿れ 神木の根元より出づる清水を浴するものは難産の忠なしゆめゆめ疑う事勿れと云ひも終らずかき消す如く忽然として失せ給ふ 老人は不思議の思ひをして我家にかへり諸人に語りしかば人々数人打連れて再ひ深山に登りて尋ね見しに果して不思議の神木ありけれぱ諸人奇異の思ひをなし 春秋二度祭典を行うに至れり之れを伝へききたる近郷の人いづれも神木を拝見せんとて 日々の参詣人数千人深谷忽ちにして市をなすに至れり遂にをごそかなる神殿まで建立ありしが其後一百余年一夜大風雨ありて神殿を破り 且つ浪人さへ隠れ住むとの噂立ちければ諸人恐れて参詣するものなきに至れり
其後鎮西国師(聖光上人)竜王山麓に明星寺開山のとき此霊地の煙減せんことを恐れ山下に一寺を建立して建花寺と云ふついに寺号を以って村名となせり 舞山は元馬出づる山と書きしが後語音誤りて舞山と云ふに至れり是れ白衣の老人馬にのりて出でられしを以てなり舞山の南方に当りて鈴川と云ふ処あり是れ白衣の老人出でられたるとき
鈴の音きこへしを以て名づけたるものなり桂木は元来月中の神木なるを以て太陽此樹の頂上に来るときは暫時休息せらるると云ひ伝ふ依って舞山の南方の谷を名づけてひよこひ谷と云ふ 今は誤りてひよこ谷と云ふ桂木の有る谷を桂谷と云ひ其流水を桂川と云ひ其流域を桂の郷と云ひ其氏神を桂郷神杜と称し其他酒名屋号等に桂の名を用ふること多し 只示茲に一の奇なるは古より建花寺に生れたる婦人にして難産にかかりしもの一人もなしと云ふ 古昔は桂木の落葉を肌につけて安産の守りにせしと云ふ今に至るも村人の桂木を尊敬するの念少しも変らず堂字を建立して七五三縄を張り一枝一葉といへとも切ることを敢へてするものなく 春秋の祭典をなして夏分は毎日村人交代にて参詣して潮井を取りて村内戸毎に配分するを例とす 舞山は土地非常に肥沃にて樹木繁茂し幾度か切払われしにもかかわらず桂木丈けは切残されて 今日に至るを見れば如何に此木の村人に尊敬せらるるを推知すべし 桂木は他木に見るべからざる一種の生育力を有する奇木なり地上一二尺の所より数多の新芽を発生し 此新芽生長するに随ひて漸次に母木に吸引せられて遂に母木にまき込まるるに至る 独り自分の新芽を引込むのみならず 近傍に有るものは異種の木と云へども往々引込むことあり 現今も周囲二尺位の楓の引込まれて地上十余間の処に接木の如ぎ観をなせり一旦引込まれたろ木は 桂木の成長するに随ひて漸次に同化して上方に釣り上るに至るものなり 殊に樹木を引込むのみにあらず往々岩石をも引込むことあり三四十年前頃神体として桂木の根元に祭りし二ケの大石をも何時ともなく引込まれて今は地上数尺の所に釣上げられて奇観を呈す 天保十三年寅六月初句写之
桂の木に纏わるお話です・・・・
それでは桂の木をご紹介いたします。
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機会があったら一度見物に行ったらよいと思います。