旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

旧・鎮西村(鎮西八郎為朝の竜退治)

2013年06月06日 11時29分11秒 | 地域の伝説
地元に残る昔話として伝えられている、竜王山に纏わるお話として残っている。
大河ドラマ『平 清盛』の中で鎮西八郎為朝が出てきたが、豪快な人物とイメージがあり、地元の歴史の中に、この様に残っているとは奇遇でした。

竜王山(鎮西村誌の題材として掲載されていました。)

昔といっても今から八百年程も昔のこと、鎮西八郎為朝という弓の上手な剛の者がいたころの話てある。

そのころ、このあたりに竜王というとっても大きな竜が住んでいて、娘をさらったり・畑を荒したり・悪いことばかりして人を困らせておった。

それで剛の者の為朝がその竜退治をするということになった。

何本弓を射かけても竜王はびくともしなかった。

それで為朝は腹を立ててそれならこの矢を受けてみよといって、つぱを矢尻にはっかけて矢弦を満月のように引きしぼってから「エイ!!」と竜王目がけて矢を射った。

そしたら矢がヒユーンと飛んでもののみごとに竜王の眉問にあたったので竜王は「あいた〃」といってのたうちまわった。

そして死に物狂いで風を呼び雨を呼んで山に爪を立て尻ぽを地面にたたきつけて「工ーイ」と掛声をかけて天に昇った。

そのとき峰に五つへこみがてきたのが爪のあとでそれから竜王山と陣ぶようになった。

(古老の話)


竜王神社の水神



竜王神社は水神で、旱魃のとき祈願すれば霊験あらたかであった。

そこに祀られている龍は、鎮西八郎為朝の弓で殺された龍だという伝説がある。
 
源為朝は頼朝義経の父源義朝の弟で、頼朝の叔父になるが、身の丈2m を越える大男で傍若無人のため父為義に勘当され、九州に追放される。

豊後阿蘇氏の養子となり九州の大将、我こそは鎮西の追補使と自認した。

その頃のことである、為朝は得意の弓を携えて犬をつれて鶴見岳(大分県別府市)に猟に出かけた。

眠くなり木の下で眠っていると犬がけたたましく吠えたてる。

うるさいと怒って犬の首をはねてしまう。

ところが犬の首は飛んでいって、彼の背後に迫っていた大蛇に噛みついた。

やっと為朝は危急の事態を知り大蛇の首をはねた。為朝は犬のお陰で命拾いをした。
 
この大蛇が筑前のこの山まで飛んできて祀られた。

(参考資料)

● 由布院伝説考 其の三 ~源為朝・竜退治伝説

● 黒髪山の大蛇退治

● 黒髪山大蛇退治伝説

今では考えられないが、昔は面白く話が伝わり「鎮西八郎為朝の大蛇退治」が基になりこの様な話が創造されたのではないかと思われる。

旧・鎮西村(八木山村古戦場)

2013年06月03日 09時03分51秒 | 地域の伝説
(花瀬街道・石坂の戦い)で書いていたけど、筑前風土記(貝原 益軒著)にも八木山村古戦場と題して記載されている。

八木山村古戦場


上村に城が尾と云山有。南の高山龍王嶽につづけるひきゝ山也。

 


村民の云へるは、天正の比にや、立花の戸次氏の兵共、此所に取上りしを、秋月氏の軍勢來り責ける。

薩摩勢も秋月勢に助合て戦ひけるが、其時多くの人数討死せり。

其死骸を埋し所、城が尾の西に有。千人塚と云、今按ずるに、天正九年十一月の比、豊後大友家の軍勢、筑後國生葉郡にうち出ける故、秋月種實上座郡に出張して対陣するよし、風聞有けるにより、立花の戸次道雪、岩屋の高橋紹運、両家の勢五千餘人を卒し、秋月勢を遮り分させんため、秋月領内に働き、飯塚片島の邊まで悉く放火すれ共、出合敵なければ、同月六日に引取んとす。

秋月方には、種實上座出陣の留守なれば、道雪・紹運と平場にての合戦成難るべし。

只敵の引取時、山道のせばき切所、備のまはらぬ所に追懸て討べしと、兼て臼井、扇山、茶臼山、高の山、馬見などの城代共と、僉議し置たる事なれば、四五千人起りて、戸次・高橋兩家の勢、引拂ひ行跡を追てぞ懸りける。

道雪・紹運是を見て、すこしも敵にかまひなく、足輕共を後陣に立、遠矢に敵の付來るを防がせ、静々と引退く。秋月勢是を見て、急に討て競ひ懸る。

道雪・紹運八木山の東の坂にて、先陣後陣一度にとつて返して突懸る。

秋月勢の旗下の士共、暫し支へて戦ひしが、終にこらへず引退くを、追詰て討程に、穂波郡土師と云所迄三里餘の間、一ども返し合せず。

道雲・紹運の手に首數二百三十打取、今は是迄也とて閑に引返す所に、秋月留守居の家老共比由を聞付、上野四郎右衛門、坂田市之丞○豊前城井長野、上原が勢、上座出陣に催され、只今秋月に着陣したるを引率して、五千餘人臼井坂を打下し、屋山原より横合にぞ懸りける。

是を見て最前退散せし秋月勢ども力を得、一に成合て、都合八千八百餘人急に追懸たり。

道雪、紹運良將なりといへ共、今朝よりの合戦に人馬共につかれたり。秋月方はあら手にて、しかも大勢成ければ、返し合て戦ん様もなく、土井を下りに引退く。

秋月勢は勝に乗て、引おくれたる敵共を追詰々々、三百餘人討取けり。

上野坂田は種實に從て、多年軍功ある者共なれば、敵の返すべき廣みにては、遠矢に鐡砲を打懸、閑に追ひ、敵の返し難き切所にては、関を作り、追詰々々討程に、さしもの道雪、紹蓮一度も終に取て返さず。

され共さすがの良將なれば、糟屋郡へ難なく引取れける。かゝりければ、秋月勢も今は是まで也とて、八木山より引返し、追討にしたる首四百餘八木山村の東の嶺に切懸て、秋月に蝪歸りけるとぞ聞えし。



右にいへる城が尾千人塚なども此時の事にや。
 
(筑前国続風土記 巻之二十五)


八木山石坂古戦場について

 
中世八木山とは、現在「千人塚(皐月GC:竜王コース近く)」のある本村付近を指した。
 
筑前続風土記によれば八木山氏と云う地頭がいたようである。


 
当時、この付近は人里遠く山深いところであった。

篠栗へ下る直前に山伏谷という所があるが、この地名の由来は、この辺りに山賊が出没し、山伏せを殺していた事に由来すると言う。

 
風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。
 
筑前続風土記に「石坂の戦い」は書かれていないが、石坂を取り上げて書いた事は、当時からこの場所が大変な通行の難所であった事が覗える。
 
只、筑前国続風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂は黒田長政の入国後「黒田如水」によって開かれたと路筋と言う。

 

 
元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。

石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという。
 
いまある「茶屋」の地名はその名残り。当時は二本の松ノ木があったと書いているが、今残っていないようだ。

風土記の記述が正しいとすれば、戦国時代の路は今の石坂より北、飯塚へ流れる建花寺川の上流谷筋(蓮台寺)から山に取り付き、鎮西カツラの木のある辺りの上尾根を迂回したと見られる。
 
当時も建花寺川と呼んだかは分らないが、川の名称は中世は違って居た。

遠賀川は、このあたりは「嘉麻川、下って直方川、更に木屋瀬川、と呼んだ)
 
仮に、激戦地がこの戦いの戦死者埋葬した「千人塚」の説明板の記述にあるように「八木山展望台」辺りだとすると、合戦時ここは大変な急斜面、比高もあり攻め上がるは相当困難である。

こうして地形を見ると「石坂」と言っても、直接その場所指すのではなく、主戦場は十数町北の山地から、千人塚にかけてと見られ、石坂はその総称ではなかったか。
 
この戦いの戦死者葬った「千人塚」の位置からして、急坂急崖を千体もの死体集め、三十町も離れている所まで運び埋葬したとは思えない。

八木山千人塚

(飯塚市八木山本村:記事に重複有)


天正年間筑前国は、豊後大友氏の立花城「戸次道雪」、岩屋城「高橋紹運」と筑前筑後の諸将との対峙が熾烈を極めていた。

その中でも「秋月種実」は弘治三年七月十九日(一五五七)「戸次鑑連」率いる大友軍に古処山を攻められ父「文種」が自刃に追い込まれる。

当時十三歳の「種実」は家臣に守られ、かろうじて逃れ中国「毛利元就」のもとへ逃れる。
 
天正に入り(天正四年前後)「種実」は古処山城を奪回帰参する。古処山に戻った「種実」は父の仇敵大友に常に対峙、休松、柴田川、八木山、岩屋、立花など各地で大友軍と戦う。
 
天正九年十一月「戸次道雪・高橋紹運」は大友に反旗した筑後国生葉軍井上城「問註所鑑景」をめぐって、支援する「秋月種実」を撹乱するため、五千騎にて秋月領「嘉麻」「飯塚」に討って出る。

大友勢は「潤野」「大日寺」一帯に火を放ち、稲穂を刈るなど蹂躪。
 
これに秋月種実は同じく五千騎で追跡。篠栗と飯塚の間「八木山石坂」で「紹運」「秋月」が激戦となる。

その中「道雪」の伏せ兵千騎が秋月勢に襲いかかり、秋月勢は総崩れとなった。
 
この戦いを「八木山石坂の戦い」または「八木山村古戦場」という。
 
この合戦の戦死者、秋月七百六十、大友三百、あわせ千人を越えた。
 
「千人塚」は「石坂合戦」で戦死した両軍の死体を集め葬った所と言う。

激戦地は三十町ほど東「石坂」とされるが、このあたりも主戦の激戦地であったのではないか。

古戦場の近くには様々に戦死者を弔う塚や地蔵塔があるが、この「千人塚」は、実数で千体を埋葬したか分らないが、まるで古墳の様に丘陵をなし大きい。
 
恐らく延長は四十m近く、幅も二十五m高さ七~八m近くある。戦国のものとしては九州では一番大きな塚であろう。

八木山とは古くはこのあたりを指していた。

参考資料  筑前続風土記
筑前戦国史・引用  吉永正春 著
日本図誌大系 九州 Ⅰ


石坂の戦い ・・八木山峠(福岡県飯塚市)

参考資料にお読みください。(詳細が記載してあり・・解り易いと思います。

旧・鎮西村(人形芝居・桂木座)

2013年05月30日 09時02分19秒 | 地域の伝説
村の観世音堂(建花寺址)を守る友人の父親か祖父のお話です。

建花寺の古野には浄瑠璃にあわせて人形をあやつる一座があって、村人に伝えられていた記録がないのではっきりしないが、70年~80年前、村瀬甚次郎という人がいて浄瑠璃が好きで、また人形を扱うことが器用であった。

この人が主となって粕屋郡伊賀のあやつり師(姓名不祥)を招き同好の士とこれを習ったのがはじまりらしい。

後熊本県出身で鞍手郡若宮町に住む大西岩吉なる人を師としていよいよ研究し、最盛期を作りあげた。

そのころは地元の人で浄瑠璃を語らない人はないというくらいで、また三味線を弾く人もいたが飯塚や伊岐須にも浄瑠璃が好きでぜひあやつり人形をまわしてほしいという人もあって,この人たちは引き幕や舞台のうえの垂れ幕などを寄贈した。

これによって「建古座」ともいったことがわかる。

 

巡業は嘉穂郡内はもちろんのこと、直方・宮田・田川までいき,ことに日鉄二瀬の山神杜祭りや大隈では毎年演じてたいへんに喜ばれたものである。また遠くは佐賀県岩屋までいき三日間も開演したこともある。

村内でも春秋の祭りや,先祖の追善供養などにも農閑期にはほとんど家にいたことがない。zzzzz

出し物は太閤記十段目先代萩三十三間堂阿波の鳴門、御所桜、忠臣蔵など多彩で、人形も30体ほどあり、他に八尾の狐、馬、鼠、などの動物と、箱下駄、建具(35枚)、見台、引き幕などもあった。

演出者も義太夫,三味線を除いても15人ほどもおり、なかなかにぎやかであった。

このような立派な文化財も,浄瑠璃を語る人もなくなり,人形をあやつる人もだんだん少なくなって現在ではわずかに2人を残すばかりである。また人形もこわれ、衣装も破れ、狐、馬、鼠などの動物、箱下駄、建具、見台も散逸し、残ったものの維持にも困るありさまとなっている。

現在では三番そうを酒宴などに披露する程度にすぎず、これが衰微の一途をたどっているのは数少ない村の文化財としてまことに残念なことである。

先人たちが作った、伝統芸能であるが後継者が居らず、今は、人形の首や幕が残っているだけで・・ほとんど廃ってしまっている。(先人たちの心の豊かさ・娯楽の無い時代の潤いを感じています。)

旧・鎮西村の歴史(石坂・潤野の合戦)

2013年05月14日 09時57分15秒 | 地域の伝説
石坂・潤野の合戦

天正十年は織田信長が全国制覇の寸前に惜くも本能寺に敗死した年であり、信長の遣業をうけついだ秀吉が全国統一の偉業をなしとげたのが天正十八年(一五九二)である。

これをみても天正年間がいかに戦国争乱の時代であったかが知られよう。

まさに統一直前の終盤戦が各地に展開された時代である。

九州においても大内大友龍造寺が九州各地の小豪族を配下に従えて九州全島の支配を三分して争った時代である。

天正の後年になっては毛利,大友,島津が北部九州の争奪に激しい戦いをくりかえしたようである。

特に早くから筑前地方を支配してきた大友は,南九州を領有した島津の侵略を受けて筑前・筑後一帯を防衛するのに懸命であった。

粕屋郡の立花山に居城をもつ立花は大友の勇将であり、古処山に城を構えた秋月は、島津北進の先鋒であった。

このような形勢の中で秋月立花との間に嘉穂盆地の争奪戦がくりかえされたのは天正十年の前後数年間にわたったようであるが、立花山と秋月との間にあった私たちの村が戦禍の災難から逃れることができようはずもない。

次に抄録する記録は戦火に明けくれたそのころのようすが生々しく伝えられたものである。

立花家文書

天正九年十一月六口於穂波表合戦の砌、戸次伯耆入道雪家中之衆、分捕高名、或被疵戦死之着到,令披見言乞
県史(1の下)


これは大友が秋月と戦った大友方の勇将立花道雪に与えた書状で部下将兵の功績と負傷者,戦死者の名簿を披見したと書いたものである。

横大路文書

前之六日・穂波郡潤野原合戦之刻・最前被砕被刀疵之由候,感悦無極候,必配当矯,何様可賀之候,恐々謹言、
天正六年十一月十一日統虎 道雪 横田伊豆守殿
(県史1の下)


前の書状は立花道雪,宗茂の父子が配下の臣横田伊豆守に与えた軍忠状である。
すなわち重傷にも屈せず奮戦した働き振りはまことによろこびにたえない。
戦い終わって賞を行う際には必ず賞讃することをわすれないと感激をこめて書いたものである。


同じ十一月の潤野合戦に負傷しながらも奪戦した薦野増時にも同様の軍忠状をおくつているが、天正九年十一月(一五八二)潤野の一帯を戦場にして北上する島津の先鋒秋月軍と大友勢力防衛の先陣立花軍との間に激突がくりかえされたときのことである。

この戦いによって寺院も神杜も焼き払われたが再興のいとまもなかったであろうし、兵火によってやきはらわれた民家に佇むうちのめされた村人の悲惨な有様が目にうかぶようである。

日本全国がそうであったように私たちの村もこのころの戦火で焦土と化してしまつたのではなかろうか。

かってそれ以前に栄えたと思われる明星寺をはじめ村内の寺杜もそのころを境にして全く昔日の面影をとどめるものもないまでに焼失してしまったようである。

そのような戦禍の惨状が秀吉の島津征伐の終るまで続いたとおもわれる。
秀吉が大隈城に到着して秋月をくだしたのは天正十五年四月二日(一五八七)のことである。

当時の戦況を九州紹運記には次のように述べている。

鑑連公、紹蓮公御両家の人数を以って穂波郡へ打出石坂守龍野へ御陣被成賀麻穂波両郡を放火し引き退く処に秋月より八千の人数を指出し……紹蓮公御白身御長刀をめされ早やかかれ者共と御声を励し切り懸らせ給えば・……槍を入れ太刀を合せ或は組合い差違え黒煙を立て、(九州紹運記)こうして秋月八〇〇〇人の兵に対して立花,高橋の連合軍も六〇〇〇人の兵を繰り出して八木山、潤野の線に合戦を展開した。
ついに秋月方の七〇〇人を討ち取って粕屋郡に引き上げたと記している。

鑑連公とは立花道雪のことである。

このときの合戦に高橋紹蓮の嫡男統虎公が十六才にて初陣かくかくたる武勲をたてたとも書いている。

統虎はこの後立花道雪にみこまれて道雪の養子となり、後には朝鮮の役にも勇名をはせた筑後柳河藩主立花家の祖先立花宗茂である。

戦国の勇将立花宗茂十六才の若武者振りもさることながら、その日の合戦の思い出は彼にも終生忘れることのできない追憶となったであろ。

村内各所に伝えられる城跡や古戦場はいずれもそのころのつわものどもの夢の跡である。

八木山千人塚のいい伝えも天正九年十一月(一五八二)の激戦の語り草のようである。

天正十五年六月(一五八七)遠征終った秀吉が九州諸大名の領地を定めここに九州の兵乱は全く鎮定した。

そして筑前一国と筑後の一部は小早川隆景が領有することになった。

それにしても私たちの村にとって天正の戦禍はなにもかも村全体を一変してしまったようである。

踏みにじられた平和な生活をとりもどすために祖先の人たちの不屈の一鍬一鍬は焦土の中に新しい村を再建してぎたのである。

鎮西村再建の時代であり、むしろ今日の私たちの村の新しい出発の時代となったようである。

豊前覚書(弓箭物語柳川国初日記トモイウ)

元和元年二月城戸豊前守清種の著述
道雪(立花)様紹運(高橋)様御人数天正八年慶辰九月上旬=石坂=而御両家之御人数御もやひ被成、穂波郡の内潤野原御打出、御両殿様御すわり被成候。

左様御座候処=秋月衆八千程にて朝辰の時分御陣所へ攻掛申候間、御両殿様急ぎ馳向候へと上意ニ候へ共、大橋京林被申上候分=時悪戦敷候間御据り場=引受御鑓被侯へと被申上半、無程敵近参候間、先手之衆堪兼突掛り可申と被仕候処、大橋京林さいふり時は京林へまかせられ候へと被申候間三段程之田之間を隔て据候所へ実かり申候間、早時分死候と被申=付て据場立候へ則鑓打むかひ其まま御突崩し、はじと申村迄三里追打被成、秋月殿内歴々の侍三五〇余御打捕被成候、御両殿様彼頸実見被成頸見塚三ツ京林つかせ被てより、御両殿様御時宣を被成候て、先道雪様御腰物御脱勝時御上候てより、追付紹運様御腰物御脱御勝時御上候てより惣勢一度二刀ヲ脱キ御勝時を上候刻ハ天地も響き雷電稲妻の如く夥敷事無比類侯。

誠に弓矢八幡摩利支天かと、御両殿様御事申すべく、左候てより石坂之様二御引被成候。

八木山へ御陣被成、惣勢二被仰渡候分い、人別ニ炬ヲ誘候へと被仰付候間、何も相誘申候由申上へ、大祖山の峯より宝満迄彼炬むらもなくり、灯候へと御意候間、八木山御陣所より宝満まで四里之道灯流申侯ヘバ、味方見申てさへ夥敷候間、秋月面より見申候ハ、御両家の御人数存之大勢御座候由、批判仕候由承候。

翌日巳の刻ニ御両殿様御参舎被成候而、御誤合被遊候てより、紹運ハ葉山の内嶺通り宝満之様二御帰陣被成候。道雪様ハ石坂より金出通御被成候右御語合之義統虎(立花宗茂)ヲ道雪様御養子可被成様二風聞申候。

八木山・石坂の戦い

「石坂の戦い」は、「筑前国続風土記」に「八木山村古戦場」として記述がある。
この合戦は「立花統虎」の初陣として知られている事から、統虎中心に記載する。
「八木山合戦・石坂合戦」が正しく同一の戦いであったかは確認できない。
「統虎」が立花城に入った頃は「戸次道雪」の「立花姓」はまだ許されてはいなかった。
「道雪・統虎」が正式に立花姓を継ぐのは天正十年十一月十八日以降である。 
「柳川立花家」の史料によれば「道雪」は生前「立花氏」は用いず「戸次道雪」を通し、死後に「立花道雪」と呼ぶように為ったとしている。
 
「統虎」は永禄十年十一月十八日(一五六七)豊後国国東都甲荘、屋山(八面山)の北麓、長岩屋松行川沿いの吉弘館「筧城」で「吉弘鎮理」の嫡男として誕生した。幼名は「千熊丸」。

吉弘氏の本城は「屋山城」であったが、平時は麓の館(筧城)に居た。
この館(やかた)のあった場所ははっきりとしないとされる。長岩屋松行川の辺りであったことには違いないようであるが、堀の内あたり、吉弘氏の菩提寺「金宗院跡」など云われている。弟に「統増」がいる。

元亀元年五月、父「高橋鎮理」は筑前国豊満山、岩屋城城督として入り、「高橋鎮種」と歴代大蔵系高橋氏の偏諱(いみな)「種」をつけ「鎮種」更に入道して「紹運」と号す。
この時千熊丸は三歳であった。

千熊丸は子供の時から体大きく、がっしりしていたと言う。弓矢撃ちにも長け、物事に動じず、状況判断や機転はすばやかった。 
何事においても同じ歳の子供はおろか年上にも負けなかったと言う。
「千熊丸」は持って生まれた武将としての天性のものを備えていた。
この嫡男に「紹運」は吉弘家の行く末の安泰を感じていた。

この「千熊丸」の器量は「道雪」も見て取っていた。
「道雪」「紹運」は親子程も歳は違ってはいたが、武将として相通ずるものがあり盟友関係にあった。
千熊丸は元服して名を「統虎」と改める。

天正九年八月十八日「道雪」は、「戸次・高橋」の絆をより強固にする事こそ、筑前牽いては大友を安定させる道と、「紹運」に「千代」への婿養子を申し出る。

「老将道雪」の、このたっての依頼に、「紹運」は統虎を「千代」の婿養子とする事を了承する。

立花山城へ入った「統虎」はその年の初冬、天正九年十一月六日「秋月種実」との八木山「石坂合戦」に、両父「道雪・紹運」と共に初陣する。

この「石坂の戦い」は何度と無く熾烈をきわめた、大友、秋月の戦いの中でも、この穂波郡内(穂波郡は、古くは穂波屯倉・ほなみのみやげ、と云った)最大規模の戦いと言っていい。
多くの者が討ち死しそれを弔った「千人塚」が八木山本村に、残されている。

筑後国生葉郡井上城「問註所鑑景」は従来大友に従っていた、しかし秋月種実が力つけ大きくなると「種実」に通じる。

この事態に同族問註所統景」は大友に救援要請。

豊後より「朽網統暦」が到着する。

これを支援し、秋月の兵力を分散撹乱するため「道雪、紹運」の両将は「初陣の統虎」へ伴い鞍手より「嘉麻・穂波」方面に軍を進めたのである。

ところが「朽網」は突然豊後へは引き返えしてしまう。秋月種実も井上城へと篭る。

憤懣やるかたない「道雪・紹運」は、秋月の領地、飯塚片島、潤野、大日寺一帯に火を放ち蹂躙する。これに「種実」は、急遽兵五千騎あまりで大友軍を追討する。

この合戦に初陣の「統虎」のいでたちはまさに「武者絵」を見る如くであった。
煌びやかな唐綾縅の鎧、前立て勇しく兜の緒をきりっと締め、金象嵌に鹿皮の尻鞘の太刀を佩き、矢筒背高に負い塗籠めの強弓手に、栗毛の駿馬に乗り凛々しい武者姿であった。

この戦いの発端は前記の如く、鞍手方面から打って出た「戸次道雪、高橋紹運」勢が、飯塚、嘉麻一帯を蹂躙したことに端を発した。
追討してきた「秋月」勢に大友勢は激しく襲い掛かり序戦は、大友勢は秋月の首級三百を挙げる。

初陣に臨んだ統虎は、馬を下りると何を思ったか「自分についてくる者は来い」と紹運の本陣より三町も離れて陣を構えようとした。驚いた統虎の傅役(もりやく)「有馬伊賀守」は「本陣を離れては敵に付入られ危ない、紹運さまの陣へお戻り下さい」と諫めた。

これに統虎は「敵が大勢でも如何ほどのことはない、父と一緒に動いては、我に従う者も父の勢と共に進退して、我の下知には従わなぬではないか。

ここは、我の計りごとに任せよ」これに傅役(もりやく)伊賀守は「この機あって戦慣れした者でさえ考えもつかぬ事、年端も行かぬ初陣の者にしては人並みを勝れた知略である、天性の武将の才能を備えておられる。

ここは「統虎様」の計略通りいたそう」と百五十騎ほどを統虎につき従った。

戦いは熾烈を極めた。建花寺川(けんげじかわ)の谷筋の急坂を攻め上がって来た秋月勢に「紹運」は至近まで引き寄せ、一斉に「鉄砲」「弓矢」を撃ちかけたので、秋月の先鋒が次々倒れ先陣の七百が怯んだ。

これに「紹運」機今と自ら大太刀振るい切り込んだ。
秋月勢はこの「高橋勢」の勢いに石坂下に落ちる。(現在も、石坂の下あたりを坂の下という)

これに秋月の二陣壱千騎が犇めき合って攻上ってきた。

「紹運」も更に気力振るって切りまわる。

そこへ静かに伏せていた「統虎」の一五〇騎は秋月の横を突いて打って出た。秋月の後陣参千も攻め上がり、紹運の千五百との間に激しい合戦となった。

双方に戦死者も増えた。この状況の中、初陣「統虎」は鎧を揺るし秋月雑兵を倒すが秋月勢が群がるように統虎に迫っていた。

有馬伊賀守も必死に統虎を守ろうとするが自身も方々に太刀傷受けていた。
この有馬へむけ秋月の剛の者「堀江某」なる者が討ち懸ろうとした。
これに気付いた統虎、強弓に矢を番え「堀江」に向け放つと、矢は堀江の利き手に見事命中、子供の頃から小鳥も射落としたという統虎の弓の腕は確かであった。

それでも手負いの「堀江」秋月でも名を為す兵(つわもの)「統虎」に組討で懸る。
しかし体力に勝る統虎はこれを一気に取り押さえる。

そこを統虎に従っていた「萩尾大学」が首級上げる。

戦いは、「戸次道雪」の伏せ兵壱千余りが林から一気に懸ったので秋月勢は総崩れとなって敗走する。

この「秋月種実」に「戸次道雪高橋紹運」初陣の「統虎」の争った「八木山石坂の戦い」、大友三〇〇、秋月七六〇、併せ壱千体越える戦死者だす壮絶な合戦であった。

中でも、「統虎」は知略のある陣立で軍勢を調え「初陣」を存分に戦い、優れた武将としての片鱗をみせた。

翌年「立花統虎」と姓を改め、以後戦国の世を戦い抜く。

八木山石坂古戦場について

中世八木山とは、現在「千人塚(皐月GC:竜王コース近く)」のある本村付近を指した。

筑前続風土記によれば八木山氏と云う地頭がいたようである。

当時、この付近は人里遠く山深いところであった。

篠栗へ下る直前に山伏谷という所があるが、この地名の由来は、この辺りに山賊が出没し、山伏せを殺していた事に由来すると言う。

風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。

嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。

筑前続風土記に「石坂の戦い」は書かれていないが、石坂を取り上げて書いた事は、当時からこの場所が大変な通行の難所であった事が覗える。

只、筑前国続風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂は黒田長政の入国後「黒田如水」によって開かれたと路筋と言う。

元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。

石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという。
いまある「茶屋」の地名はその名残り。
当時は二本の松ノ木があったと書いているが、今残っていないようだ。

風土記の記述が正しいとすれば、戦国時代の路は今の石坂より北、飯塚へ流れる建花寺川の上流谷筋(蓮台寺)から山に取り付き、鎮西カツラの木のある辺りの上尾根を迂回したと見られる。

(当時も建花寺川と呼んだかは分らないが、川の名称は中世は違って居た。
遠賀川は、このあたりは「嘉麻川、下って直方川、更に木屋瀬川、と呼んだ)仮に、激戦地がこの戦いの戦死者埋葬した「千人塚」の説明板の記述にあるように「八木山展望台」辺りだとすると、合戦時ここは大変な急斜面、比高もあり攻め上がるは相当困難である。

こうして地形を見ると「石坂」と言っても、直接その場所指すのではなく、主戦場は十数町北の山地から、千人塚にかけてと見られ、石坂はその総称ではなかったか。

この戦いの戦死者葬った「千人塚」の位置からして、急坂急崖を千体もの死体集め、三十町も離れている所まで運び埋葬したとは思えない。

八木山氏宅址と八木山殿墓



八木山の老松神杜の杜地前に八木山氏の宅址という所があり、中村に八木山氏の先祖の墓という所がある。
墓という所は高さ60cmで1.5m四方の盛り土に小さい祠がたっている。
土地の人は地主様といっている。

(私が行ったときは、見当たらなかった・・口枯れたのか・新しく立ち代ったのでは?)

八木山千人塚(鎮西村誌)

天正年間筑前国は、豊後大友氏の立花城「戸次道雪」、岩屋城「高橋紹運」と筑前筑後の諸将との対峙が熾烈を極めていた。
その中でも「秋月種実」は弘治三年七月十九日(一五五七)「戸次鑑連」率いる大友軍に古処山を攻められ父「文種」が自刃に追い込まれる。
当時十三歳の「種実」は家臣に守られ、かろうじて逃れ中国「毛利元就」のもとへ逃れる。
天正に入り(天正四年前後)「種実」は古処山城を奪回帰参する。古処山に戻った「種実」は、父の仇敵大友に常に対峙、休松、柴田川、八木山、岩屋、立花など各地で大友軍と戦う。
天正九年十一月「戸次道雪・高橋紹運」は大友に反旗した筑後国生葉軍井上城「問註所鑑景」をめぐって、支援する「秋月種実」を撹乱するため、五千騎にて秋月領「嘉麻」「飯塚」に討って出る。
大友勢は「潤野」「大日寺」一帯に火を放ち、稲穂を刈るなど蹂躪。
これに秋月種実は同じく五千騎で追跡。
篠栗と飯塚の間「八木山石坂」で「紹運」「秋月」が激戦となる。
その中「道雪」の伏せ兵千騎が秋月勢に襲いかかり、秋月勢は総崩れとなった。
この戦いを「八木山石坂の戦い」または「八木山村古戦場」という。
この合戦の戦死者、秋月七百六十、大友三百、あわせ千人を越えた。
「千人塚」は「石坂合戦」で戦死した両軍の死体を集め葬った所と言う。激戦地は三十町ほど東「石坂」とされるが、このあたりも主戦の激戦地であったのではないか。
古戦場の近くには様々に戦死者を弔う塚や地蔵塔があるが、この「千人塚」は 実数で千体を埋葬したか分らないが、まるで古墳の様に丘陵をなし大きい。
恐らく延長は四〇m近く、幅も二五m高さ7~8m近くある。戦国のものとしては九州では一番大きな塚であろう。 
八木山とは古くはこのあたりを指していた。

異説:石坂の戦い「八木山村古戦場」

この項は別途「石坂の戦い(統虎初陣)」にて紹介した「戸次道雪、高橋紹運」「秋月種実」の争った石坂八木山合戦を「筑前国続風土記・巻之二十五」版をもとに書き上げたものである。

この戦いの発端は、大友氏旗下筑後井上城「問註所鑑景」が秋月に寝返ったことから、同長巌城城主で一族の「問註所統景」救援に「大友宗麟」が豊後直入郡山野城「朽網宗暦」を派遣したことに起因する戦いである。以下「風土記」を読み替え一部書き足した。

中世、筑前国穂波郡八木山村は「上村・下村」の二村に分かれていた。

その「上村」に「城ガ尾」と云う山がある。

この山は南方の高山である「龍王嶽」に続く低山である。(こん日この山の場所は、はっきりとはしない、風土記の文面より、現八木山小学校の南あたりに位置しているようである)

天正の頃「立花山城」の戸次氏の軍勢が「城ガ尾山」へ取上り占拠したので「秋月種実」の軍勢が責めて来たのだという。

これに「薩摩勢」も援軍出し戦ったが、この合戦で双方に多くの兵が討ち死を出した。

その死骸を埋めた場所が「城ガ尾」の西にあって、今も「千人塚」と呼んでいる。

天正九年十一月、豊後大友家の軍勢が筑後国生葉郡に侵入撃ち出た折「秋月種実」はこれを迎え撃つため、上座郡(かみつあさくら)に出張って対峙するとの情報が「道雪、紹運」の下へ入った。

これに立花山城の「戸次道雪」岩屋城「高橋紹運」は、両家の軍勢併せ都合五千余騎を引き連れ、秋月の軍勢を遮り分断させるための撹乱作戦に出たのである。

両将は秋月領内深く、嘉麻郡飯塚片島辺りまで押し入り、周辺悉く火を放ち焼き払い蹂躙した。
しかし対抗する秋月勢との出合いは無かった。

天正九年十一月六日やむなく、道雪、紹運の両将は嘉麻より一旦陣を引くこととした。

一方秋月方は「種実」が上座(かみつあさくら)に出陣中、留守のこともあって「道雪、紹運」両将相手に、平な場所での戦いは勝算は望めない。

敵が引く時山道の狭い切岸や、陣形のままならぬ場所に追い懸けて討ち取るべく、兼ねてより秋月旗下の臼井、扇山、茶臼山、高の山、馬見山の各城代共と僉議(せんぎ)を重ねてあった。

このため、秋月方はたちまち五千余人が集まり「戸次、高橋両軍」勢の引きいく跡を追い懸けて行った。

しかし「道雪、紹運」は少しも騒がず、敵に構うことなく「足軽」共を殿(しんがり)に立て、遠矢を放ち秋月勢の付け来るの防ぎ、静々(しずしず)引き退いていった。
これを見た秋月勢は、俄かに競うように追討してきた。

「道雪、紹運」は八木山の東の坂にて(石坂を指すと見られる)、先陣・後陣、一気に取って返し突き懸けていった。

秋月旗下の士たちも、暫くはこれを支えて戦っていたが、終に(遂に)こらえられず坂下へと引き落ちて行くところを「道雪」「紹運」の軍勢はこれを追い詰め、穂波郡の土師(はじ・現嘉穂郡桂川町土師)まで凡そ三里余(一二km余 それにしても「道雪、紹運」両将にしては、何故これほど敵領地の中深追いしたのであろうか)追い詰めた。
この間、秋月勢は一度も押し返すことが出来ず、「道雪、紹運」は敵首二百三十あまりを討ち取った。

「道雪、紹運両将」も今はこれまでと、閑(しずかに)引き返そうとした時。秋月(距離からして、おそらく古処山城、又は小石原城)」にいた留守居の家老達が、この事態を聞きつけ、上野四郎右衛門、坂田市之丞、井豊前、城井、長野、上原らの勢五千余人が、上座出陣に催促され着陣を終えたばかりであったことから。秋月の家老達はこれを引きつれ、臼井坂を打出し、屋山原(弥山原・現飯塚市弥山)より「土師」に至っていた
「大友軍」の横合より突き懸っていった。

これを見て、引きかけていた秋月勢は俄かに力を得て合流、秋月勢都合八千八百余人は一気に、取って返し「道雪、紹運」勢へ反撃を開始した。

これにはさすがの「道雪、紹運」も、朝からの合戦に人馬共に疲れており、対し秋月方は新手が加わり大軍となっていたので、戦いを避け引き退くことになった。

秋月勢は勢いに乗って、引き遅れた大友勢を追い詰め三百余人を討ち取る。

秋月の将「上野」「坂田」は、「種実」に従い長年軍功のある者達で、敵の取っ手返し易い広場では、遠矢、鉄砲を撃ちかけ閑に追い、取って返し難い切所では鬨(とき)を作って討ち懸かった。
これには勇将もって知られた「道雪、紹運」も一度も取って返すことが出来なかった。
しかし、さすがの両将、この後兵を統率糟屋郡へと難なく引き上げたのである。

秋月勢も今はこれまでと、八木山より引き返し追討した首四百余りを八木山村の東の嶺に切りかけて秋月へと引き上げた。 

城ガ尾」「千人塚」とはこの時のことである。

         
参考資料  筑前続風土記
         筑前戦国史・引用  吉永正春 著
         日本図誌大系 九州 Ⅰ



旧・鎮西村(八木山峠と花瀬街道)

2013年05月02日 11時41分20秒 | 地域の伝説
慶長五年十月(一六〇〇)長政筑前に封ぜられ十二月初父孝高(如水)と共に豊前より筑前に入り、飯塚太養院に宿泊。


黒田長政はじめて豊前中津から筑前名島城に移る道中飯塚に泊り、花瀬街道を経て坂の下に出て、それから石坂の急坂を登り八木山を越えたことを書きとめたものである。

慶長六年には入国の際難儀した石坂の改修が行なわれている。
如水は自ら八木山茶屋に逗留して坂道改修を指図した。
当時八木山茶屋の百姓二名に与えた書状を今も伝えているが損敗はなはだしく判読しがたい。

筑前続風土記拾遣から引用した郡誌の記載によよると、慶長六年八月二四日(一六〇一)如水より八木山の両名宛に授けた書状に夫役末代免除、年貢は三年間免除、三年以後は三分の一、但し田畠の作料として月に薪一駄宛納めさせよ、その他は一切徴収してはならないという意味のものらしい。

おそらくは如水滞在中石坂改修に特に精励した恩賞であろう。
入国の翌年早々に如水自ら出向いて道路の改修を督励したことは特に注目すべきことのように思われる。

それはただに前年不便を感じたということではなく、筑前統治のうえに福岡、飯塚間の交通を非常に重要視したということも考えられるのではなかろうか。

かって天正の頃、秋月と嘉穂の地を争った粕屋の立花は幾たびかこの峠を越えて作戦し、天正九年追撃する秋月勢を引きよせ壊滅させたのも八木山石坂の合戦である。

戦国屈指の兵学者として名高い如水が軍事上からも天然要衝の石坂峠を見逃すことはなかったろう。

まして平時の支配においても福岡、飯塚の線は北の福岡、青柳、畦町、直方の線とともに旧藩時代の領内支配上重要路線であったと思われる。

福岡地方と筑豊を結ぶ街道として庶民の往来に益することもきわめて大であったに違いない。

宝永五年藩主綱政が八木山峠を越えて大分村に向かったのは(郡誌)その一例であって八木山越しの国主の巡狩もしばしばのことであったろう。

その間文人墨客の往来するのもまた少なくなかった。

幕末の歌人大隈言道もその頃の飯塚の歌人たちに昭かれて何回となく峠を越えて福岡から飯塚に往き来している。

彼が詠んだ


ゆくさきは みなみにをれて なつかしく
 末をもはする いひづかのさと


の歌は八木山越えの旅を詠んだものである。

彼が福岡飯塚問を往来したのは嘉永二年のころから安政五年までの十年間におよんでいる。



野村望東尼は言道が飯塚の門人らとことのほか親しみ深く福岡に気配もみえないのでわざわざ八木山の峻険を越えてしばしば飯塚を訪れている。

あるとき言道を尋ねんと飯塚にゆく道すがら時は神無月十六日路傍にいたいたしく咲きそめたなでしこの花をみいだし根こそぎて重治の庭に植えたという。

その歌に

はぐくまん 草も枯れたる 冬野とも
知らで咲きぬる 撫子の花(さくらの歌)


野村望東尼は有名な幕末の女流歌人であり筑前藩の著名な勤王家である。
しかも言道に師事して幕末の歌人としても著名な人である。

望東尼もまた言道と同じように、かって慶長の昔黒田如水の改修した石坂を登りくだりして福岡飯塚の間を幾たびか往来したことであろう。

望東尼が根こそぎ抜いて飯塚の歌人小林重治の庭に植えて言道を慰めようとした路傍のなでしこはもしかすると飯塚の町がはるか遠くみえてきた石坂の道の端に咲いていたのか知れない。

今は全く荒廃して秋芒にみえかくれする旧道石坂峠を登りながら杖を片てになでしこの一株を提げてくだってくる望東尼を幻想の中に描いてみるもよい。

望東尼は歌集向陵集の中に

ささのせの 翁の年毎に 飯塚にゆきて 春を暮してのみ  
帰らるれば 今年もやと言い遺しける。
春ごとに 君をとどむる飯塚の さとの桜はきりもすててん


と詠んでいる、短い文章の中に美しい師弟の情愛がにじみでている。

筑前六宿として繁昌した飯塚と、国中第一の街であり藩公の城下でもあった福岡との行き来は花瀬街道をとおり八木山を越えて往来頻繁であったに違いない。

大宿・二十一宿の道筋ではなかったが福岡・篠栗・飯塚に制札場を設けて交通輸送の制度が定められていたことは、八木山越えの交通が江戸時代どの程度に利用されていたかを知るにじゆうぶんであろう。

篠栗制札場の制札によれば
篠栗より博多まで      篠栗より飯塚まで
本馬妻 一〇四文      本馬妻 一七一文
軽尻同 六七文       軽尻同 一一五文
人足同 五十文       人足同 八四文

(県報告書四)

と規定されている。

花瀬街道を今なお博多往還と呼んでいるように、江戸時代には福岡を中心にしたいくつかの重要路線の街道沿いの村として、そのころの村民の生活にも影響することが決して少なくなかったと思われる。

それは全く無形のものとして表面にこそあらわれなかったにしても村民の心の中に潜在するものとしていつの間にか村民の気性を作り思想を育てあげていったに違いない。