飯塚市と合併した、筑穂町にある大分八幡宮は神功皇后で有名ですが、筥崎宮・宇佐神宮とも大きな関わりがあることを皆さんご存知ですか??
私も建花寺の獅子舞の元祖が大分の獅子舞だと、村内の人から聞き、筑穂町大分に親しさを感じていましたが、此処にもこんな歴史があったことを知り驚いています。
大分八幡宮
大分村の中にあり。
日本國中にて八幡五所別宮の第一なり。
仲哀天皇九年十二月十四日、神功皇后糟屋郡字美邑にて、應神天皇を誕生したまひ、翌年の春都にのぼりたまはんとて、皇子を相具し、字美村より大口嶺乳呑坂を越、御腰掛を過て此地に留り給ふ。
則八幡宮のある所なり。
此所を宮の浦といふ。
かゝる霊跡なればにや、聖武天皇神亀二年、御託宣ありて、御社を立らる。
祭れる所の榊三座、中殿八幡大神、左殿神功皇后、右殿竈門山神なり。
はじめの宮所は、今の御社のうしろの山上一町ばかりにあり。今其所を嶽の宮といふ。
礎なほのこれり。近世今の所に移し奉る。御杜ば南にむかへり。
箱崎八幡大神もとは此肚におはします。
延喜二十一年六月二十一日、八幡大神の託宣によりて、是より箱崎にうつし奉る其事箱崎八幡宮のところに詳にしるす。
されど此所は、むかし神功皇后應神天皇のとゞまりたまひしところなれば、御社はそのままにて、もとの如く三神を祭り奉る。
或書に、この御神體は神功皇后の御腰にはさみたまひし石、怡土郡深江の邑子負原に在しを、のちに此社の神體とせしといへり。
しかれども今かの石此御社にはなし。
此社いにしへは大社にて、宮立尤いかめしく、祭田も多かりしに、中比乱世にて衰廃し、棲門末社もなく、神領も絶てなくなりぬ。
され共猶いにしへの跡のこりて、宮所いと廣く、御社のまはりに、しげれる森の木立も古めかしく、御社には小流ありて潔し。
石の鳥居は、寛永七年に長政公の家臣、小河久太夫が家禮、安部惣兵衛といふ者建立せり。
過にし庚午の冬、村民伊佐甚九郎といふ者、叉別に荷の鳥居を建立す。(額の大分宮の三字は、花山院前内府定誠公の筆なり。是元禄四年篤信が都に在しとき、乞によりて筆をそめたまえり。)
むかしは八月十五日に放生會を取行ひ、神輿を頓宮に移し奉る。
八幡宮より南四町許に、貴船の森あり。是神輿御幸ありし所也。今は此禮絶たり。
叉九月九日に流鏑馬神楽など有て、大なる祭を執行せしとかや。
今も其日には村民うちつどひ、それとばかりに祭禮を執行へり。
比御社の前、大楠多し。
其中にいと大なるは、めぐり五圍あり。むかし此所に大なるつき鐘ありしを、豊後の賊兵來りし時、打わり取て歸り、龍頭ばかり残りて今社邊にあり。
社僧の坊を妙珍山長樂寺と云、天台宗也。むかしは社僧の家を榮えて、大寺なりしにや。
其時の小寺め名、今も畠の字に残れり。八幡宮より七八町東の方、田の中に輪藏の跡あり。大なる礎石多し。大石を切て柱をすへたる杜あり。
凡大分村は町ながく、里廣く、やどころふかくしづかにして、其景色物ふりたり。境内の山のたヾずまひ、林の木だちいとおもしろく、西なる山谷のあひだ中野山と云所、叉塘のほとりに、おほくおひしげれる松のうるはしきよそほひなど、叉なくめでたしと見ゆ。直なる雌松多し。
すべて此あらりの山林の風景いとすぐれたる事、遙に他郷に異なり。
豊前より博多の方に來る者、往々此村を通り、御宮の前をすぎ、花廻へ行、篠栗に出る者多し。是叉大道なり。神前の二王門は、寳永五年村中より立之。
二王門の木像は郡中より立之。
筑前国続風土記 巻之十二より抜粋
● 大分八幡神社の由緒
奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。
『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりであるとし、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。
創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。天正5年(1577年)に秋月種実が現在地に再建した。
明治5年(1872年)郷社に列した。
● 大分八幡神社とは筥崎宮との関わり
延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。
延長元年(923年)に現在地に遷座。
延喜式神名帳には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。
近代社格制度のもと明治4年(1871年)に県社に列格し、明治18年(1885年)に官幣中社に、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した。
元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた。以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。
*「敵国降伏」
● 大分八幡神社と宇佐神宮との関わり
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪(穂波郡大分)大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。
八幡宮の起源は大分八幡宮とされ、そこから宇佐神宮や筥崎宮が分霊されていった。
近代社格制度においては宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮、鹿児島神宮の四社が官幣大社の社格に列し、特に宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮(※または筥崎宮に代えて、鶴岡八幡宮)の三社が日本三大八幡宮とされる。 大分八幡宮、千栗八幡宮、藤崎八旛宮、鹿児島神宮、新田神社の五社は九州五所別宮や宇佐八幡宮五所別、石清水五所別宮、八幡五所別宮などとも呼ばれ、承平天慶の乱の平定を願い宇佐神宮、石清水八幡宮から勧請した。
八幡宇佐宮託宣集より
*宇佐八幡宮神託事件
人には戦がつき物だが、戦乱の戦火の中、民衆は平和を求めていた、『権力』を得るため一部の人間が争っていたが、これまた『民の安心・安全を求めていた』とは皮肉なものです。
私も建花寺の獅子舞の元祖が大分の獅子舞だと、村内の人から聞き、筑穂町大分に親しさを感じていましたが、此処にもこんな歴史があったことを知り驚いています。
大分八幡宮
大分村の中にあり。
日本國中にて八幡五所別宮の第一なり。
仲哀天皇九年十二月十四日、神功皇后糟屋郡字美邑にて、應神天皇を誕生したまひ、翌年の春都にのぼりたまはんとて、皇子を相具し、字美村より大口嶺乳呑坂を越、御腰掛を過て此地に留り給ふ。
則八幡宮のある所なり。
此所を宮の浦といふ。
かゝる霊跡なればにや、聖武天皇神亀二年、御託宣ありて、御社を立らる。
祭れる所の榊三座、中殿八幡大神、左殿神功皇后、右殿竈門山神なり。
はじめの宮所は、今の御社のうしろの山上一町ばかりにあり。今其所を嶽の宮といふ。
礎なほのこれり。近世今の所に移し奉る。御杜ば南にむかへり。
箱崎八幡大神もとは此肚におはします。
延喜二十一年六月二十一日、八幡大神の託宣によりて、是より箱崎にうつし奉る其事箱崎八幡宮のところに詳にしるす。
されど此所は、むかし神功皇后應神天皇のとゞまりたまひしところなれば、御社はそのままにて、もとの如く三神を祭り奉る。
或書に、この御神體は神功皇后の御腰にはさみたまひし石、怡土郡深江の邑子負原に在しを、のちに此社の神體とせしといへり。
しかれども今かの石此御社にはなし。
此社いにしへは大社にて、宮立尤いかめしく、祭田も多かりしに、中比乱世にて衰廃し、棲門末社もなく、神領も絶てなくなりぬ。
され共猶いにしへの跡のこりて、宮所いと廣く、御社のまはりに、しげれる森の木立も古めかしく、御社には小流ありて潔し。
石の鳥居は、寛永七年に長政公の家臣、小河久太夫が家禮、安部惣兵衛といふ者建立せり。
過にし庚午の冬、村民伊佐甚九郎といふ者、叉別に荷の鳥居を建立す。(額の大分宮の三字は、花山院前内府定誠公の筆なり。是元禄四年篤信が都に在しとき、乞によりて筆をそめたまえり。)
むかしは八月十五日に放生會を取行ひ、神輿を頓宮に移し奉る。
八幡宮より南四町許に、貴船の森あり。是神輿御幸ありし所也。今は此禮絶たり。
叉九月九日に流鏑馬神楽など有て、大なる祭を執行せしとかや。
今も其日には村民うちつどひ、それとばかりに祭禮を執行へり。
比御社の前、大楠多し。
其中にいと大なるは、めぐり五圍あり。むかし此所に大なるつき鐘ありしを、豊後の賊兵來りし時、打わり取て歸り、龍頭ばかり残りて今社邊にあり。
社僧の坊を妙珍山長樂寺と云、天台宗也。むかしは社僧の家を榮えて、大寺なりしにや。
其時の小寺め名、今も畠の字に残れり。八幡宮より七八町東の方、田の中に輪藏の跡あり。大なる礎石多し。大石を切て柱をすへたる杜あり。
凡大分村は町ながく、里廣く、やどころふかくしづかにして、其景色物ふりたり。境内の山のたヾずまひ、林の木だちいとおもしろく、西なる山谷のあひだ中野山と云所、叉塘のほとりに、おほくおひしげれる松のうるはしきよそほひなど、叉なくめでたしと見ゆ。直なる雌松多し。
すべて此あらりの山林の風景いとすぐれたる事、遙に他郷に異なり。
豊前より博多の方に來る者、往々此村を通り、御宮の前をすぎ、花廻へ行、篠栗に出る者多し。是叉大道なり。神前の二王門は、寳永五年村中より立之。
二王門の木像は郡中より立之。
筑前国続風土記 巻之十二より抜粋
筑前国続風土記 巻之十二より抜粋
● 大分八幡神社の由緒
奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。
『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりであるとし、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。
創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。天正5年(1577年)に秋月種実が現在地に再建した。
明治5年(1872年)郷社に列した。
ウイキペディア(大分八幡神社)より
● 大分八幡神社とは筥崎宮との関わり
延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。
延長元年(923年)に現在地に遷座。
延喜式神名帳には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。
近代社格制度のもと明治4年(1871年)に県社に列格し、明治18年(1885年)に官幣中社に、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した。
元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた。以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。
*「敵国降伏」
● 大分八幡神社と宇佐神宮との関わり
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪(穂波郡大分)大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。
八幡宮の起源は大分八幡宮とされ、そこから宇佐神宮や筥崎宮が分霊されていった。
近代社格制度においては宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮、鹿児島神宮の四社が官幣大社の社格に列し、特に宇佐神宮、石清水八幡宮、筥崎宮(※または筥崎宮に代えて、鶴岡八幡宮)の三社が日本三大八幡宮とされる。 大分八幡宮、千栗八幡宮、藤崎八旛宮、鹿児島神宮、新田神社の五社は九州五所別宮や宇佐八幡宮五所別、石清水五所別宮、八幡五所別宮などとも呼ばれ、承平天慶の乱の平定を願い宇佐神宮、石清水八幡宮から勧請した。
八幡宇佐宮託宣集より
*宇佐八幡宮神託事件
人には戦がつき物だが、戦乱の戦火の中、民衆は平和を求めていた、『権力』を得るため一部の人間が争っていたが、これまた『民の安心・安全を求めていた』とは皮肉なものです。
ありがとうございます。
大分八幡宮 きっと訪ねてみたいと思います。
※筑豊は誠、歴史の古い所ですよね。 当方、久留米市在ですが、代々なにかと御縁のある地です。
関心を抱いていますので、今後とも参考に、また筑豊 訪ねていきます。