旧・鎮西村の地域と歴史

福岡県飯塚市に昭和38年の市町村合併によって無くなった、旧・鎮西村がありました。
昔話や伝説が沢山あります。

鎮西村宗教史(仏教編)

2013年07月09日 00時31分37秒 | 鎮西村の仏教史
第8話 小堂宇その他


小堂字は村のあちこちにあって、いろいろな意味で里人の生活に結びつき心の中に生きている。

この意味で、里人に特に敬愛信仰されている幾つかについて、その有様を記し、あわせて各所に点在する堂字の概略の表をかかげる。

小堂宇

○ 大日寺如来堂

大日寺下村にあり本尊・大日如来は高さ3尺5寸、縁日は3月27日と7月27日である。この像は土地の人に大日寺さまとよばれて親しまれている。

古老たちは口を揃え幼時この堂で楽しく遊んだ思い出を話す。

組中で作った子供たちの境内の遊び道具も懐しい昔の夢を子に孫に再現させているのであろう。

御本尊は郡誌に「……その後聖光上人明星寺を再興せし時此村より材木を取り又末寺を建て大日寺と号す。

それより大日寺村と改めしとぞ、此巨 天正年中焼失せしが其株根より芽を生じ今四囲ばかり・……」とあって本尊はこのくすの木を切って刻んだものといわれている。

夏の縁日には、各家は馳走をつくってお籠りをし子供相撲を楽しむ。

他の地に嫁いだ者もこの日は子供をつれ帰り相撲に加え健やかな成長を祈る。

今もなおこの行事が盛大に行なわれているのは大日さま敬愛のあらわれであろう。

昭和38年・・当時の様子で、現在は行われているのか??

○ 観世音堂(寺の谷)

大日寺八幡宮の両方200mぐらいにあり、老木数本、雑草に囲まれた小堂の中に古色蒼然たる小像がある。境内には露座の小石仏がならび、昼なお暗いさびしいところである。

大日寺のとかよばれる寺名が伝わっているが、これらは同一のものが異なった名称でよばれたものか、異った寺であったものか、はっきりしない。

郡誌には「大日寺址、大日寺村上村寺の谷にあり、福寿山金剛禅寺と云ふ大寺にて寺領もありしと云ふ・…」とあり、この文から解釈すれば同一のもののようでもある。

同書に「菩提寺は大日寺上村の西北一町にあり、観音堂あり聖光上人得度の地と云ふ」と書かれている。

この所は寺の谷の位置にあたる。

口碑によれば寺の谷は墓地で、薬師様は明治のはじめ薬師前という地からうつしたものといわれる。

また大日寺の跡は寺の谷、または大日如来堂の地ともいわれる。

菩提寺の跡は赤間三郎の屋敷付近とだいたい意見が一致している。

この堂は千人詣りの札所で,お祭りは昔はで行なっていたが今は一部の信者でなされているようである。

昭和38年(当時)梶原実五郎氏・梶原玄信氏 談


○ 観世音堂(建花寺址)



建花寺堂園にある。郡誌によれば「建花寺堂園にあり、明星寺の末院なりと云う観音堂あり,本尊観世音菩薩立像高さ4尺6寸5分、行基の作と云う。脇侍、四天王像長さ2尺5寸あり、古の本尊なり。

毎年6月17日村民等万燈を照して供養す。」とある。

この仏は,安産の守り神として信仰があつく,今もなお地区の婦人は毎月輸番で座を定めお供えをして安産を祈っている。

昔は縁日には・にわか、浪曲、桂木座、ノゾキなどの演芸や興業が催され遠近より多数お参りして非常ににぎわっていた。

新暦4月17日、8月17日の2回お籠りをし、8月9日は御通夜の習わしがあったが、これらの行事は時代の推移とともに衰え古老たちを歎かせている。

(8月17日は16日に変更され行われている、8月9日は御通夜で今も普段着で盆踊りが行われている。)

西国33カ所札所(観世音)
鎮西四国札所(弘法大師)


○ 石仏(いしぼとけ)



建花寺公民館前の,一本榎の根もとに石が1個置いて有る。この石を「いぼころり」というが,土地の人の話によれば、この石にいぼをすりつげると取れるという。

青柳貞信神官の神杜由緒記録調査には観世音堂と記きされている。

古老の話では豊後大交宗麟との戦いに、笠置の落人かこの地に来て死んだのを葬った跡と言われ道賂改修のため道すれすれとなって残っている。

8月16日(現在は8月9日)には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。

故・小畑国勝氏談


○ 虚空蔵堂(明星寺址)



明星寺北屋敷にある。明星寺跡、虚空蔵堂は昔は方9問で瓦ぶきの堂であったという。今は横4間,縦3問の堂である。田字に虚空蔵田と言って祭田の名が残っている。

地蔵堂は昔は方4間今は方1間半。薬師堂は今は横2問縦3間の堂、また薬師田といって祭田の名が残っている。

本尊は虚空蔵菩薩て祭日は4月13日、7月13日である。しかし夏はほといなかった。

毎月13日の(農繁期を除く)御日には参拝にくる人たちの湯茶の接待を明星寺のんどお祭りをして婦人会が受け持っている。

土地の人はこの仏をお産の仏としてあがめ、明星ガ池の水を産前にいただくと安産すると語り伝えている。

○ 観音堂

一名雀堂ともいう、潤野上区にあって由緒は明らかでない。本尊は世尊妙意観音(豆観音)
という。本尊の御座裏に次の通り記されている。

修繕代寄進 昭和六年(1931)旧十二月廿九日吉日 児島隆三様方 西本清太
縁日は旧暦7月17日でこの日は合祠前は青年が上区農家よりマサメを一戸3合あて集めてたき参拝人の接待をし、千燈明をともして、相撲会を催した。高田、二瀬、穂波の近郊からも力士、参拝人が集り非常ににぎやかであった。今は千燈明は電燈に代わり子供相撲を行なっている。

昭和38年当時 川崎屯氏、川崎茂文氏談


○ 供養堂

大和彦市屋敷内に方1間ぐらいの小宇がある、中央の仏体は面部の外は腐杤がな/はだしく旧体を留めていない。

口碑によれば、この仏像は裏の高地にあった寺の仏といわれる。その跡寺も数度の兵乱に荒れはてて、祭る僧もなく、大和氏の祖先が現位置に安置し供養を続けた。

曾祖父の代、破損がはなはだしいので飯塚宮の下の、竹林仏師に仏体を刻ませ取りかえたところ、毎夜夢をみるので不思議に思って旧仏体とあわせ祭ったら、安らかに眠れるようになったとのことである。

左の像が竹林仏師の刻んだもので右は前記寺院の石燈籠の最上都と思われる。昔は縁日には子供だちがおおぜい集りお籠りをした。

この子供たちに大和氏の祖先が赤飯をたいて馳走した。仏の供養が楽しい、懐しい思い出となったことであろう。

今も年一回の祭事は続けているとのことである。

昭和38年当時 大和彦市氏,林光寅市氏談


○ 六地蔵

今からおよそ200年前建花寺より吉川(宮田町)に越す峠に山賊がでて旅人をなやました。
このことを建花寺民が黒田藩に届けでたので、早速武術達者な武士を差し向け捕えて首をはねた。

ところがこの山賊どもの往生が悪く幽霊となり迷いでるので地蔵菩薩を6件刻んで供養したといわれる。

これがどうまちがえられたか子供の病気、特に百日陵の地藏として効果があると伝えられ、全決祈願あため詣でる人が多くなった。

祈願成就の暁には「はったい粉」や「よだれかけ」を供えている。

昭和38年 当時 村瀬幾雄氏談


○ 地蔵堂

蓮台寺字中津谷、光妙寺納骨堂上の四本檜の下に木造瓦ぶき、方1間、高さ、1間ぐらいの堂がある。

中に高さ6寸ぐらいの古びた小さな仏像が祭ってある。

口碑によれば歯痛みの仏で歯の痛むときは柳の枝で年令の数だけ箸を作り、これを仏前に供えて治癒を祈ればすぐなおるといわれ,昔は近隣からの詣でる者が多かった。

縁日には区民が千燈明をともし祭事を行なっている。医術の幼稚で普及しない時代には、病気は人力のほかで病いに関係のある神仏が方々に祭られている。

○ 大日如来堂


 
建花寺山神にあって、このところを蓮上寺という。

福岡県地理全誌に,「禅定寺趾。建花寺村の西北五町にあり,明星寺末にして本寺と同時に廃すと云大日堂あり。」と書かれている。

地名蓮上寺とあるのは、後世禅定寺が蓮上寺とよばれて残ったものであろう。

本尊は大日如来で鎮西札所42番である。

二月最初の丑日の縁日にはアオキの小さなオーコ(にない棒)を作り、牛馬をつれて参りこれを仏前に供えて息災を祈った。

また家々では一升ますから盛りでる大餅を供えて馳走をし、五穀豊穣を析願した。

4月には人間、牛馬ともに無事田植えが終るようにと、各戸から切り銭を集めてお籠りをしている。

昭和38年 当時 関幾次郎氏談



その他の堂宇一覧

堂字名  安置地  本尊     備考
大師堂  蓮台寺川原林  弘法大師 現存・祭日・旧7月20日・相撲を催す
観音堂  花瀬シドキ田  観世音菩薩 現存・木造瓦葺・祭事・新8月10日
地藏堂  八木山女郎原  地藏尊 現存・石祠
観世音堂 八木山字中村  観世音著薩 現存・方1.5間・藁葺・木造仏体の背に
                    土午元禄十五年の字がある 立中寺址
薬師堂  八木山鳥ケ坂  薬師如来
観世音堂 八木山久保尾  観世音菩薩 現存
観音堂  蓮台寺池尻   々     現存 現存蓮台寺址といわれている

〔註〕現在堂宇はないが明星寺の明願寺址は墓石らしいものがあり、八木山の久道寺址は人家,正風寺址は畑地になっている。

鎮西村宗教史(仏教編)

2013年07月05日 19時22分15秒 | 鎮西村の仏教史
第7話 光妙・安養の二寺はある・・


○ 光妙寺(蓮台寺)

蓮台寺字本村にあって天照山という。

本尊阿弥陀如来、本堂横四間、入四間、昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。

寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。

時に慶安2年(1649)「7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一宇を建立したということである。

たまたま昭和三七年,境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、340年前の面影をしのび恭しく納骨堂の階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。
 
十一世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。

○ 安養院(建花寺)

建花寺字荒巻にあり、報土山と号し、本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。

この寺は、昔、現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって、仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。

安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀2年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。

その後・建久3年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師により、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。

後天正9年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ、元禄二年(一六八九)現在の地に一小宇を再興したということである。

現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。

鎮西村誌より抜粋

鎮西村宗教史(仏教編)

2013年07月05日 19時22分15秒 | 鎮西村の仏教史
第7話 光妙・安養の二寺はある・・


○ 光妙寺(蓮台寺)

蓮台寺字本村にあって天照山という。

本尊阿弥陀如来、本堂横四間、入四間、昔は法泉山と号したといわれ、真宗本派西本願寺末寺である。

寺伝によると、開基慶円は肥後の国の剣工、同田貫の子孫で道狸と号したが、後に仏法に帰依し厚信の余り得度して慶円と改めた。当地に来て法泉山蓮台寺の再興を志したが、浄土教に刺激されて京都にのぼった。

時に慶安2年(1649)「7月11日、本願寺良如上人にえっして浄土真宗の宗義を修得し光妙寺の寺号をたまわり、本尊と蓮如上人の御影を下付され、かえって現在の地天照山麓に一宇を建立したということである。

たまたま昭和三七年,境内に納骨堂建設の議が起こり墓地改葬のさい、慶円法師の火葬に付した骨壷が発見され、開基当時、340年前の面影をしのび恭しく納骨堂の階上に墓石とともに安置しねんごろに祭られた。
 
十一世住職円了の代昭和37年(1962)中秋のことである。

○ 安養院(建花寺)

建花寺字荒巻にあり、報土山と号し、本尊阿弥陀如来、本堂横五間、入五間、浄土宗鎮西派本誓寺末寺である。

この寺は、昔、現在大日如来を祭ってある禅定寺の地にあって、仏教が隆昌であつたころの名残りといわれる。

安養院の沿革によると、人皇第四九代、光仁天皇の御宇宝亀2年(771)行基菩薩、この地に錫を留められ、一宇を建立し、自ら三尺三寸の阿彌陀仏の立像彫刻して、安置したのが現本尊である。

その後・建久3年(1192)浄土宗第二相・鎮西国師により、法相宗を浄土宗に改め安養院と改称された。

後天正9年(1581)九月中句・豊後大友義連(大友宗麟)の兵火に焼き尽くされ、元禄二年(一六八九)現在の地に一小宇を再興したということである。

現本堂は前住職二十一世長崎宝誉の建立したるものである。

鎮西村誌より抜粋

鎮西村宗教史(仏教編)

2013年07月05日 18時50分52秒 | 鎮西村の仏教史
第6話 鎮西上人略歴




聖光坊弁長(鎮西国師(上人)・聖光上人)1162(応報2)~1238(暦仁1)

1、応保2年(1162) 筑前の国、香月の吉祥寺に生れる。

2、仁安3年(l168) 7才の時,嘉穂郡鎮西村の大日寺の妙法禅師の室に入り学問を受ける。

3、嘉応2年(1170) 剃度の式をあげ,聖光房弁長と名のる。

4、承安5年(1175) 香月庄の白岩寺に帰る。

5、治承2年(1178) 再び鎮西村明星寺で常寂法師に師事する。

6、寿永2卸(1183) 叡山に登り観叡法僑の門に入る。

7、建久元年(l190) 鎮西村明星寺に帰る。

8、建久2年(1191) 油山の学頭となる。
明星寺五重塔再建の議おこる,再建の勧進を行なう。

9、建久8年(l197) 五重塔が新装麗しく明星寺の境内に聳える。
五重塔本尊を迎えるため上洛する。
法然上人に会い師と仰ぐに至る。
五重塔本尊を迎え大法会を行なう。

10、建久9年(l198) 四国路の教化を行なう。

11、正治元年(l199) 再度上洛して法然上人に師事する。
土御門天皇より鎮西禅師聖光上人大和筒と禅師号を賜わる。

12 元久元年(1204) 九州に帰り浄土の布教をする。
以来35年間、善導寺を中心に東奔西走、席温まる暇もなく伝導教化) に専念しその範囲は筑後・筑豊・肥後におよび,48寺の寺院建設をする。

13、嘉禎4年(1238)  正月病気となり,同2月29日77才にて入減(善導寺にて)

14、文政10年(1278) 仁孝天皇より大紹正宗国師と国師号を追贈される。

(青柳英珊著 鎮西上人)


鎮西村宗教史(仏教編)

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第6話 鎮西上人略歴




聖光坊弁長(鎮西国師(上人)・聖光上人)1162(応報2)~1238(暦仁1)

1、応保2年(1162) 筑前の国、香月の吉祥寺に生れる。

2、仁安3年(l168) 7才の時,嘉穂郡鎮西村の大日寺の妙法禅師の室に入り学問を受ける。

3、嘉応2年(1170) 剃度の式をあげ,聖光房弁長と名のる。

4、承安5年(1175) 香月庄の白岩寺に帰る。

5、治承2年(1178) 再び鎮西村明星寺で常寂法師に師事する。

6、寿永2卸(1183) 叡山に登り観叡法僑の門に入る。

7、建久元年(l190) 鎮西村明星寺に帰る。

8、建久2年(1191) 油山の学頭となる。
明星寺五重塔再建の議おこる,再建の勧進を行なう。

9、建久8年(l197) 五重塔が新装麗しく明星寺の境内に聳える。
五重塔本尊を迎えるため上洛する。
法然上人に会い師と仰ぐに至る。
五重塔本尊を迎え大法会を行なう。

10、建久9年(l198) 四国路の教化を行なう。

11、正治元年(l199) 再度上洛して法然上人に師事する。
土御門天皇より鎮西禅師聖光上人大和筒と禅師号を賜わる。

12 元久元年(1204) 九州に帰り浄土の布教をする。
以来35年間、善導寺を中心に東奔西走、席温まる暇もなく伝導教化) に専念しその範囲は筑後・筑豊・肥後におよび,48寺の寺院建設をする。

13、嘉禎4年(1238)  正月病気となり,同2月29日77才にて入減(善導寺にて)

14、文政10年(1278) 仁孝天皇より大紹正宗国師と国師号を追贈される。

(青柳英珊著 鎮西上人)


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第6話 鎮西上人略歴




聖光坊弁長(鎮西国師(上人)・聖光上人)1162(応報2)~1238(暦仁1)

1、応保2年(1162) 筑前の国、香月の吉祥寺に生れる。

2、仁安3年(l168) 7才の時,嘉穂郡鎮西村の大日寺の妙法禅師の室に入り学問を受ける。

3、嘉応2年(1170) 剃度の式をあげ,聖光房弁長と名のる。

4、承安5年(1175) 香月庄の白岩寺に帰る。

5、治承2年(1178) 再び鎮西村明星寺で常寂法師に師事する。

6、寿永2卸(1183) 叡山に登り観叡法僑の門に入る。

7、建久元年(l190) 鎮西村明星寺に帰る。

8、建久2年(1191) 油山の学頭となる。
明星寺五重塔再建の議おこる,再建の勧進を行なう。

9、建久8年(l197) 五重塔が新装麗しく明星寺の境内に聳える。
五重塔本尊を迎えるため上洛する。
法然上人に会い師と仰ぐに至る。
五重塔本尊を迎え大法会を行なう。

10、建久9年(l198) 四国路の教化を行なう。

11、正治元年(l199) 再度上洛して法然上人に師事する。
土御門天皇より鎮西禅師聖光上人大和筒と禅師号を賜わる。

12 元久元年(1204) 九州に帰り浄土の布教をする。
以来35年間、善導寺を中心に東奔西走、席温まる暇もなく伝導教化) に専念しその範囲は筑後・筑豊・肥後におよび,48寺の寺院建設をする。

13、嘉禎4年(1238)  正月病気となり,同2月29日77才にて入減(善導寺にて)

14、文政10年(1278) 仁孝天皇より大紹正宗国師と国師号を追贈される。

(青柳英珊著 鎮西上人)


鎮西村宗教史(仏教編)

2013年07月02日 10時20分25秒 | 鎮西村の仏教史
第5話 明星寺の廃絶


仏教布教のうえに大きな貢献をなしとげながら寺院経営の困難に堪えてきた明星寺がはたしていつころまで存続したかは、これまた明確には伝えていないようである。

この点についても信頼するにたる記録はないが、現存する資料として法橋琳弁の墓碑はきわめて貴重な価値をもつものである。

 


すなわち、81才で没した琳弁はこれまたいかなる人物であるか明白にすることはできないが、彼が法橋琳弁と呼ばれ、今日その墓碑を残していることからして少なくとも一山衆徒の中でも凡庸の者とは考えられない。

あるいは彼の年代における明星寺一山の学頭とも称すべき地位を占めていた者であつたかも知れない。前にも述べたように常寂が初期を代表する人物であれば、琳弁は鎌倉後期の明星寺を代表する重要な存在であったともいえよう。

しかも碑文によれば彼の没年は鎌倉も末期に近い元享2年(1322)2月2日と刻んであることから、元享2年頃(鎌倉末期)までは明星寺が存在していたものとみて間違いはない。

元享2年まで存在したとして平安末期から鎌倉末期までのおよそ150年間の歳月を重ねてきたことになる。

ここまでは確かに存続したことを認め得るがその後はたして何時ころまで続いたか、そしてどのような事情のもとに廃絶したか、その点全く不明というほかはない。

江戸時代に至っては今日の現状と全く同じ程度に荒廃して、わずかに面影をしのぶに過ぎないありさまであったことは筑前国続風土記のとおりである。

そのよな状態になったのはいつのころからであろうか。

これからは全く推論に過ぎないが、現在虚空蔵堂の前庭にたてられている赤間富次郎の碑文にもあるように、この地方一帯を荒廃と化した天正年間の兵災に堂塔伽藍を一朝にして焼失して、再び復興することがなかったとみることも意外に真実を語っているのかも知れない。


もし天正年間をもって明星寺廃絶の時期と想定するならば、平安末期以来およそ400年におよぶ明星寺の存続が推定されることになる。明星寺終末の時期をいつごろとするかについては、これ以上確かな資料となるものがみあたらないようである。

(鎮西村誌より抜粋)


鎮西村宗教史(仏教編)

2013年07月02日 09時58分13秒 | 鎮西村の仏教史
第4話 聖光上人との関係


このようにしてすでに平安時代に開基された明星寺には彼以前にも秀れた学僧が相次いで在住したようである。

程遠くない太宰府には当時日本三戒壇の一といわれた観世音寺戒壇院があり、九州一円の修業僧の学修所であったことからみれば明星寺にも幾人かの優れた学僧も移り住んだことであろう。

彼が師事したと伝えられる常寂法師については詳らかでないが,後年彼が明星寺再興に尽した動機も恩師常寂と無関係とは考えられない。

嘗て青年時代を過ごした法縁の寺であったことはいうまでもないが、恩師常寂に対する感恩報謝の念が彼の決心を固めた動機となったとも一応考えられることであろう。

かれこれ思いめぐらすとき、上人を教えた常寂も、また非凡の学僧であったに違いない。

常寂こそは明星寺初期のころを代表する学僧であり、後期に在住してこの地に没した法橋琳弁とともに明星寺学問僧の代表である。

このような空気の中で育てられた青年僧たちの中からは幾多の数知れぬ俊秀が巣立っていったことであろう。

筑後善導寺を開き法然の高弟として、後年浄土宗弗二祖として鎮西国師の称号を授けられた聖光房弁長を育てた寺院であることも重要であろうが、それと同時に名こそ明らかに伝えられてはいないけれども鎮西仏教の興隆に尽した数多くの人材を輩出したことも忘れてはならない点である。

そのへんに明星寺の天台道場としての面目が躍如として現われているようである。

それにしても、別記する鎮西上人略歴によれば彼が明星寺再興を思い立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。



鎌倉初期の建久のころには早くも衰運に傾いていたことは地方寺院の宿命とはいえ,明星寺の寺運にもまたひとかたならぬ苦難があったことは推察できるようである。

立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。

鎌倉初期の建久のころには早くも衰運に傾いていたことは地方寺院の宿命とはいえ、明星寺の寺運にもまたひとかたならぬ苦難があったことは推察できるようである。

(鎮西村誌より抜粋)



鎮西村宗教史(仏教編)

2013年07月01日 19時38分01秒 | 鎮西村の仏教史
第3話 創建の年代


明星寺開基の年代について伝えるものもあるがいずれもそのまま信ずるには多少擬問の余地があるように思われる。

すでに益軒も「開基の年代明ならず」といっているように寺院創建の年代を確証するものとしては残念ながら記録では見当らないようである。

しかしながら創建の年代推定には全くそのすべがないわけでもない。

むしろ次に揚げる諸点はきわめて有力な手がかりとなるように思われる。

 寺院の立地条件と伽藍配置

 聖光上人,明星寺常寂の門に学んだのは治承2年のことである

 上人と叡山との関係

寺院の立地条件とは土地選定のことである。

明星寺北谷を登りつめた所でさらに百階段を数える石段を登る地形は明らかに山岳仏教の定石であろう。

 


かって奈良仏教の寺院が平地を選んだのに対して平安仏教の諸寺が好んで深山幽谷を選んだことは周知のことで、延暦寺比叡山金剛峯寺高野山はその好例であろう。

さらにその伽藍配置の点よりしても平安時代になって流行した山岳仏教といわれるものの特質をじゆうぶん示していると思われる。

すなわち龍王山東麓の峯や谷に堂塔を配した方式はまさしく平安仏教の典型である。

次に聖光上人入山の年が年譜に伝えるところによれば治承2年となっているが、治承はいうまでもなく平安後期の年号である。

しかもそのころには常寂の住んだ明星寺が存在したことは明らかである。

これらをあわせ考えるとき筑前国続風土記に「天台宗なり」(明星寺 参照)といっているのも真実を伝えているようである。

以上の諸点を総合するとき、もちろん文献によった充分ものとはいえないが、明星寺創建の年代を平安時代に推定することには大きな誤りはないように思われる。

また同時に奈良寺院としての建立説ももちろん考えられないことである。

開基の人が誰であるか知るべくもないが、いずれにしても天台、真言の二宗が盛んであった平安期に平安仏教の格好の場所として北谷の奥深い幽谷が選ばれたものであろう。

しかも聖光上人が叡山との間を往来したことからして恐らくは益軒のいうように天台系の寺院とみて誤りないものと思われる。

(鎮西村誌より抜粋)


 


明星寺

明星寺村にあり。

“平壽山妙覚院と号す。

天台宗也。

開基の時代分明ならず。

比叡山の末寺にして、虚空藏を本尊とす。

此寺中此頽破して、修理する人なかりしに、聖光上人(弁長と号す。仁元年に寂す。筑前の人なり。行年六十四暦)是をなげき再興をこころざし、大日寺山に入りて樹を切とり、路に三層の塔を立ける。

されば昔は大寺にて、堂舎敷多く、いといかめしき伽藍なりしとかや。

いまはただ虚空藏堂(昔は方九間の瓦堂也。今は横二間、縦三間の堂あり。当村の田の字に虚空蔵田など云て、昔の祭田の名残れり。)地蔵堂(昔は方四間の堂なり。今は方一間半の堂あり。)薬師堂(今横二間縦三間の堂あり。薬師田とて祭田の名残れり。)のみ残
れり。此外阿弥陀堂(方四間の堂に阿弥陀安置せりと云。あみだ田とて、今も田の字に祭田の名残れり。)観音堂(方四間の堂なりしと言い伝えたり。今に田の字に観音田とて祭田の名残れり。)
鐘楼(方二間の楼なりしと云い伝ふ。田の字に鐘楼田の名残れり。)など皆圃と成りて、ただ其の名のみ残りぬ。

湯屋池と云小池の形ある所あり。今竹林しげりて、池の形もさだかならず。

中に小島ありて石仏を安置しぬ。

此の池に明星の光怪しく映ぜし故に、寺号とせしとと云い伝わり。

 


又、昔は此の寺に十二坊ありしが、今は圃と成り、或民宅と成りて其の名のみ残れり。
(十二坊は本坊、是則座主坊なり。妙覚坊、籠蔵坊、俊光坊、定壽坊、楠田坊、花坊、横谷坊、峰坊、谷坊、土坊、春海坊是也。)此十二坊各当村の田地を以って、其産とせしと云。今此所を見るに、所々に古跡のこりて、むかしの繁栄を思ひやられ待る。

虚空藏堂の前には櫻の木数株あり。

凡此寺は山上なれぱ、堂前の跳望目をよろこぱしむ。

堂を下るに石階百八段あり。

鐘のこゑを表せりといふ。

此寺ありし故、今も村の名を明星寺と云。

此村の境内日敷が原と云所に松樹あり。

是は聖光上人、豊前彦山に参詣せし度ごとに植し松なる故に、日数原といヘり。

貝原 益軒著((以上は筑前国続風土記 巻之十二より抜粋)原文のまま記録する。


後一つ『明星寺虚空蔵菩薩霊場記念碑』が建立されている・・その中に、次のように記載されているそうです。



明星寺虚空蔵菩薩霊場記念碑〔原文〕

建設年月日 大正2年4月3日

熟ヲ明星寺虚空蔵菩薩霊場ノ縁起ヲ案スル二、
今ヨリー千百四拾七年(1,147)前称徳帝ノ御字釈叡尊ノ開基セシ旧址ニシテ、
後冷泉帝ノ康平年間大伽藍回禄ノ災二遇ヒシヲ、
後鳥羽帝ノ建久年中浄土宗鎮西派ノ始祖聖光上人再興ヲ志シ三層ノ塔ヲ建立セラル、
然レトモ天正年中兵燹二罹リ慶長年間マタ祝融二襲ハレ、サシモノ巨刹モ全ク頽廃二帰シ、
殊二明治年間二及ヒテハ其ノ域内極メテ狭隘トナリ懐古ノ念二堪ヘサラシム。
明星寺北谷区民深ク之ヲ歎キ境内フ拡張セソ為メ明治川卅二年附近ノ官林下渡ヲ福岡県庁二請願セシモ、曠日彌久事進捗セス、
穂波村杜掌秀村健氏大一区民ノ衷情ヲ察シ、或ハ熊本二赴キ或ハ県庁二出テ大二当路者二訴ヘ多年斡旋スル所アリ。
明治四十二年二至リ遂二明星寺北屋敷国有林四反八畝弐拾参歩ヲ割キテ虚空蔵菩薩堂ノ域内二編入スルヲ許可セラル。
之レ実二北谷区民ノ熱誠ト、秀村氏ノ努力ト二因ルモノ二シテ誠二名蹟ヲ保存スルノ途ヲ得タリトユフベシ。
聊カ其ノ事蹟ヲ勒シテ伝フルコト爾リ。

赤間富次郎撰
後藤彦四郎書
大正二年四月三日建之北谷区中


(解説)明星寺虚空蔵菩薩霊場記念碑

建設年月日 大正2年(1913年)4月3日 建立

明星寺虚空蔵菩薩霊場の縁起(霊場のいわれを)を案ずるに至るようになった。
記念碑建立の日より1147年(現在より1246年)前、称徳天皇(第48代・在位764~770年)の御世、釈叡尊の開基(天平神護2年(766年)する旧址であった。

後鳥羽天皇(第82代・在位1183~1198年)の御世、浄土宗鎮西派の始祖 聖光上人(地元では鎮西上人と呼ぶ)が明星寺再興を思い立ったのは、頼朝が将軍宣下を受けた前年の建久2年(1191)のことである。
建久4年(1193年)衆徒の請により明星寺に住み、廃塔の復興にあたり、建久8年(l197) 三層の塔が新装麗しく明星寺の境内に建立されたのである。

しかし、再興された大伽藍も、天正(1573~1592年)年中に戦による火災に罹り、慶長年間(1596~1615年)に再度火災に遭い、さすがの大伽藍(大寺)全てが焼失し荒れ果てるに至った。

とりわけ、明治年間(1868~1912年)に及んでは、明星寺霊場は極めて狭くゆとりがなく古の大寺だったころの思いに堪えがたく。

明星寺北谷区民たちは深く之を嘆き境内の拡張をするため、
明治三十二年(1899年)に境内の隣地の受け渡しを福岡県庁に請願するも、空しく日々が過ぎるのみで進捗することなく。

穂波村の社掌(神官)秀村 建氏は大一区民の嘘偽りの無い思いを察し、或る時は熊本に赴き、或る時は福岡県庁に赴いて担当の当路者(上司)に実情を訴え、仲介を行っていた。

明治四十二年(1909年)に至って遂に明星寺北屋敷国有林四反八畝弐拾参歩を分割していただき虚空蔵菩薩堂の境内に編入することが許可された。

この事実は北谷区民のあつい真心のこもった願いと、秀村氏の斡旋による努力の賜物である、この事に依り明星寺虚空蔵菩薩堂を保存する道を得たとゆうべきである。

とりあえず、その事の痕跡を残して伝えることと成る。

赤間 富次郎 撰
後藤 彦四郎 書
大正二年(1913年)4月3日 建立 北谷区中



鎮西村宗教史(仏教編)

2013年06月22日 00時51分37秒 | 鎮西村の仏教史
第2話 聖光上人と明星寺


聖光上人と明星寺の関係については上人の伝記に記されているとおりである。

彼が明星寺の学僧常寂を訪ねて明星寺に住したのは治承2年(1178)のことであり、彼と明星寺との関係の発端となったようである。

その後衰退しゆく明星寺の再興に力を尽したことは、彼と明星寺との関係をさらに深めてついには聖光上人の明星寺の感を強くするに至った。

確かに明星寺それ自体の資料となるものはきわめて乏しく、早く廃寺となった明星寺に関して幾っかの文献にその寺旧蹟としてであつたようである。


いずれにしても虚空蔵堂を語るすべもなく、わずかに所在を示すに過ぎない廃寺が全国でも数多いことを思えば、なんとしても明星寺にとっては切りはなすことのできない条件とも考えられるようである。

ただ注意すべき点は明星寺のすべてが聖光上人との関係を説明し尽しているのではなく、いいかえると明星寺の縁起の中に上人との関係がある時期において深かったということである。

「此寺中比頽して修理する人なかりしに、聖光上人是をなげき再興を志し……(筑前国続風土記)」と益軒も述べているように、聖光上人以前にすでに彼が学業を志して入山した明星寺があり、そのころすでに衰運におもむいていたことは諸書にも明白である。

そのことは彼以前に明星寺開基の年代がさかのぼることを教えているものである。

さらにまた彼以後に廃絶するまで幾ばくかの歳月を重ね存続したことも容易に推察されるのである。

以下、聖光上人との年代を中心として、その前後の年代を推論して明星寺の縁記を組立ててみよう。

(鎮西村誌より抜粋)



明星寺


明星寺村にあり。平壽山妙覚院と号す。天台宗也。

開基の時代分明ならず。

比叡山の末寺にして、虚空藏を本尊とす。

此寺中此頽破して、修理する人なかりしに、聖光上人(弁長と号す。仁元年に寂す。筑前の人なり。行年六十四暦)是をなげき再興をこころざし、大日寺山に入りて樹を切とり、路に三層の塔を立ける。

されば昔は大寺にて、堂舎敷多く、いといかめしき伽藍なりしとかや。

いまはただ虚空藏堂(昔は方九間の瓦堂也。今は横二間、縦三間の堂あり。

当村の田の字に虚空蔵田など云て、昔の祭田の名残れり。

地蔵堂(昔は方四間の堂なり。今は方一間半の堂あり。)

薬師堂(今横二間縦三間の堂あり。薬師田とて祭田の名残れり。)のみ残れり。

此外阿弥陀堂(方四間の堂に阿弥陀安置せりと云。あみだ田とて、今も田の字に祭田の名残れり。)

観音堂(方四間の堂なりしと言い伝えたり。今に田の字に観音田とて祭田の名残れり。)

鐘楼(方二間の楼なりしと云い伝ふ。田の字に鐘楼田の名残れり。)など皆圃と成りて、ただ其の名のみ残りぬ。



湯屋池と云小池の形ある所あり。今竹林しげりて、池の形もさだかならず。
中に小島ありて石仏を安置しぬ。
此の池に明星の光怪しく映ぜし故に、寺号とせしとと云い伝わり。

又、昔は此の寺に十二坊ありしが、今は圃と成り、或民宅と成りて其の名のみ残れり。
(十二坊は本坊、是則座主坊なり。妙覚坊、籠蔵坊、俊光坊、定壽坊、楠田坊、花坊、横谷坊、峰坊、谷坊、土坊、春海坊是也。)此十二坊各当村の田地を以って、其産とせしと云。今此所を見るに、所々に古跡のこりて、むかしの繁栄を思ひやられ待る。

虚空藏堂の前には櫻の木数株あり。凡此寺は山上なれぱ、堂前の跳望目をよろこぱしむ。

堂を下るに石階百八段あり。鐘のこゑを表せりといふ。

此寺ありし故、今も村の名を明星寺と云。

此村の境内日敷が原と云所に松樹あり。
是は聖光上人、豊前彦山に参詣せし度ごとに植し松なる故に、日数原といヘり。

(以上は筑前国続風土記 巻之十二より抜粋)原文のまま記録する。