第8話 小堂宇その他
小堂字は村のあちこちにあって、いろいろな意味で里人の生活に結びつき心の中に生きている。
この意味で、里人に特に敬愛信仰されている幾つかについて、その有様を記し、あわせて各所に点在する堂字の概略の表をかかげる。
小堂宇
○ 大日寺如来堂
大日寺下村にあり本尊・大日如来は高さ3尺5寸、縁日は3月27日と7月27日である。この像は土地の人に大日寺さまとよばれて親しまれている。
古老たちは口を揃え幼時この堂で楽しく遊んだ思い出を話す。
組中で作った子供たちの境内の遊び道具も懐しい昔の夢を子に孫に再現させているのであろう。
御本尊は郡誌に「……その後聖光上人明星寺を再興せし時此村より材木を取り又末寺を建て大日寺と号す。
それより大日寺村と改めしとぞ、此巨 天正年中焼失せしが其株根より芽を生じ今四囲ばかり・……」とあって本尊はこのくすの木を切って刻んだものといわれている。
夏の縁日には、各家は馳走をつくってお籠りをし子供相撲を楽しむ。
他の地に嫁いだ者もこの日は子供をつれ帰り相撲に加え健やかな成長を祈る。
今もなおこの行事が盛大に行なわれているのは大日さま敬愛のあらわれであろう。
昭和38年・・当時の様子で、現在は行われているのか??
○ 観世音堂(寺の谷)
大日寺八幡宮の両方200mぐらいにあり、老木数本、雑草に囲まれた小堂の中に古色蒼然たる小像がある。境内には露座の小石仏がならび、昼なお暗いさびしいところである。
大日寺のとかよばれる寺名が伝わっているが、これらは同一のものが異なった名称でよばれたものか、異った寺であったものか、はっきりしない。
郡誌には「大日寺址、大日寺村上村寺の谷にあり、福寿山金剛禅寺と云ふ大寺にて寺領もありしと云ふ・…」とあり、この文から解釈すれば同一のもののようでもある。
同書に「菩提寺は大日寺上村の西北一町にあり、観音堂あり聖光上人得度の地と云ふ」と書かれている。
この所は寺の谷の位置にあたる。
口碑によれば寺の谷は墓地で、薬師様は明治のはじめ薬師前という地からうつしたものといわれる。
また大日寺の跡は寺の谷、または大日如来堂の地ともいわれる。
菩提寺の跡は赤間三郎の屋敷付近とだいたい意見が一致している。
この堂は千人詣りの札所で,お祭りは昔はで行なっていたが今は一部の信者でなされているようである。
昭和38年(当時)梶原実五郎氏・梶原玄信氏 談
○ 観世音堂(建花寺址)
建花寺堂園にある。郡誌によれば「建花寺堂園にあり、明星寺の末院なりと云う観音堂あり,本尊観世音菩薩立像高さ4尺6寸5分、行基の作と云う。脇侍、四天王像長さ2尺5寸あり、古の本尊なり。
毎年6月17日村民等万燈を照して供養す。」とある。
この仏は,安産の守り神として信仰があつく,今もなお地区の婦人は毎月輸番で座を定めお供えをして安産を祈っている。
昔は縁日には・にわか、浪曲、桂木座、ノゾキなどの演芸や興業が催され遠近より多数お参りして非常ににぎわっていた。
新暦4月17日、8月17日の2回お籠りをし、8月9日は御通夜の習わしがあったが、これらの行事は時代の推移とともに衰え古老たちを歎かせている。
(8月17日は16日に変更され行われている、8月9日は御通夜で今も普段着で盆踊りが行われている。)
西国33カ所札所(観世音)
鎮西四国札所(弘法大師)
鎮西四国札所(弘法大師)
○ 石仏(いしぼとけ)
建花寺公民館前の,一本榎の根もとに石が1個置いて有る。この石を「いぼころり」というが,土地の人の話によれば、この石にいぼをすりつげると取れるという。
青柳貞信神官の神杜由緒記録調査には観世音堂と記きされている。
古老の話では豊後大交宗麟との戦いに、笠置の落人かこの地に来て死んだのを葬った跡と言われ道賂改修のため道すれすれとなって残っている。
8月16日(現在は8月9日)には盆踊りを行ない今も供養を続けていて,「古野が3戸に減少するまでは踊りを続けよ。」と口碑が残っている。
故・小畑国勝氏談
○ 虚空蔵堂(明星寺址)
明星寺北屋敷にある。明星寺跡、虚空蔵堂は昔は方9問で瓦ぶきの堂であったという。今は横4間,縦3問の堂である。田字に虚空蔵田と言って祭田の名が残っている。
地蔵堂は昔は方4間今は方1間半。薬師堂は今は横2問縦3間の堂、また薬師田といって祭田の名が残っている。
本尊は虚空蔵菩薩て祭日は4月13日、7月13日である。しかし夏はほといなかった。
毎月13日の(農繁期を除く)御日には参拝にくる人たちの湯茶の接待を明星寺のんどお祭りをして婦人会が受け持っている。
土地の人はこの仏をお産の仏としてあがめ、明星ガ池の水を産前にいただくと安産すると語り伝えている。
○ 観音堂
一名雀堂ともいう、潤野上区にあって由緒は明らかでない。本尊は世尊妙意観音(豆観音)
という。本尊の御座裏に次の通り記されている。
修繕代寄進 昭和六年(1931)旧十二月廿九日吉日 児島隆三様方 西本清太
縁日は旧暦7月17日でこの日は合祠前は青年が上区農家よりマサメを一戸3合あて集めてたき参拝人の接待をし、千燈明をともして、相撲会を催した。高田、二瀬、穂波の近郊からも力士、参拝人が集り非常ににぎやかであった。今は千燈明は電燈に代わり子供相撲を行なっている。
昭和38年当時 川崎屯氏、川崎茂文氏談
○ 供養堂
大和彦市屋敷内に方1間ぐらいの小宇がある、中央の仏体は面部の外は腐杤がな/はだしく旧体を留めていない。
口碑によれば、この仏像は裏の高地にあった寺の仏といわれる。その跡寺も数度の兵乱に荒れはてて、祭る僧もなく、大和氏の祖先が現位置に安置し供養を続けた。
曾祖父の代、破損がはなはだしいので飯塚宮の下の、竹林仏師に仏体を刻ませ取りかえたところ、毎夜夢をみるので不思議に思って旧仏体とあわせ祭ったら、安らかに眠れるようになったとのことである。
左の像が竹林仏師の刻んだもので右は前記寺院の石燈籠の最上都と思われる。昔は縁日には子供だちがおおぜい集りお籠りをした。
この子供たちに大和氏の祖先が赤飯をたいて馳走した。仏の供養が楽しい、懐しい思い出となったことであろう。
今も年一回の祭事は続けているとのことである。
昭和38年当時 大和彦市氏,林光寅市氏談
○ 六地蔵
今からおよそ200年前建花寺より吉川(宮田町)に越す峠に山賊がでて旅人をなやました。
このことを建花寺民が黒田藩に届けでたので、早速武術達者な武士を差し向け捕えて首をはねた。
ところがこの山賊どもの往生が悪く幽霊となり迷いでるので地蔵菩薩を6件刻んで供養したといわれる。
これがどうまちがえられたか子供の病気、特に百日陵の地藏として効果があると伝えられ、全決祈願あため詣でる人が多くなった。
祈願成就の暁には「はったい粉」や「よだれかけ」を供えている。
昭和38年 当時 村瀬幾雄氏談
○ 地蔵堂
蓮台寺字中津谷、光妙寺納骨堂上の四本檜の下に木造瓦ぶき、方1間、高さ、1間ぐらいの堂がある。
中に高さ6寸ぐらいの古びた小さな仏像が祭ってある。
口碑によれば歯痛みの仏で歯の痛むときは柳の枝で年令の数だけ箸を作り、これを仏前に供えて治癒を祈ればすぐなおるといわれ,昔は近隣からの詣でる者が多かった。
縁日には区民が千燈明をともし祭事を行なっている。医術の幼稚で普及しない時代には、病気は人力のほかで病いに関係のある神仏が方々に祭られている。
○ 大日如来堂
建花寺山神にあって、このところを蓮上寺という。
福岡県地理全誌に,「禅定寺趾。建花寺村の西北五町にあり,明星寺末にして本寺と同時に廃すと云大日堂あり。」と書かれている。
地名蓮上寺とあるのは、後世禅定寺が蓮上寺とよばれて残ったものであろう。
本尊は大日如来で鎮西札所42番である。
二月最初の丑日の縁日にはアオキの小さなオーコ(にない棒)を作り、牛馬をつれて参りこれを仏前に供えて息災を祈った。
また家々では一升ますから盛りでる大餅を供えて馳走をし、五穀豊穣を析願した。
4月には人間、牛馬ともに無事田植えが終るようにと、各戸から切り銭を集めてお籠りをしている。
昭和38年 当時 関幾次郎氏談
その他の堂宇一覧
堂字名 安置地 本尊 備考
大師堂 蓮台寺川原林 弘法大師 現存・祭日・旧7月20日・相撲を催す
観音堂 花瀬シドキ田 観世音菩薩 現存・木造瓦葺・祭事・新8月10日
地藏堂 八木山女郎原 地藏尊 現存・石祠
観世音堂 八木山字中村 観世音著薩 現存・方1.5間・藁葺・木造仏体の背に
土午元禄十五年の字がある 立中寺址
薬師堂 八木山鳥ケ坂 薬師如来
観世音堂 八木山久保尾 観世音菩薩 現存
観音堂 蓮台寺池尻 々 現存 現存蓮台寺址といわれている
〔註〕現在堂宇はないが明星寺の明願寺址は墓石らしいものがあり、八木山の久道寺址は人家,正風寺址は畑地になっている。