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●【赤穂浪士】赤穂義士 茅野和助(かやのわすけ)常成(つねなり) 

2020年11月20日 17時59分45秒 | 文化
●【赤穂浪士】赤穂義士 茅野和助(かやのわすけ)常成(つねなり) 
★ 【赤穂浪士】:遺書発見=茅野和助の家族宛て自筆…『手柄立てて死ねれば幸せ』   2011年12月14日
https://plaza.rakuten.co.jp/honestshimabara/diary/201112140001/
 忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士の一人で津山出身の茅野和助(かやのわすけ)(1667~1703)が家族に書き残した自筆とみられる遺書が津山市で発見された。
 同市西新町の津山洋学資料館に展示され、話題を呼んでいる。

★赤穂義士 茅野和助常成  かやのわすけ つねなり
https://akoinfo.com/akogisi/gisikojin/kayanowasuke.html
美作藩士として 森伯耆守長武に仕えたのち赤穂に来て横目付となる。
美作出身者には神崎与五郎や横川勘平がいて同じく目付として仕えている。
いずれも微禄の新参者ながら義にあつく討ち入りに加わりその生涯を閉じています。
手跡と花押 真筆の手紙発見!茅野和助の手跡
相生市明顕寺の古文書のうち一通が茅野和助自筆の手紙であると平成二十五年に赤穂市教育委員会が発表しました。
亡くなった父にお悔やみを寄せた神崎与五郎への礼状です。共に元美作津山藩の森家中だった★両家が懇意であった証しだとのコメントが付してありました。
辞世
四十六士の切腹
https://akoinfo.com/akogisi/ninjoujiken/seppuku.html#GISI8
「天地の外にあらじな千種だに本さく野べに枯るゝと思へば」
泉岳寺の僧に応じて(白明話録)

★ この記事を書いたのは討ち入りの日だった(自分的元記事:2011年12月14日)   http://koandco.blog.jp/archives/1011834956.html
当時の産經新聞の記事に、
赤穂浪士の自筆の遺書と思われるものが発見された、と書かれていたんですね。
以下は産經新聞より。
~~~~~
元禄15(1702)年12月14日、吉良邸に討ち入りした赤穂浪士四十七士の一人で、岡山県津山市出身の茅野和助(かやの・わすけ)(1667~1703)の自筆とみられる遺書が同市内で発見されました。討ち入りの覚悟と、残す家族への思いなどがつづられています。

★赤穂四十七士録その2
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/retsuden/47roku-k.html
こちらでは討ち入りに参加した47名の義士たちを一人一人、五十音順に紹介しております。
★あ行(13名)★か行・さ行(10名)★た行・な行・は行(13名)★ま行・や行(11名)
茅野和助(かやのわすけ)常成(つねなり) 5両 中小姓 横目 享年37
元は神崎与五郎と同じく美作出身で津山森家に仕えていたが、
森家が改易されたため浪人。元禄10年から赤穂浅野家に仕えた。
当初から盟約に加わっており、赤穂開城後も赤穂に残って機会を伺っていた。
江戸入りしてからは、町人・助五郎などと名乗って吉良方の偵察にあたる。
弓の心得があり、討ち入り時は裏門「を組」に属し、屋外の警備にあたった。
四十七人の刺客では表門・半弓組に属し、得意の弓で活躍している。

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