★●河童(妖怪)かっぱ
★●妖怪(ようかい) https://ja.wikipedia.org/wiki/妖怪
妖怪(ようかい)は、日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと。 妖(あやかし)または物の怪(もののけ)、魔物(まもの)とも呼ばれる。
妖怪は日本古来のアニミズムや八百万の神の思想と人間の日常生活や自然界の摂理にも深く根ざしており、その思想が森羅万象に神の存在を見出す一方で、否定的に把握された存在や現象は妖怪になりうるという表裏一体の関係がなされてきた。
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★河童 https://ja.wikipedia.org/wiki/河童
河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)とも言う。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なるが、芥川龍之介の1927年の小説『河童 どうか Kappa と発音して下さい。』によって知名度が上がり、代表的な呼び名となった。類縁にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。具体例としては各地に残る河童神社、河童塚(鯨塚、道具塚と同じ)がある。
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★河童(読み)かっぱ
妖怪
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
水陸両棲(りょうせい)の妖怪(ようかい)。空想上の生物。身長は4、5歳の子供ぐらいで、とがった嘴(くちばし)をもつ。背は甲らで、それ以外のところは鱗(うろこ)で覆われている。手足には水かきがあり、腕は左右が通り抜けていて(体内で両腕がつながっていて)伸縮が自在。頭の上には水をたたえるための皿があって、これが河童の力の源泉で、水がなくなると同時に力も急速に衰える。陸上でも力は強いが、水中にあるときは、人はもちろんのこと牛馬でさえ引っ張り込んで、肛門(こうもん)に手を入れ、尻(しり)玉を抜いたり生き血を吸ったりする。キュウリそして相撲(すもう)を好み、よく人間に挑む。嫌いなものは金物。南九州では、春秋にヒョウヒョウと鳴きながら移動すると伝えられる。
河童は全国的な伝承をもち、カワコ、カワランベ、ガメ、エンコウ、カワシソウ、ミズシ、メドチ、水虎(すいこ)など種々の異名をもつ。亀(かめ)や獺(かわうそ)の姿を想像している地方もある。いずれにしろ、種々多くの妖怪のなかでもっともなじみ深いもので、僻地(へきち)ではいまだにこれの存在を信じている人がいる。つまり、河童の素性は水の神であり、春秋に田の神と交替して穀物の実りを約束するという。また、小(ちい)さ子神なる水神の零落の姿ともいわれ、これは母子神信仰に基づくものとされる。河童がキュウリを好むのは、水神である祇園(ぎおん)信仰に結び付いたためで、キュウリを供えた水神の祭場に出没すると考えられたからである。河童の活動もまた6月から7月にかける祇園祭のころがもっとも活発であるという。河童が椀(わん)・箸(はし)を人に貸し与えるという椀貸し伝説も、この時期のものが多い。昔話(河童婿入り)の世界では、「蛇婿入り」の水乞(みずごい)型と同じ展開の異類婚姻譚(たん)が全国各地でみられる。3人娘のうち末娘を嫁にもらうかわりに、田へ水を引いてやるというたぐいのもので、ここでも水神としての性格を色濃く現している。
河童石の伝説も全国的な広がりを示す。その石は河童が山と川を往復するときの中継点であるとか、人間に助けられたお礼に魚を置いたもの、または、水に関する病に苦しむ者が河童にキュウリを供えたら全快した、そのため石の上に供物をするようになった、など伝承もさまざまである。大分県臼杵(うすき)市野津町の河童石は川の中にある大岩。作男がそこで牛や馬を洗っていると、流れの中から河童の手が伸びて尻尾(しっぽ)などを引っ張ったと伝えられる。このように河童が馬を水中に引き入れようとする「河童駒(こま)引き」の伝承は全国にみられるが、そのほとんどが失敗譚である。逆に、馬に引きずり出されて捕らえられ、危ういところで一命を助けられる。そのお礼にと、魚を届けたり接骨薬や血止め薬の秘伝を伝授したりする。河童の詫(わび)証文や、お礼に借りた椀や膳(ぜん)、または秘伝の薬を家宝として保管している家もある。
河童駒引譚については、駿馬(しゅんめ)が水中から出現するという俗信や、牝馬(ひんば)が水神もしくは竜神の胤(たね)を宿すという考え、そして馬を水神に捧(ささ)げた儀礼の名残(なごり)であると柳田国男(やなぎたくにお)や石田英一郎らによって考察されている。
なお、駒引きは、河童に限らず猿の場合も多く、猿駒引きの絵馬を掲げる習慣も広く各地にみられる。厩(うまや)の守護神であると信じられた猿は、形態的に河童の空想図に近い。両者は兄弟であると信じている地方もあるし、反対に仇敵(きゅうてき)どうしとみる地域もある。いずれにしろ、中国・四国地方では河童をエンコウ(猿猴)とよぶという例もあり、両者の間には密接な伝承上の関係があったことは容易に推測できよう。
前述したように河童は相撲好きで、人間に化けて挑戦してくる。したがって、見ず知らずの人と相撲をとってはならぬとする戒めが九州地方には多い。河童と相撲をとると、第三者にはその姿がまったく見えず、大の男のひとり相撲としか映らぬという。河童は負けると何度でもかかってきて、挑戦されたほうはくたくたに疲れて、しまいには半病人になったり精神に異常をきたす者もあったという。
相撲は、農事に関係した豊凶占いという儀礼であった。そして、この儀礼がおもに七夕(たなばた)に行われてきたことと、同じ日に水辺で禊(みそぎ)を行い物忌みをした伝承や、水神の河童を鎮めたことを考え合わせると、河童と相撲の取り合わせは当然の帰結であったのかもしれない。
河童は江戸随筆にも多く登場するなど、さまざまの文献に現れる。昔話では巧智者(こうちしゃ)譚の『河童釣り』『河童火やろう』が昔から親しまれている。[渡邊昭五]
『「河童の話」(『折口信夫全集3』所収・1955・中央公論社) ▽「妖怪談義」(『定本柳田国男集4』所収・1963・筑摩書房) ▽「山島民譚集」(『定本柳田国男集27』所収・1964・筑摩書房) ▽石田英一郎著『新版河童駒引考』(1966・東京大学出版会)』
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★芥川龍之介 河童 - 青空文庫 どうか Kappa と発音して下さい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html
これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。彼は唯ぢつと両膝をかかへ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶりはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚いた」と言ふ時には急に顔をのけ反らせたりした。……
僕はかう云ふ彼の話を可なり正確に写したつもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若い第二十三号はまづ丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであらう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであらう。最後に、――僕はこの話を終つた時の彼の顔色を覚えてゐる。彼は最後に身を起すが早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰にでもかう怒鳴りつけるであらう。――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け! この悪党めが!」
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★河童駒引考(読み)かっぱこまひきこう
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
民族学者、石田英一郎の著。1948年(昭和23)1月筑摩(ちくま)書房刊。副題「比較民族学的研究」。馬と水神、牛と水神、猿と水神の3章からなる。柳田国男(やなぎたくにお)の『山島民譚(さんとうみんたん)集』の後を受けて、水神と馬、牛、猿などとの関係を比較民族学的に検討し、その文化史的再構成を図ったものである。すなわち、古代農耕社会においては牛が水神や豊饒(ほうじょう)儀礼と深く関係していたが、のちに馬がそれにとってかわった。また馬は猿との関係も深く、日本では水神が零落し妖怪(ようかい)化した結果、馬を水中に引込もうとする河童駒引の伝説が語られるようになったとする。[倉石忠彦]
『石田英一郎著『新版河童駒引考』(1966・東京大学出版会)』
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★怪獣(かいじゅう)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
奇怪な、あるいは不思議な形体や生態の獣。学術的なことばではないが、だいたい次の四つに分けられる。(1)恐竜を中心とする太古の動物。(2)空想上の動物。(3)実在するといわれる謎(なぞ)の動物。(4)SFや映画に登場する動物。[梶 龍雄]
恐竜を中心とする太古の動物目次を見る
中生代に栄えた爬虫(はちゅう)類の恐竜は、現代の哺乳(ほにゅう)類の動物とはかなり相違した巨大さと不思議な形をもっていた。またその生存が確かめられるのは化石としてだけであったから、その実存が人を不思議がらせたため、怪獣とよばれるようになった。新生代に入ってからの絶滅した動物、ステゴドンゾウ、メリテリウム、マンモスゾウなども含めて、いまでもこれらの動物を怪獣とよぶことも多い。[梶 龍雄]
・空想上の動物
ギリシア・ローマ神話、聖書、伝説口碑などでつくられた怪獣と、実際の動物の瞥見(べっけん)や伝聞に空想を加えてつくりあげられた怪獣とに分けられる。ギリシア神話のケンタウロスは上半身が人間、下半身がウマであるし、ゴルゴンは人間の女の姿をしながら、鳥の翼と爪(つめ)をもち、髪は何百匹というヘビ、グリフォンは鷲(わし)と獅子(しし)の入り交じった怪獣である。形体やまつわる伝説に多少の相違はあるが、世界中に広く流布されているものに竜(ドラゴン)がある。中国、日本にも怪獣は多く、鵺(ぬえ)は首はサル、体はトラ、尾はヘビであるが、羽をもつ鳥で、赤子のような声で鳴くといい、河童(かっぱ)もまた怪獣の仲間に入れていいだろう。しかしこれらの怪獣のなかにも一部現実の動物をよりどころにしているものもある。たとえばケンタウロスはウマを知らない民族が乗馬の人間を見たことから、鵺はトラツグミの鳴き声を聞いたことからだというようなこともいわれている。人魚(マーメイド)やノルウェーの海に住む巨大生物クランケンは、この実在の動物から考えられた空想の怪獣という疑いも濃い。人魚は海牛のジュゴンやマナティーから、クランケンは大イカの連想にさまざまの空想脚色が付加されたとも想像できる。[梶 龍雄]
・実在するといわれる謎の動物
交通機関も未発達で、写真なども存在しなかった往時は、遠国に生息する動物に対する知識は、目撃者の不完全な記憶だったり、また潤色の強い話だったりしたために、多くは怪獣として受け取られていた。サイがカメの甲らを背負っていたり、キリンは単に首の長いウマだったりしたし、20世紀に入っても、パンダなどは猛獣とされて凶悪な様相の顔が描かれ、猛獣狩り隊が派遣されたりした。だが動物の調査と研究が急速に発展した現代では、もはや哺乳動物の新種発見などはないだろうといわれている。しかし、そのなかにあって、いまだに未発見だといわれている謎の動物の怪獣もいる。1951年イギリスの探検隊に足跡を発見されたころから急速に話題になったヒマラヤの雪男(イェティ)は、同類がカナダの森林地帯にサスカッチと名づけられて存在するともいう。日本でも広島県比婆(ひば)郡の山中にいるという噂(うわさ)もあり、ヒバゴンと名づけられている。ネッシーはスコットランドのネス湖に住む恐竜ともいわれる巨大怪獣で、1934年写真にそれらしい像が収められたとの噂から、急速に世界中の話題になった。なお、これらの謎の動物はUMA(ユーマ)(Unidentified Mysterious Animal=未確認動物)ともよばれている。[梶 龍雄]
・SFや映画の怪獣
SFや児童向けの娯楽物、とくに映画のなかでつくられた、まったくの空想の怪獣であるが、現今は怪獣というと、これだけをさしていうこともある。SFでは地球外の宇宙生物としてベムという総称が用いられ、イギリスの作家H・G・ウェルズが『宇宙戦争』The war of the worlds(1898)で火星人をつくって以来、さまざまの宇宙怪獣がつくられてきた。映画では巨大なゴリラが主人公のアメリカ映画『キング・コング』が怪獣映画の始まりであるが、今日の日本の怪獣ブームをよんだのは、円谷英二(つぶらやえいじ)の特殊効果撮影を使った『ゴジラ』(1954)で、以後、円谷プロは『ウルトラマン』をはじめとするウルトラシリーズなどで、主として、人間が縫いぐるみに入って演技する怪獣、ガラモン、ゴモラ、ゴルゴスなど、数多くの怪獣をつくりあげ、子供たちの人気ものにした。また「ゴジラ」と人気を二分する巨大蛾(が)の怪獣「モスラ」や、カメをモデルにつくられた怪獣「ガメラ」のシリーズなどが相次いで製作され、怪獣映画の黄金時代が築かれた。1970年代後半以降怪獣映画は衰退したが、84年にゴジラ生誕30周年を記念した『ゴジラ』が製作されたのをきっかけに復活の兆しがみえはじめ、90年代以降は「ゴジラ」「モスラ」「ガメラ」をはじめとする怪獣の映画がコンスタントにつくられている。海外では、コンピュータ・グラフィクスを駆使したスティーブン・スピルバーグの恐竜映画『ジュラシック・パーク』(1993)や、『ゴジラ』をリメイクしたSFXモンスター・ムービー『GODZILLA』(1998)がハリウッドで製作され話題をよんだ。[梶 龍雄]
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★芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人()、俳号は我鬼。
その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。
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★家の神(いえのかみ) 家の神
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
一家を守護すると信じられてきた神。主として竈神(かまどがみ)、屋敷神、厠(かわや)の神や納戸(なんど)神など。一般的に多いのが竈神で、西日本では荒神(こうじん)ともよぶ。土間の竈には火に対する畏怖(いふ)と慎みから、これを家の神とする観念が発達した。イエ(ヘ)の「ヘ」は、ヘッツイ、ヘヤの「ヘ」と同義とする説もある。竈の上や柱にカマヲトコ(面)や、神符、幣束(へいそく)を置く地方もあるし、嫁入りのとき最初に竈に拝礼する地方(沖縄)、祖霊神として死者が出ると灰を全部取り替える地方などもある。東北地方では「竈をおこす」とは一家をたてるの意で、分家に火と灰を分ける。陰陽師(おんみょうじ)によって土公神(どくじん)ともよばれる。水田耕作の田の神(春秋に山の神と交替)・水の神や歳神(としがみ)も家の神としての荒神に結び付いているし、氏神、産土(うぶすな)神、地神、作神、ミサキなども習合している。火の所在場所としてのいろりも同じで、煙の天窓を通して大歳(おおとし)の神が訪れる考え方があり、自在鉤(じざいかぎ)のことをカギツケサマ、オカンサマといい、家の神がこもるところとする信仰もある。
庭の隅の石祠(いしほこら)や洞穴に置かれた屋敷神も同族や屋敷を守護する神で、春秋の山の神と田の神の交替期に呼応して祀(まつ)る。これが発展して氏神、産土神になる例もある。納戸も、西日本では家の歳神、田の神、作神を祀る。厠の隅に男女一対の土人形を飾ったり(仙台)、オヘヤ神(栃木)としている地方もある。東北地方では接客の出居(でい)を、家の神の間として神棚を祀る。また、屋内にいる妖怪(ようかい)の一種と信じられてきた座敷童子(ざしきわらし)も、家を繁栄させる守護霊として、岩手、秋田地方では河童(かっぱ)と混同されたりしている。春秋交替の山の神が、田に出て水の神となる姿と混同したものと考えられる。いずれにしても、家の神の形態は、種々の伝承が複雑多岐に絡み合いながら変遷してきて、一つの概念には定められない。[渡邊昭五]
[参照項目] | かまどの神
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★屋敷神(やしきがみ) https://ja.wikipedia.org/wiki/屋敷神
屋敷に付属している土地に祀られている神・神社のことである。
・概要と沿革
屋敷神は屋敷およびその土地を守護する神で、屋敷の裏や敷地に付属した土地もしくはやや離れた山林などに祀られることが多い。その呼ばれ方は地域によって様々である。家との関わりが深い神であるが、神棚などの屋内神とは異なり、原則として屋敷の中には祀られない。屋敷神を祀る信仰は、浄土真宗の地域を除いて全国に分布している。
屋敷神の起源は明確なことは分かっていない。しかし、後述するように、神格としては農耕神・祖先神と同一の起源を持つ神だと言われている。特に祖先神との深い繋がりが指摘されている。
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★かまどの神(読み)かまどのかみ
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
かまどは食物調理の火を焚(た)く場所であるから、いわば家屋の心臓部に相当し、古くからこれについての信仰は根強い。関東・東北ではオカマサマとよぶことが多いが、近畿を中心に全国広く三宝荒神(さんぼうこうじん)の称があり、近畿以西ではドクウサマ、ロックウサンとよぶことが多い。三宝荒神は、修験者(しゅげんじゃ)や日蓮(にちれん)宗信徒の間では、三宝(仏・法・僧)を守護し、浄信者を助け、悪人を罰する神として、宝冠を頂き、三面六臂(さんめんろっぴ)で、忿怒(ふんぬ)または如来(にょらい)の相で表されている。この神が、清浄を愛し、不浄を強く排するところから、火の神の信仰に結び付けられ、「荒神さんを粗末にすると罰があたる」「かまどに乗ると荒神さんが怒る」などの俗信が広く及んでいる。ドクウサマは、陰陽道(おんみょうどう)で重んじられ土をつかさどるとされる土公神(どこうじん)からきたもので、かまどを汚すと土公神の祟(たた)りがあると信じられてきた。
これらに対し、オカマサマは、いかにも主婦と関連深い神で、子供を多くもち、とかく控え目で、神無月(かんなづき)の諸神の出雲(いずも)行きにもこの神だけは同行しないといわれ、所によっては夫の不在中のつつましやかな饗宴(きょうえん)も、この神になぞらえて「オカマノルスンギョウ」とよばれる。東北の一部では、かまどの神の神体との意味で、釜神(かまがみ)さまと称し、醜怪な感じの男の面を竈の上方に安置する例がある。農家の年中行事のなかには、田植のときに五目飯を供える風があったりして、かまどの神は本来は家の守護神、農耕の神でもあったとの観がある。かまどの神を祓(はら)い清めて祀(まつ)ることを竈(かまど)祭りといい、年末に神職が家々を訪れて祀った。[萩原龍夫]
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★池の主(読み)いけのぬし
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
池や淵(ふち)に住み着いて、人に禍福や危害、霊異を与えると信じられてきた伝説上の妖怪(ようかい)。自然伝説でもっとも多いのが、淵や池の底から機(はた)を織る音が聞こえるという機織淵(池、沼)、蛇池などの伝説。悲劇の終末を迎えた娘が竜女、蛇、弁財天などに化した型が多い。かつて、祭りに、清らかな乙女をして忌機屋(いみはたや)で機を織らせ来訪神に供えた信仰の、名残(なごり)の伝承であろう。機織りは昔話でも重要なモチーフである。竜女が雨乞(あまご)いに結び付いているのもある。多数の膳椀(ぜんわん)を必要時に貸してくれるという椀貸淵なども、貸す者は水界の霊異者の竜女、河童(かっぱ)が多い。修行者や比丘尼(びくに)の死を伴って、念仏を唱えると泡が出る念仏池の伝説や、池の主が妖怪でも前身は人間の横死した御霊(ごりょう)というのは、無縁の精霊を説明して祟(たた)りを鎮める御霊信仰によるものである。夜叉(やしゃ)池、尼ヶ池、姥(うば)ヶ池、桝洗(ますあらい)池、嫁ヶ淵、傾城(けいせい)淵など、いずれも種々の挿話が出入したり、池の主も多様に変わっているが、型は同じである。[渡邊昭五]
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★異類婚姻譚(読み)いるいこんいんたん
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
民俗学用語。異類求婚譚ともいう。人間が動物や精霊などの異類と婚姻する昔話の一つ。異類が男性の場合と女性の場合がある。男性の場合は,名を隠して女のもとに通う婿の本体がへびだったというへび婿入り型が代表であり,その他,笑話的なさる婿説話も知られている。女性の場合は,危機を救われたつるが美女となりその妻になる「つる女房」や,「はまぐり女房」のように動物が恩返しをする形式のものが多い (→動物報恩譚 ) 。その他,「柳の精物語」「羽衣伝説」などもこの類型である。
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★精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 人と異類(動物や想像上の生物)との婚姻を説く昔話。蛇婿入り、河童婿入りなどのように異類が男性の場合と、鶴女房や蛤(はまぐり)女房などのように異類が女性の場合とがある。
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★ウマと人類
日本の河童駒引(かっぱこまひ)き伝説にみられるように、ウマは水の精霊とも所縁(しょえん)が深く、水界の霊物とウマとの間にできる「竜馬」の伝承なども生み出されている。
また河童(かっぱ)がウマを川や池に引き込むという伝説(駒引き伝説)も多く、馬引沢といって地名にもなっている。また「馬塚」という伝説も多く、戦(いくさ)に負けた武将の乗ったウマを埋めた塚という。
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★おかっぱ https://ja.wikipedia.org/wiki/おかっぱ
おかっぱ(御河童)は、主に女性の髪形の種類のひとつ。前髪を額に垂らし切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえた髪型のこと。呼称は他におかっぱあたま、かっぱなど。かつての欧米では少年や少女がよくしていた髪型で、日本では少女の髪型として主流だった。現在では大人の女性の髪型としても人気がある。英語ではボブまたはボブカット、マッシュルームカットという。
・歴史
名前は、文字通り河童に似ているということに由来する。日本では、古くは頭頂を剃り上げたうえで周りの長髪を残して垂れ流し、河童のようにした男性の髪型を「断髪」または「御河童頭」と呼んでいた。江戸時代になると、こうした断髪頭は刑罰を負った者や世俗を離れて出家した者の髪型となり、「おかっぱあたま」といえば少女の髪型を指すようになった(少年の場合は「稚児頭」〈ちごあたま〉と言った)。
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★馬壩人(読み)ばはじん(英語表記)Maba-ren
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国広東省韶関市馬 壩の石灰洞穴から発掘された化石人類の頭骨。更新世後期のものとされる。シナントロプスよりも頭蓋が高く,中国における旧人類の段階を代表するものと考えられている。
★世界大百科事典 第2版の解説
中国の旧人と見なされる人類。マパ人ともいう。1958年,広東省韶関の馬壩の石灰岩洞窟から発掘された。石器は発見されていないが,人骨に伴う化石の哺乳動物から洪積世後期に由来するものと見なされている。頭骨は頭頂骨と右眼窩上部を含む前頭骨,および頰骨,鼻骨の一部をもつ不完全なものであるが,発達した眼窩上隆起と幅の広い鼻骨と比較的厚い骨などの点から,呉汝康,彭如策は,この人類がヨーロッパのネアンデルタール人類に相当するものと見なしている。
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★小川芋錢(おがわうせん) (1868―1938)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
日本画家。幼名は太郎、のち茂吉(しげきち)。江戸に生まれる。父は牛久(うしく)藩士であったが、廃藩置県に際し稲敷(いなしき)郡牛久村(現茨城県牛久市)に帰農。少年時代東京に出て本多錦吉郎(きんきちろう)の彰技堂画塾で洋画を学ぶが、17歳のころ独学で学んだ日本画に転向する。1891年(明治24)『朝野新聞』に芋錢の号で漫画を掲載したのを皮切りに『平民新聞』『読売新聞』などに主として農村風景に題材をとった漫画を執筆。また雑誌『ホトトギス』に挿絵や表紙をかいた。
1915年(大正4)珊瑚会(さんごかい)が結成されるとその同人となり、南画風の作品を発表。17年には日本美術院同人に推された。1893年以後は牛久に住み、牛久沼の畔(ほとり)の風物に取材した独自の幻想的な南画をかく。とくに河童(かっぱ)を題材としたものが有名。代表作に『水虎(すいこ)とその眷族(けんぞく)』『若葉にむさるる木精(もくせい)』などがある。[星野 鈴]
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★鹿児島(県)
鹿児島にはなお、メン、幽霊、目一つ五郎、チョカメン、火グワンス、ガラッパ(河童(かっぱ))、入道、白馬の若侍、天狗(てんぐ)、サイロク、犬神など妖怪の跳梁(ちょうりょう)の信仰が最近まであった。
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★地神(読み)じがみ
デジタル大辞泉の解説
祖霊、農神ともされる神。屋敷内や辻(つじ)・田のそばに祭る。地主神(じぬしがみ)。じしん。
《「ぢじん」「ぢしん」とも》
1 地の神。国つ神。地祇(ちぎ)。⇔天神(てんじん)。
2 天照大神(あまてらすおおみかみ)以下、この国を治めた神々。
3⇒じがみ(地神)
・大辞林 第三版の解説
① 田畑のほとりや宅地内の一隅などに祀まつられる神。土地の神・屋敷の神とする所が多い。じぬしのかみ。じしん。じのかみ。
② 「土公神どくじん」に同じ。
① 「じがみ(地神)」に同じ。
② 「地天じてん」に同じ。
③ 「ちじん(地神)」に同じ。
・〔「じじん」とも〕
① 地の神。国つ神。地祇ちぎ。
② 「じがみ(地神)① 」に同じ。
③ その土地の神。
④ 「地天じてん」に同じ。
⑤ その遊郭内の太鼓持ち、遊芸人など。⇔江戸神。
※洒落本・鄽意気地(1802)二「ゑど神地神相手にして、客は余念もなき風情」
(「ちじん」「じじん」とも)
[1] 〘名〙
① (古くは「じじん」) 天つ神および天孫系の神々に対し、天孫降臨以前からこの国土に住み、その土地を守護する神。くにつかみ。
② 天照大神以下、この国土を治めた神々。皇統の祖神とする。→地神五代。
※源平盛衰記(14C前)三〇「伊勢太神宮と申すは〈略〉地神(ヂジン)最初御神也」
③ 屋敷神の一種で、西日本では、じがみ、中部日本から関東地方にかけては、じじん・じしん・じのかみと呼び、多く宅地内の一隅(多くは戌亥隅)あるいはこれに接続した小区画にまつられている。また、特定の旧家に限っている例や村落の神に昇格した例も珍しくない。稲荷であったり、開拓先祖をまつったりしている場合が多い。
④ 土地の神。
※史記抄(1477)七「げにも乾為父、坤為母ぢゃほどに、地神は母であらうぞ」
[2] 大地をつかさどる神と考えられている堅牢(けんろう)地神。
※今昔(1120頃か)一「大地六種に震動、地神七宝の瓶を以て其の中に蓮花を満て」
・
世界大百科事典内の地神の言及
【地主神】より
ともに地主神を守護神としてまつった例である。また,民間では〈地神(じがみ)〉〈地主様(じぬしさま)〉と称して,屋敷神とか土地開拓の神,あるいは先祖の霊などをまつった例がしばしば見られる。土地神【大井 鋼悦】。
【土地神】より
人が死ぬと,魂はまず城隍廟,土地廟に赴くと信じられたから,遺族はすぐ廟へいって廟神を拝し,紙銭を焼いた。土地神への信仰は後漢末・六朝時代からすでに見られ,道教にも取り入れられた。唐・宋時代には全国に広まり,各地に土地廟が建立されるようになった。
【土府】より
陰陽道(おんみようどう)における地神。土公ともいう。
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★かっぱ
デジタル大辞泉の解説
[副]
1 突然発する激しい音を表す語。
「いただき給ふ鉢―と前に落ちにけり」〈伽・鉢かづき〉
2 急に倒れ伏したり、起き上がったりするさま。がばと。
「今はかうとおぼえける時、―と起き」〈平家・五〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
キュウリの俗称。河童(かっぱ)は想像上の動物で、かわわっぱが転じてかわっぱとなり、さらに転じてかっぱとなった。その河童はキュウリが大好物であるということから、キュウリをかっぱというようになった。主としてすし屋の用語で、キュウリを芯(しん)に入れて巻いたのり巻きずしをかっぱ巻きという。
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★嘉麻(市)(かま)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
福岡県中部にある市。2006年(平成18)、山田市と嘉穂(かほ)郡稲築町(いなつきまち)、碓井町(うすいまち)、嘉穂町が合併して成立。市名は古代以来の嘉麻郡の郡名による。南部は朝倉(あさくら)市との境にそびえる古処(こしょ)山、馬見(うまみ)山などに続く山地。上流部を嘉麻川ともいう遠賀川(おんががわ)が、南東端の朝倉郡東峰(とうほう)村境にある嘉麻峠に発し、市域中央を貫流。同川や支流山田川などの流域に平地が広がる。JR後藤寺(ごとうじ)線が北端部をかすめ、下鴨生(しもかもお)駅がある。国道211号が遠賀川沿いに縦走し、大隈町(おおくままち)地区で322号と交差する。
遠賀川の上流域は早くから開け、馬見の鎌田原(かまだばる)弥生墳墓群や漆生(うるしお)の沖出(おきで)古墳(4世紀末)は県指定史跡。『日本書紀』にみえる鎌屯倉(かまのみやけ)は市域に所在したとみられる。7世紀に碓井封(うすいのふう)が観世音(かんぜおん)寺(太宰府市)に施入されたのを皮切りに、市域には筥崎(はこざき)宮領益富(ますとみ)荘、宇佐弥勒(みろく)寺領漆生荘、岩崎(いわさき)荘、比叡山延暦寺領嘉麻荘などの荘園が成立。これら諸荘の年貢米搬送には遠賀川が利用された。中世、嘉麻郡の南境に位置する馬見・千手(せんず)などが、交通、戦略上の要地となり、南北朝期~戦国期には千手城に拠った千手氏、鷺山城(さぎやまじょう)の秋穂氏のほか、秋月氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏、毛利氏などが攻防を繰り返した。1579年(天正7)秋月氏が一帯を掌握、益富城を支城とした。古くは「おぐままち」といった益富城下の大隈町は秋月街道と日田街道が交差する要衝で、定期市(三斎市)が開かれ、宿場町としても発展する。しかし、1587年、豊臣秀吉の九州平定軍に攻略され、この時、秀吉が大隈町の町衆に与えたという陣羽織(国指定重要文化財)が残る。江戸時代は福岡藩領、秋月藩領などに所属。大隈宿は人馬の通行で賑わい、秋月街道に千手宿も設けられた。江戸後期には福岡藩は石炭仕組を実施し、嘉麻郡など4郡の石炭を遠賀川経由で福岡・博多市中に回漕させた。当地では、下臼井(しもうすい)村の舟場が石炭輸送の拠点として繁栄。明治中期頃から、上下の山田炭鉱、熊田(くまだ)炭鉱、平山(ひらやま)炭鉱、三井山野(みついやまの)炭鉱など、多くの炭鉱が稼動し、筑豊炭田南部の炭鉱町として発展、1895年(明治28)には筑豊鉄道の飯塚~臼井間が開通、1903年には飯塚~上山田間で旅客営業を開始(のちの国鉄上山田線)。しかし、昭和30年代以降、石炭合理化政策により炭鉱は相次いで閉山となる。人口は激減し、炭鉱町としての歴史は閉じられた。
現在の基幹産業は農業で、水田耕作、果樹・野菜栽培、キクなどの施設園芸や酪農も盛ん。また炭鉱閉山以降、縫製、印刷、食品など軽工業の工場を誘致、近年は自動車関連工場なども進出している。山野の若八幡神社(わかはちまんじんじゃ)で行われる「山野の楽(がく)」は、河童祭りともよばれ、県指定無形民俗文化財。例年10月には、1988年(昭和63)に廃線となった上山田線を利用したイベント(トロッコフェスタ)も開かれる。古処山、馬見山一帯は筑後川県立自然公園の指定域。面積135.11平方キロメートル、人口3万8743(2015)。[編集部]
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★上高地-名勝地
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
長野県西部,飛騨山脈南部の景勝地。古くは上河内,神河内 (神の庭の意) などと書かれた。焼岳の噴出物が梓川の谷を埋めてつくった標高約 1500mの小さな盆地で,穂高連峰,焼岳,六百山,霞沢岳などの高山に囲まれる。江戸時代までは松本藩御用林の作業員が入山した程度であったが,幕末から登山基地として注目され,明治 20年代にイギリスの宣教師 W.ウェストンによって内外に紹介された。島々渓谷から徳本 (とくごう) 峠を越える登山路に代り,1933年には梓川沿いに自動車道路が開通。大正池,明神池,シラカバ,ケショウヤナギ,カラマツの林,穂高連峰,噴煙をあげる焼岳などの眺めが美しい。春から秋には登山者のほか観光客も多く,梓川にかかる河童橋付近にはホテル,飲食店など観光施設が散在する。一帯は特別天然記念物,特別名勝に指定され,中部山岳国立公園に属する。
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★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
長野県の中西部、北アルプス観光の中心地。松本市(まつもとし)に属する。中部山岳国立公園に属し、特別保護地区、特別名勝、特別天然記念物などに指定され、優れた自然景観に特別の保護が加えられ、日本の代表的山岳観光地として知られる。[小林寛義]
・名勝地
上流からおもなものをあげると、明神岳(みょうじんだけ)直下に明神池がある。
上高地の中心河童(かっぱ)橋より徒歩約1時間の上流で、穂高神社の奥宮があり、
10月初旬に御船(おふね)神事がある。
この近くに上高地開発に尽くしたガイド上条嘉門次(かみじょうかもんじ)の
嘉門次小屋があるが、大部分改修し、当時の姿はわずかしかない。
河童橋は上高地の中心部で、
1920年(大正9)芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が北アルプスに登り、
そのときの経験で『河童』を発表したところから名づけられた。
当時は丸太橋で1935年(昭和10)に釣り橋になり、現在のは5代目である。
この両岸にはホテルや飲食店、上高地温泉などがあり、7月下旬の盛夏は雑踏する。
橋上からみる奥穂高の山容や梓川両岸のケショウヤナギ、シラカンバ、カラマツの
木々は上高地の代表的景観で、カラマツが紅葉する10月中旬橋からの焼岳の眺望は
すばらしい。
梓川の右岸にはウェストンを記念する碑があり、6月初旬にウェストン祭が行われる。
大正池は上高地盆地の入口にあたり、河童橋とともに上高地の代表的名勝地。
1915年焼岳の噴出物で梓川がせき止められてできた池で、当初は池中に枯れ木が
立ち、幻想的な池であったが、相次ぐ土砂の流入で川のように狭くなってしまった。
[小林寛義]
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★水神(読み)すいじん(英語表記)water gods
デジタル大辞泉の解説
水をつかさどる神。飲み水や田の水などを支配する神。水伯。
《「な」は「の」の意の格助詞》水をつかさどる神。すいじん。
「―に祈るかひなく涙川うきても人をよそに見るかな」〈後撰・恋一〉
百科事典マイペディアの解説
水の神。稲作と関係深く田の神と親近性を示し,春は川,秋は山に帰るとも,田の水口にいるともいう。女神や母子神,またヘビ,カエル,魚,河童(かっぱ),【みずち】(角のある竜),竜などの姿をとる。水神の祭は6月に多く,雨乞い,大水・疫病防止,豊作を祈る。特に天王祭(天王信仰)が有名。水分神(みくまりのかみ)は山頂で麓の水の分配をつかさどる。
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★河童天王祭り | 隠居のつぶやき - teacup.ブログ“AutoPage” 2011/06/07
https://green.ap.teacup.com/sizen/1175.html
この日は東海道五十三次の第一の宿場・品川で、「河童天王」祭りが行なわれていた日です。
河童天王は荏原神社の俗称で、古くは貴船明神と言い、鎌倉時代の宝永元年に京都の祇園社から牛頭天王を分霊したことにはじまる由緒ある神社です。
同じ品川に鎮座する品川神社も鎌倉時代からの古い社で、徳川家光が東海道の鎮守と定めました。
この二つの神社の祭礼を一括して「品川祭」または「品川天王祭」と呼び、またの名を「河童天王祭り」と言っていました。
品川神社を北の天王、荏原神社を南の天王または河童天王と呼び、それぞれの神社を出た神輿が品川橋の上で出会います。
この品川橋は旧東海道にあったもので、目黒川に架かっており、祭りで両社の神輿が出会うことから「行合橋」と呼ばれていました。
このお祭りが「河童天王祭り」の名で呼ばれるのは、荏原神社の神輿を海に担ぎ入れることと関係があります。神輿を海の中に完全に沈めないとその年は豊漁にならないという言い伝えがあります。
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★尻こぼし - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/尻こぼし
尻こぼし(しりこぼし)またはコボシは、三重県志摩郡和具町(のちの志摩町、現・志摩市)や布施田村(現・同)に伝わる海の妖怪。
河童の一種ともいわれる。
尻こぼしとは、「尻を破壊する、削り取る者」の意で、
「こぼす」(毀す、毀つと同)とは
「壊す、破壊する」「剃り取る、削り取る」を意味する古語であり方言である。
「こぼし」は、子法師の意味との説がある。
海にもぐる海女を襲い、河童のように人間の尻子玉を抜き取るといわれるもので、
これに襲われた死体は必ず尻の穴が開いているという。
海で人を脅かしてショック死させるともいう。
また鉄が嫌いであり、海中に鉄を落とすとこの妖怪の祟りに遭うという説もある。
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★ 石川県の昔話 1 かぶそ(かわうそ)【獺・川獺】中能登町 (3) 2011.09.09
https://plaza.rakuten.co.jp/zatokusen/diary/201109090001/
鳥山石燕 [画図百鬼夜行]より
「かぶそ」とはカワウソのことで、あのかわいいラッコの仲間。
昔は日本にもニホンカワウソがたくさんいたのですが、
現在では乱獲や開発で既に絶滅したと考えられています。
このカワウソを、
石川県能登地方では「かぶそ」「かわそ」と呼んで妖怪視していました。
夜道を歩く人の提灯の火を消していったり、
若い女に化けて男をたぶらかしたり、かなりいたずらをしたようです。
でも、残念ながら、もう会えないかもしれませんね。
「参考:能登の民話伝説 鳥屋町(現:中能登町)より」
[読みやすいように方言、表現をかなり改変してあります]
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★キュウリ 【胡瓜】
九州には、川祭りに河童(かっぱ)や水神に捧(ささ)げるキュウリを川に流すたとえもある。祇園信仰は水神信仰を基盤に展開しており、これらの伝承も瓜類と水神との宗教的結び付きを根底にして成り立っている。
水分が多い野菜のためか、昔から水神と縁が深い野菜とされてきました。水神が妖怪化したカッパの大好物だったという言い伝えもあり、「カッパ巻き」はそこから由来しているといわれています。
果肉が薄くて歯切れのよい白イボ種と、肉質に粘り気のある黒イボ種があります。現在は見栄えのよい白イボ種が主流になっています。旬(しゅん)は夏から秋で、わが国でのおもな生産地は群馬、埼玉、福島、宮崎、高知などです。
〈カリウムやピラジンが利尿効果、血圧降下作用をもたらす〉
○栄養成分としての働き
90%以上が水分なので、栄養的にはあまり期待できませんが、カリウム、カルシウム、ナトリウムを適度に含んでいるので、体に負担をかけることなく水分補給できます。
利尿作用があるので、むくみの解消、のぼせの改善に効果的。
カリウムは100g中200mgで多いほうです。体内でナトリウムを排出する働きをするので、血圧降下に役立ちます。
青臭さがありますが、これはピラジンという成分からきています。ピラジンは血がかたまるのを防ぐ成分で、脳梗塞(のうこうそく)や心筋梗塞(しんきんこうそく)の予防や治療に効果があります。
頭部に苦みのある成分がありますが、これはククルビタシンA、B、C、Dという物質です。
この4種のうち、ククルビタシンCには抗がん作用があるといわれています。
○漢方的な働き
体を冷やす作用があるので、夏の暑気払いに適しています。
日本には10世紀までに渡来し、黄瓜(きうり)(『新撰字鏡(しんせんじきょう)』)、加良宇利(からうり)(『本草和名(ほんぞうわみょう)』)、曽波宇里(そばうり)、木宇利(きうり)(『倭名類聚抄』)などとよばれた。しかし、重要野菜とはみなされなかったようで、水戸光圀(みとみつくに)は「毒多し、植えるべからず、食べるべからず」と説く(『桃源遺事』下)。イギリスでもキュウリの冷たさは死を暗示すると考えられ、食べると生命を落とすとの迷信が長く続いた。[湯浅浩史]
民俗
キュウリは日本各地で祇園(ぎおん)信仰と結び付いている。
山形県鶴岡(つるおか)市の八坂神社では、7月15日の祭日にキュウリ2本を供え、
うち1本を持って帰り食べる風習がある。類似の習俗はほかにも多く、キュウリを
祇園社の神饌(しんせん)とし、祭りの前後には食べなかったという土地もある。
神奈川県川崎市などには、
初なりのキュウリには蛇が入っているとして川に流す習慣があった。
祇園の神が川を流れてきた瓜(うり)に乗って出現したという伝えは多く、
瓜の中の蛇を祇園の神とする信仰があったらしい。
九州には、川祭りに河童(かっぱ)や水神に捧(ささ)げるキュウリを
川に流すたとえもある。
祇園信仰は水神信仰を基盤に展開しており、
これらの伝承も瓜類と水神との宗教的結び付きを根底にして成り立っている。
[小島瓔]
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★伝説 - ニッポニカ
https://japan-e-knowledge.jp/contents/kidsknowledge/cgi-bin/nipo/nipo_detail.cgi?id=0007227600&page=18&pFrom=&yokogusi=&refhtml=&hist=102192,102657,210022,102102,109403,107329,103432,210022,105112,104549,210037,100255,210030
伝説
熊本市横手(よこて)に五郎大明神という巨大な木像が祀(まつ)られている。
この祭神は「横手五郎」といって怪力の持ち主。
豪雄木山弾正(きやまだんじょう)の子で、父の仇(あだ)の加藤清正の命をねらい、
熊本築城のおり石運び人夫に加わって機をうかがったが、
見破られて城内の井戸で殺されたという。
「後藤又兵衛」は大坂落城で戦死したというが、脱出して九州落ちをし、
旧泉村の地(現八代市)で余生を送ったとされている。同地にその墓がある。
阿蘇市一の宮町には羽衣(はごろも)伝説がある。田鶴原(たづはら)神社は
天女を祀った社(やしろ)という。
阿蘇地方には雄大な国づくりの伝説を伝えている。
太古の阿蘇山の外輪山には野尻(のじり)湖という広大な火口湖があった。
健磐竜命(たけいわたつのみこと)は湖を干拓して耕地をつくろうと思い立ち、
外輪山の壁を蹴(け)破った。
そのときにできたのが「数鹿流(すがる)ヶ滝」であるといわれている。
曽我(そが)兄弟の死後、尼僧になった「虎御前(とらごぜん)」の足跡は諸国に
あるが、県下にも虎女(とらじょ)が建立したという塔が各地にある。
宇城(うき)市松橋(まつばせ)町の言い伝えによると、この地にきて病死したという。
その墓は同市古保山(こぼやま)にある。
悪七兵衛(あくしちびょうえ)とよばれた平景清(かげきよ)は、
平家滅亡のあと球磨(くま)の山奥に逃れた。
その父の後を追ってきた娘が、岡原(おかはる)村(あさぎり町)まで来た時
ゴマ畑で転び、ゴマがらで目を突いて盲目になった。
もはや道中もかなわぬと思い自害した。
この地方ではそれゆえゴマがらを村に持ち込まなくなったという。
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★荒神(こうじん)
精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙
① たけだけしく、霊験のあらたかな神。
※山家集(12C後)中「波につきて磯わにいますあらがみは潮ふむ宜禰(きね)を待つにやあるらん」
② 荒々しく人にわざわいを及ぼす神。
※孟津抄(1575)一七「能因歌枕 云人の中さへる神をばあらみさき又あらみけといふ荒神也」
③ 伊勢神宮の末社の「雨の宮風の宮」の別名。
④ かまどの神。
※諸国風俗問状答(19C前)三河国吉田領風俗問状答「さて大黒、蛭子、荒神〈竈の神の意〉には、大かたの家にて別に供ふ」
荒々しく乱暴する神。天皇の命令に従わない神。
※古事記(712)中「東の方十二道の荒夫琉神(あらブルかみ)、及(また)摩都楼波奴(まつろはぬ)人等を言向け和平(やは)せ」
※草根集(1473頃)四「いぐしさすしでにあらふる神やまずなごやかならぬ瀬々の川浪」
[1] (「三宝荒神(さんぼうこうじん)」の略) 仏・法・僧の三宝を守るという神。怒りをあらわし、三つの顔と六つの手をもつ。修験道や日蓮宗などで、とくに信仰される。荒神様。
※源平盛衰記(14C前)一「我(われ)財宝にうへたる事は、荒神(クハウシン)の所為にぞ」
[2] 〘名〙
① かまどを守る神。かまどの神。民間で「三宝荒神」と混同され、火を防ぐ神として、のちには農業全般の神として、かまどの上にたなを作ってまつられる。毎月の晦日に祭事が行なわれ、一月・五月・九月はその主な祭月である。たなには松の小枝と鶏の絵馬を供え、一二月一三日に絵馬をとりかえる。荒神様。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「又壱人、『掛鯛(かけだい)を六月迄、荒神(クハウジン)前に置けるは』と尋ぬ」
② 近畿以西に濃厚な分布をもつ屋外の神。屋敷神、同族神、集落鎮守の場合があり、荒神講を組織して集落中で飲食する地方も多い。また転じて、かげにいて守ったり援助したりする人をもいう。荒神様。
※諸国風俗問状答(19C前)備後国福山領風俗問状答「荒神と申す小神祠、村々に有之」
③ (荒神はかまどの神であるところから、かまどを使う者として) 女房の異称。荒神様。
※二篇おどけむりもんどう(1818‐30頃か)「福神にあらずして寺に大黒とはいかに。内のかかを荒神といふがごとし」
④ 牛の守護神。牛荒神。
※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)四「手なれし牛の、子をうみけるに、荒神(コウジン)の宮めぐりもすぎて」
⑤ ((一)の顔が三面であるところから) 中央のほか左、右にも乗れるようにつくった馬のくら。または、そのくらをのせた馬。
※雑俳・柳多留‐九一(1826)「荒神があれて三人どさら落」
⑥ 「こうじんびわ(荒神琵琶)」のこと。
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★猿神 https://ja.wikipedia.org/wiki/猿神
猿神(さるがみ)は、日吉神などの太陽神の使者とされるサルの化身、および中世の日本の説話に登場するサルの妖怪。
猿神信仰
比叡山延暦寺の僧の著書とされる神道理論書『耀天記(ようてんき)』によれば、漢字の発明者とされる古代中国の伝説上の人物・蒼頡が神の出現前に、釈迦が日本の日吉に神として現れ、サルの形を借りて吉凶を示すと知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明したことや、蒼頡は実は釈迦の前世であり、釈迦が日吉に祀られてまもなく、サルたちが日吉大社に集まったことが記述されている。この話は創作だが、仏教が日本に伝来するにあたり、それ以前から日本で信仰されていた日吉神など日本古来の神の信仰を繋ぎ合わせるものとして興味深いものと見る向きもあり、サルが日吉神の使者とされた由来の一つと考えられている。
信仰と結び付いて三猿の石像として祀っている地方も多い。あるいは、厩(うまや)の守護神として猿駒(さるこま)引きの絵馬を掲げる風習もある。河童(かっぱ)もエンコウとよび、猿との関係は深い。
このように天界と地上を媒介する猿神の性質は、外部からの侵入を排除して村内を守る村落の神仏の信仰、特に庚申信仰、塞の神、地蔵信仰とも結びついた。中でも庚申信仰では庚申待の習俗が始まって以降、「申」がサルに通じることから、庚申塔に「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が掘られることが広く行われるようになった。
また『絵本太閤記』によれば、豊臣秀吉の母が男子を授かるよう日吉神に願ったところ、懐中に太陽が入る夢を見て秀吉を身ごもったとあり、秀吉がサルとあだ名されたことは近江の日吉信仰や猿神信仰に関係しているとの説もある[1]。
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★伝説紀行 潮見川のカッパ 佐賀県武雄市
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/
http://www5b.biglobe.ne.jp/ms-koga/311shiomigawa.html
作:古賀 勝 第311話 2007年08月26日版 再編:2019.08.31
僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。
カッパの誓文石
武雄市の潮見川一帯は、県下でも河童(かっぱ)の害の多い所として有名であったが、河童の頭領を捕らえて「石に花が咲くまで害を与えぬ」と誓約させたという。その「誓文石(せいもんせき)」が現存する。
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★座敷わらし
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
旧家に出没するとされた子供の妖怪(ようかい)。
岩手県の北上盆地を中心とする東北地方に伝承される。
座敷ぼっこ、蔵っこ、蔵ぼっこ、蔵わらしなどの異称もある。通常は5~10歳の幼童で、赤ら顔(白いとする地域もある)のおかっぱ頭。
その名のとおり蔵にいる場合もあるが、多くは深夜豪家の奥座敷に現れ、畳の縁(へり)や床柱を伝ってすたすたと歩き回り、寝ている人の枕(まくら)をいじったりする。胸にのられると、うなされることがある。
いたずらや祟(たた)り、そして化けることはせず、これがいるうちは家運は繁盛するが、出没しなくなると傾くという。
したがって、出没を家の誇りとしてたいせつに扱い、世間はこれを羨望(せんぼう)する。成り上がりの家にはけっして出没しない。
座敷わらしの由来は、水や泉と関係の深い河童(かっぱ)にあるとする伝承があり、天竜川流域山村のカワランベと同系の、農作さらに家の繁栄に因果関係をもたせたものとも考えられる。
旧家の没落に因縁づけて座敷わらしの消えたことを強調するのは、その神霊的性格に畏怖(いふ)を抱くためであろう。
このほかに、ホソテとかナガテと称して、家の土間の片隅から手だけが伸びてくるという、間引き(堕胎)した赤児と関連させる伝承もある。
昔話「竜宮童子」の、海底から黄金や宝物などの財または幸福をもたらす鼻たれ小僧は、福の神ヨゲナイと同じように祖霊を水神の小僧になぞらえたものか。
いずれにしろ、種々の伝承に現れる彼の性格を考えれば、家の神の零落した姿ともいえるであろう。[渡邊昭五]
『佐々木喜善著『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(1974・宝文館出版)』
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★日本の有名な妖怪を紹介! - 四季の美 2020/08/24
https://shikinobi.com/youkai
有名な妖怪や日本三大妖怪・三大悪妖怪を一覧でまとめてご紹介しています。
アニメ「妖怪ウォッチ」が子供たちの間で大ブームとなっています。
その一世代前には水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」など、妖怪はアニメや漫画に登場するキャラクターとしても取り上げられてきました。
日本人と妖怪は遥か昔から現在に至るまで深い関わりを持っており、日本人の精神性や自然観にも影響を与えています。
そこで今回は、日本に伝わる有名な妖怪についてご紹介したいと思います。
【目次】
1.妖怪とは
2.日本の有名な妖怪
2-1.日本三大妖怪
2-2.日本三大悪妖怪
2-3.その他の主な妖怪
3.妖怪に関する文献
4.妖怪関係の博物館・ミュージアム
5.まとめ
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★妖怪リスト - トップページ.jp 水木しげるの妖怪ワールド 妖怪大全集
http://www.top-page.jp/site/page/mizuki/complete_works/list/
かわいい妖怪、ちょっと怖い妖怪、誰かに似ている妖怪などなど個性豊かな妖怪たちをリストアップ。
[あ行]. ICON画像, □青女房(あおにょうぼう) 最終更新日2002 ...
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★画像付き妖怪大図鑑(58体収録) 更新日: 2017年10月16日
https://matome.naver.jp/odai/2142534806941890301
ありそうでなさそうな、妖怪大辞典。
物足りなかったり、画像がなかったりと、
満足のいくものが見つからないので、まとめていきます。
五十音順。
★●妖怪(ようかい) https://ja.wikipedia.org/wiki/妖怪
妖怪(ようかい)は、日本で伝承される民間信仰において、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、あるいはそれらを起こす、不可思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のこと。 妖(あやかし)または物の怪(もののけ)、魔物(まもの)とも呼ばれる。
妖怪は日本古来のアニミズムや八百万の神の思想と人間の日常生活や自然界の摂理にも深く根ざしており、その思想が森羅万象に神の存在を見出す一方で、否定的に把握された存在や現象は妖怪になりうるという表裏一体の関係がなされてきた。
★
★河童 https://ja.wikipedia.org/wiki/河童
河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)とも言う。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なるが、芥川龍之介の1927年の小説『河童 どうか Kappa と発音して下さい。』によって知名度が上がり、代表的な呼び名となった。類縁にセコなどがいる。水神、またはその依り代、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の妖怪の中で最も有名なものの一つとされる。具体例としては各地に残る河童神社、河童塚(鯨塚、道具塚と同じ)がある。
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★河童(読み)かっぱ
妖怪
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
水陸両棲(りょうせい)の妖怪(ようかい)。空想上の生物。身長は4、5歳の子供ぐらいで、とがった嘴(くちばし)をもつ。背は甲らで、それ以外のところは鱗(うろこ)で覆われている。手足には水かきがあり、腕は左右が通り抜けていて(体内で両腕がつながっていて)伸縮が自在。頭の上には水をたたえるための皿があって、これが河童の力の源泉で、水がなくなると同時に力も急速に衰える。陸上でも力は強いが、水中にあるときは、人はもちろんのこと牛馬でさえ引っ張り込んで、肛門(こうもん)に手を入れ、尻(しり)玉を抜いたり生き血を吸ったりする。キュウリそして相撲(すもう)を好み、よく人間に挑む。嫌いなものは金物。南九州では、春秋にヒョウヒョウと鳴きながら移動すると伝えられる。
河童は全国的な伝承をもち、カワコ、カワランベ、ガメ、エンコウ、カワシソウ、ミズシ、メドチ、水虎(すいこ)など種々の異名をもつ。亀(かめ)や獺(かわうそ)の姿を想像している地方もある。いずれにしろ、種々多くの妖怪のなかでもっともなじみ深いもので、僻地(へきち)ではいまだにこれの存在を信じている人がいる。つまり、河童の素性は水の神であり、春秋に田の神と交替して穀物の実りを約束するという。また、小(ちい)さ子神なる水神の零落の姿ともいわれ、これは母子神信仰に基づくものとされる。河童がキュウリを好むのは、水神である祇園(ぎおん)信仰に結び付いたためで、キュウリを供えた水神の祭場に出没すると考えられたからである。河童の活動もまた6月から7月にかける祇園祭のころがもっとも活発であるという。河童が椀(わん)・箸(はし)を人に貸し与えるという椀貸し伝説も、この時期のものが多い。昔話(河童婿入り)の世界では、「蛇婿入り」の水乞(みずごい)型と同じ展開の異類婚姻譚(たん)が全国各地でみられる。3人娘のうち末娘を嫁にもらうかわりに、田へ水を引いてやるというたぐいのもので、ここでも水神としての性格を色濃く現している。
河童石の伝説も全国的な広がりを示す。その石は河童が山と川を往復するときの中継点であるとか、人間に助けられたお礼に魚を置いたもの、または、水に関する病に苦しむ者が河童にキュウリを供えたら全快した、そのため石の上に供物をするようになった、など伝承もさまざまである。大分県臼杵(うすき)市野津町の河童石は川の中にある大岩。作男がそこで牛や馬を洗っていると、流れの中から河童の手が伸びて尻尾(しっぽ)などを引っ張ったと伝えられる。このように河童が馬を水中に引き入れようとする「河童駒(こま)引き」の伝承は全国にみられるが、そのほとんどが失敗譚である。逆に、馬に引きずり出されて捕らえられ、危ういところで一命を助けられる。そのお礼にと、魚を届けたり接骨薬や血止め薬の秘伝を伝授したりする。河童の詫(わび)証文や、お礼に借りた椀や膳(ぜん)、または秘伝の薬を家宝として保管している家もある。
河童駒引譚については、駿馬(しゅんめ)が水中から出現するという俗信や、牝馬(ひんば)が水神もしくは竜神の胤(たね)を宿すという考え、そして馬を水神に捧(ささ)げた儀礼の名残(なごり)であると柳田国男(やなぎたくにお)や石田英一郎らによって考察されている。
なお、駒引きは、河童に限らず猿の場合も多く、猿駒引きの絵馬を掲げる習慣も広く各地にみられる。厩(うまや)の守護神であると信じられた猿は、形態的に河童の空想図に近い。両者は兄弟であると信じている地方もあるし、反対に仇敵(きゅうてき)どうしとみる地域もある。いずれにしろ、中国・四国地方では河童をエンコウ(猿猴)とよぶという例もあり、両者の間には密接な伝承上の関係があったことは容易に推測できよう。
前述したように河童は相撲好きで、人間に化けて挑戦してくる。したがって、見ず知らずの人と相撲をとってはならぬとする戒めが九州地方には多い。河童と相撲をとると、第三者にはその姿がまったく見えず、大の男のひとり相撲としか映らぬという。河童は負けると何度でもかかってきて、挑戦されたほうはくたくたに疲れて、しまいには半病人になったり精神に異常をきたす者もあったという。
相撲は、農事に関係した豊凶占いという儀礼であった。そして、この儀礼がおもに七夕(たなばた)に行われてきたことと、同じ日に水辺で禊(みそぎ)を行い物忌みをした伝承や、水神の河童を鎮めたことを考え合わせると、河童と相撲の取り合わせは当然の帰結であったのかもしれない。
河童は江戸随筆にも多く登場するなど、さまざまの文献に現れる。昔話では巧智者(こうちしゃ)譚の『河童釣り』『河童火やろう』が昔から親しまれている。[渡邊昭五]
『「河童の話」(『折口信夫全集3』所収・1955・中央公論社) ▽「妖怪談義」(『定本柳田国男集4』所収・1963・筑摩書房) ▽「山島民譚集」(『定本柳田国男集27』所収・1964・筑摩書房) ▽石田英一郎著『新版河童駒引考』(1966・東京大学出版会)』
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★芥川龍之介 河童 - 青空文庫 どうか Kappa と発音して下さい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html
これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。彼は唯ぢつと両膝をかかへ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶりはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚いた」と言ふ時には急に顔をのけ反らせたりした。……
僕はかう云ふ彼の話を可なり正確に写したつもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若い第二十三号はまづ丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであらう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであらう。最後に、――僕はこの話を終つた時の彼の顔色を覚えてゐる。彼は最後に身を起すが早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰にでもかう怒鳴りつけるであらう。――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け! この悪党めが!」
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★河童駒引考(読み)かっぱこまひきこう
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
民族学者、石田英一郎の著。1948年(昭和23)1月筑摩(ちくま)書房刊。副題「比較民族学的研究」。馬と水神、牛と水神、猿と水神の3章からなる。柳田国男(やなぎたくにお)の『山島民譚(さんとうみんたん)集』の後を受けて、水神と馬、牛、猿などとの関係を比較民族学的に検討し、その文化史的再構成を図ったものである。すなわち、古代農耕社会においては牛が水神や豊饒(ほうじょう)儀礼と深く関係していたが、のちに馬がそれにとってかわった。また馬は猿との関係も深く、日本では水神が零落し妖怪(ようかい)化した結果、馬を水中に引込もうとする河童駒引の伝説が語られるようになったとする。[倉石忠彦]
『石田英一郎著『新版河童駒引考』(1966・東京大学出版会)』
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★怪獣(かいじゅう)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
奇怪な、あるいは不思議な形体や生態の獣。学術的なことばではないが、だいたい次の四つに分けられる。(1)恐竜を中心とする太古の動物。(2)空想上の動物。(3)実在するといわれる謎(なぞ)の動物。(4)SFや映画に登場する動物。[梶 龍雄]
恐竜を中心とする太古の動物目次を見る
中生代に栄えた爬虫(はちゅう)類の恐竜は、現代の哺乳(ほにゅう)類の動物とはかなり相違した巨大さと不思議な形をもっていた。またその生存が確かめられるのは化石としてだけであったから、その実存が人を不思議がらせたため、怪獣とよばれるようになった。新生代に入ってからの絶滅した動物、ステゴドンゾウ、メリテリウム、マンモスゾウなども含めて、いまでもこれらの動物を怪獣とよぶことも多い。[梶 龍雄]
・空想上の動物
ギリシア・ローマ神話、聖書、伝説口碑などでつくられた怪獣と、実際の動物の瞥見(べっけん)や伝聞に空想を加えてつくりあげられた怪獣とに分けられる。ギリシア神話のケンタウロスは上半身が人間、下半身がウマであるし、ゴルゴンは人間の女の姿をしながら、鳥の翼と爪(つめ)をもち、髪は何百匹というヘビ、グリフォンは鷲(わし)と獅子(しし)の入り交じった怪獣である。形体やまつわる伝説に多少の相違はあるが、世界中に広く流布されているものに竜(ドラゴン)がある。中国、日本にも怪獣は多く、鵺(ぬえ)は首はサル、体はトラ、尾はヘビであるが、羽をもつ鳥で、赤子のような声で鳴くといい、河童(かっぱ)もまた怪獣の仲間に入れていいだろう。しかしこれらの怪獣のなかにも一部現実の動物をよりどころにしているものもある。たとえばケンタウロスはウマを知らない民族が乗馬の人間を見たことから、鵺はトラツグミの鳴き声を聞いたことからだというようなこともいわれている。人魚(マーメイド)やノルウェーの海に住む巨大生物クランケンは、この実在の動物から考えられた空想の怪獣という疑いも濃い。人魚は海牛のジュゴンやマナティーから、クランケンは大イカの連想にさまざまの空想脚色が付加されたとも想像できる。[梶 龍雄]
・実在するといわれる謎の動物
交通機関も未発達で、写真なども存在しなかった往時は、遠国に生息する動物に対する知識は、目撃者の不完全な記憶だったり、また潤色の強い話だったりしたために、多くは怪獣として受け取られていた。サイがカメの甲らを背負っていたり、キリンは単に首の長いウマだったりしたし、20世紀に入っても、パンダなどは猛獣とされて凶悪な様相の顔が描かれ、猛獣狩り隊が派遣されたりした。だが動物の調査と研究が急速に発展した現代では、もはや哺乳動物の新種発見などはないだろうといわれている。しかし、そのなかにあって、いまだに未発見だといわれている謎の動物の怪獣もいる。1951年イギリスの探検隊に足跡を発見されたころから急速に話題になったヒマラヤの雪男(イェティ)は、同類がカナダの森林地帯にサスカッチと名づけられて存在するともいう。日本でも広島県比婆(ひば)郡の山中にいるという噂(うわさ)もあり、ヒバゴンと名づけられている。ネッシーはスコットランドのネス湖に住む恐竜ともいわれる巨大怪獣で、1934年写真にそれらしい像が収められたとの噂から、急速に世界中の話題になった。なお、これらの謎の動物はUMA(ユーマ)(Unidentified Mysterious Animal=未確認動物)ともよばれている。[梶 龍雄]
・SFや映画の怪獣
SFや児童向けの娯楽物、とくに映画のなかでつくられた、まったくの空想の怪獣であるが、現今は怪獣というと、これだけをさしていうこともある。SFでは地球外の宇宙生物としてベムという総称が用いられ、イギリスの作家H・G・ウェルズが『宇宙戦争』The war of the worlds(1898)で火星人をつくって以来、さまざまの宇宙怪獣がつくられてきた。映画では巨大なゴリラが主人公のアメリカ映画『キング・コング』が怪獣映画の始まりであるが、今日の日本の怪獣ブームをよんだのは、円谷英二(つぶらやえいじ)の特殊効果撮影を使った『ゴジラ』(1954)で、以後、円谷プロは『ウルトラマン』をはじめとするウルトラシリーズなどで、主として、人間が縫いぐるみに入って演技する怪獣、ガラモン、ゴモラ、ゴルゴスなど、数多くの怪獣をつくりあげ、子供たちの人気ものにした。また「ゴジラ」と人気を二分する巨大蛾(が)の怪獣「モスラ」や、カメをモデルにつくられた怪獣「ガメラ」のシリーズなどが相次いで製作され、怪獣映画の黄金時代が築かれた。1970年代後半以降怪獣映画は衰退したが、84年にゴジラ生誕30周年を記念した『ゴジラ』が製作されたのをきっかけに復活の兆しがみえはじめ、90年代以降は「ゴジラ」「モスラ」「ガメラ」をはじめとする怪獣の映画がコンスタントにつくられている。海外では、コンピュータ・グラフィクスを駆使したスティーブン・スピルバーグの恐竜映画『ジュラシック・パーク』(1993)や、『ゴジラ』をリメイクしたSFXモンスター・ムービー『GODZILLA』(1998)がハリウッドで製作され話題をよんだ。[梶 龍雄]
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★芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介
芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日)は、日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人()、俳号は我鬼。
その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。
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★家の神(いえのかみ) 家の神
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
一家を守護すると信じられてきた神。主として竈神(かまどがみ)、屋敷神、厠(かわや)の神や納戸(なんど)神など。一般的に多いのが竈神で、西日本では荒神(こうじん)ともよぶ。土間の竈には火に対する畏怖(いふ)と慎みから、これを家の神とする観念が発達した。イエ(ヘ)の「ヘ」は、ヘッツイ、ヘヤの「ヘ」と同義とする説もある。竈の上や柱にカマヲトコ(面)や、神符、幣束(へいそく)を置く地方もあるし、嫁入りのとき最初に竈に拝礼する地方(沖縄)、祖霊神として死者が出ると灰を全部取り替える地方などもある。東北地方では「竈をおこす」とは一家をたてるの意で、分家に火と灰を分ける。陰陽師(おんみょうじ)によって土公神(どくじん)ともよばれる。水田耕作の田の神(春秋に山の神と交替)・水の神や歳神(としがみ)も家の神としての荒神に結び付いているし、氏神、産土(うぶすな)神、地神、作神、ミサキなども習合している。火の所在場所としてのいろりも同じで、煙の天窓を通して大歳(おおとし)の神が訪れる考え方があり、自在鉤(じざいかぎ)のことをカギツケサマ、オカンサマといい、家の神がこもるところとする信仰もある。
庭の隅の石祠(いしほこら)や洞穴に置かれた屋敷神も同族や屋敷を守護する神で、春秋の山の神と田の神の交替期に呼応して祀(まつ)る。これが発展して氏神、産土神になる例もある。納戸も、西日本では家の歳神、田の神、作神を祀る。厠の隅に男女一対の土人形を飾ったり(仙台)、オヘヤ神(栃木)としている地方もある。東北地方では接客の出居(でい)を、家の神の間として神棚を祀る。また、屋内にいる妖怪(ようかい)の一種と信じられてきた座敷童子(ざしきわらし)も、家を繁栄させる守護霊として、岩手、秋田地方では河童(かっぱ)と混同されたりしている。春秋交替の山の神が、田に出て水の神となる姿と混同したものと考えられる。いずれにしても、家の神の形態は、種々の伝承が複雑多岐に絡み合いながら変遷してきて、一つの概念には定められない。[渡邊昭五]
[参照項目] | かまどの神
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★屋敷神(やしきがみ) https://ja.wikipedia.org/wiki/屋敷神
屋敷に付属している土地に祀られている神・神社のことである。
・概要と沿革
屋敷神は屋敷およびその土地を守護する神で、屋敷の裏や敷地に付属した土地もしくはやや離れた山林などに祀られることが多い。その呼ばれ方は地域によって様々である。家との関わりが深い神であるが、神棚などの屋内神とは異なり、原則として屋敷の中には祀られない。屋敷神を祀る信仰は、浄土真宗の地域を除いて全国に分布している。
屋敷神の起源は明確なことは分かっていない。しかし、後述するように、神格としては農耕神・祖先神と同一の起源を持つ神だと言われている。特に祖先神との深い繋がりが指摘されている。
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★かまどの神(読み)かまどのかみ
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
かまどは食物調理の火を焚(た)く場所であるから、いわば家屋の心臓部に相当し、古くからこれについての信仰は根強い。関東・東北ではオカマサマとよぶことが多いが、近畿を中心に全国広く三宝荒神(さんぼうこうじん)の称があり、近畿以西ではドクウサマ、ロックウサンとよぶことが多い。三宝荒神は、修験者(しゅげんじゃ)や日蓮(にちれん)宗信徒の間では、三宝(仏・法・僧)を守護し、浄信者を助け、悪人を罰する神として、宝冠を頂き、三面六臂(さんめんろっぴ)で、忿怒(ふんぬ)または如来(にょらい)の相で表されている。この神が、清浄を愛し、不浄を強く排するところから、火の神の信仰に結び付けられ、「荒神さんを粗末にすると罰があたる」「かまどに乗ると荒神さんが怒る」などの俗信が広く及んでいる。ドクウサマは、陰陽道(おんみょうどう)で重んじられ土をつかさどるとされる土公神(どこうじん)からきたもので、かまどを汚すと土公神の祟(たた)りがあると信じられてきた。
これらに対し、オカマサマは、いかにも主婦と関連深い神で、子供を多くもち、とかく控え目で、神無月(かんなづき)の諸神の出雲(いずも)行きにもこの神だけは同行しないといわれ、所によっては夫の不在中のつつましやかな饗宴(きょうえん)も、この神になぞらえて「オカマノルスンギョウ」とよばれる。東北の一部では、かまどの神の神体との意味で、釜神(かまがみ)さまと称し、醜怪な感じの男の面を竈の上方に安置する例がある。農家の年中行事のなかには、田植のときに五目飯を供える風があったりして、かまどの神は本来は家の守護神、農耕の神でもあったとの観がある。かまどの神を祓(はら)い清めて祀(まつ)ることを竈(かまど)祭りといい、年末に神職が家々を訪れて祀った。[萩原龍夫]
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★池の主(読み)いけのぬし
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
池や淵(ふち)に住み着いて、人に禍福や危害、霊異を与えると信じられてきた伝説上の妖怪(ようかい)。自然伝説でもっとも多いのが、淵や池の底から機(はた)を織る音が聞こえるという機織淵(池、沼)、蛇池などの伝説。悲劇の終末を迎えた娘が竜女、蛇、弁財天などに化した型が多い。かつて、祭りに、清らかな乙女をして忌機屋(いみはたや)で機を織らせ来訪神に供えた信仰の、名残(なごり)の伝承であろう。機織りは昔話でも重要なモチーフである。竜女が雨乞(あまご)いに結び付いているのもある。多数の膳椀(ぜんわん)を必要時に貸してくれるという椀貸淵なども、貸す者は水界の霊異者の竜女、河童(かっぱ)が多い。修行者や比丘尼(びくに)の死を伴って、念仏を唱えると泡が出る念仏池の伝説や、池の主が妖怪でも前身は人間の横死した御霊(ごりょう)というのは、無縁の精霊を説明して祟(たた)りを鎮める御霊信仰によるものである。夜叉(やしゃ)池、尼ヶ池、姥(うば)ヶ池、桝洗(ますあらい)池、嫁ヶ淵、傾城(けいせい)淵など、いずれも種々の挿話が出入したり、池の主も多様に変わっているが、型は同じである。[渡邊昭五]
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★異類婚姻譚(読み)いるいこんいんたん
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
民俗学用語。異類求婚譚ともいう。人間が動物や精霊などの異類と婚姻する昔話の一つ。異類が男性の場合と女性の場合がある。男性の場合は,名を隠して女のもとに通う婿の本体がへびだったというへび婿入り型が代表であり,その他,笑話的なさる婿説話も知られている。女性の場合は,危機を救われたつるが美女となりその妻になる「つる女房」や,「はまぐり女房」のように動物が恩返しをする形式のものが多い (→動物報恩譚 ) 。その他,「柳の精物語」「羽衣伝説」などもこの類型である。
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★精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙 人と異類(動物や想像上の生物)との婚姻を説く昔話。蛇婿入り、河童婿入りなどのように異類が男性の場合と、鶴女房や蛤(はまぐり)女房などのように異類が女性の場合とがある。
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★ウマと人類
日本の河童駒引(かっぱこまひ)き伝説にみられるように、ウマは水の精霊とも所縁(しょえん)が深く、水界の霊物とウマとの間にできる「竜馬」の伝承なども生み出されている。
また河童(かっぱ)がウマを川や池に引き込むという伝説(駒引き伝説)も多く、馬引沢といって地名にもなっている。また「馬塚」という伝説も多く、戦(いくさ)に負けた武将の乗ったウマを埋めた塚という。
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★おかっぱ https://ja.wikipedia.org/wiki/おかっぱ
おかっぱ(御河童)は、主に女性の髪形の種類のひとつ。前髪を額に垂らし切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえた髪型のこと。呼称は他におかっぱあたま、かっぱなど。かつての欧米では少年や少女がよくしていた髪型で、日本では少女の髪型として主流だった。現在では大人の女性の髪型としても人気がある。英語ではボブまたはボブカット、マッシュルームカットという。
・歴史
名前は、文字通り河童に似ているということに由来する。日本では、古くは頭頂を剃り上げたうえで周りの長髪を残して垂れ流し、河童のようにした男性の髪型を「断髪」または「御河童頭」と呼んでいた。江戸時代になると、こうした断髪頭は刑罰を負った者や世俗を離れて出家した者の髪型となり、「おかっぱあたま」といえば少女の髪型を指すようになった(少年の場合は「稚児頭」〈ちごあたま〉と言った)。
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★馬壩人(読み)ばはじん(英語表記)Maba-ren
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
中国広東省韶関市馬 壩の石灰洞穴から発掘された化石人類の頭骨。更新世後期のものとされる。シナントロプスよりも頭蓋が高く,中国における旧人類の段階を代表するものと考えられている。
★世界大百科事典 第2版の解説
中国の旧人と見なされる人類。マパ人ともいう。1958年,広東省韶関の馬壩の石灰岩洞窟から発掘された。石器は発見されていないが,人骨に伴う化石の哺乳動物から洪積世後期に由来するものと見なされている。頭骨は頭頂骨と右眼窩上部を含む前頭骨,および頰骨,鼻骨の一部をもつ不完全なものであるが,発達した眼窩上隆起と幅の広い鼻骨と比較的厚い骨などの点から,呉汝康,彭如策は,この人類がヨーロッパのネアンデルタール人類に相当するものと見なしている。
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★小川芋錢(おがわうせん) (1868―1938)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
日本画家。幼名は太郎、のち茂吉(しげきち)。江戸に生まれる。父は牛久(うしく)藩士であったが、廃藩置県に際し稲敷(いなしき)郡牛久村(現茨城県牛久市)に帰農。少年時代東京に出て本多錦吉郎(きんきちろう)の彰技堂画塾で洋画を学ぶが、17歳のころ独学で学んだ日本画に転向する。1891年(明治24)『朝野新聞』に芋錢の号で漫画を掲載したのを皮切りに『平民新聞』『読売新聞』などに主として農村風景に題材をとった漫画を執筆。また雑誌『ホトトギス』に挿絵や表紙をかいた。
1915年(大正4)珊瑚会(さんごかい)が結成されるとその同人となり、南画風の作品を発表。17年には日本美術院同人に推された。1893年以後は牛久に住み、牛久沼の畔(ほとり)の風物に取材した独自の幻想的な南画をかく。とくに河童(かっぱ)を題材としたものが有名。代表作に『水虎(すいこ)とその眷族(けんぞく)』『若葉にむさるる木精(もくせい)』などがある。[星野 鈴]
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★鹿児島(県)
鹿児島にはなお、メン、幽霊、目一つ五郎、チョカメン、火グワンス、ガラッパ(河童(かっぱ))、入道、白馬の若侍、天狗(てんぐ)、サイロク、犬神など妖怪の跳梁(ちょうりょう)の信仰が最近まであった。
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★地神(読み)じがみ
デジタル大辞泉の解説
祖霊、農神ともされる神。屋敷内や辻(つじ)・田のそばに祭る。地主神(じぬしがみ)。じしん。
《「ぢじん」「ぢしん」とも》
1 地の神。国つ神。地祇(ちぎ)。⇔天神(てんじん)。
2 天照大神(あまてらすおおみかみ)以下、この国を治めた神々。
3⇒じがみ(地神)
・大辞林 第三版の解説
① 田畑のほとりや宅地内の一隅などに祀まつられる神。土地の神・屋敷の神とする所が多い。じぬしのかみ。じしん。じのかみ。
② 「土公神どくじん」に同じ。
① 「じがみ(地神)」に同じ。
② 「地天じてん」に同じ。
③ 「ちじん(地神)」に同じ。
・〔「じじん」とも〕
① 地の神。国つ神。地祇ちぎ。
② 「じがみ(地神)① 」に同じ。
③ その土地の神。
④ 「地天じてん」に同じ。
⑤ その遊郭内の太鼓持ち、遊芸人など。⇔江戸神。
※洒落本・鄽意気地(1802)二「ゑど神地神相手にして、客は余念もなき風情」
(「ちじん」「じじん」とも)
[1] 〘名〙
① (古くは「じじん」) 天つ神および天孫系の神々に対し、天孫降臨以前からこの国土に住み、その土地を守護する神。くにつかみ。
② 天照大神以下、この国土を治めた神々。皇統の祖神とする。→地神五代。
※源平盛衰記(14C前)三〇「伊勢太神宮と申すは〈略〉地神(ヂジン)最初御神也」
③ 屋敷神の一種で、西日本では、じがみ、中部日本から関東地方にかけては、じじん・じしん・じのかみと呼び、多く宅地内の一隅(多くは戌亥隅)あるいはこれに接続した小区画にまつられている。また、特定の旧家に限っている例や村落の神に昇格した例も珍しくない。稲荷であったり、開拓先祖をまつったりしている場合が多い。
④ 土地の神。
※史記抄(1477)七「げにも乾為父、坤為母ぢゃほどに、地神は母であらうぞ」
[2] 大地をつかさどる神と考えられている堅牢(けんろう)地神。
※今昔(1120頃か)一「大地六種に震動、地神七宝の瓶を以て其の中に蓮花を満て」
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世界大百科事典内の地神の言及
【地主神】より
ともに地主神を守護神としてまつった例である。また,民間では〈地神(じがみ)〉〈地主様(じぬしさま)〉と称して,屋敷神とか土地開拓の神,あるいは先祖の霊などをまつった例がしばしば見られる。土地神【大井 鋼悦】。
【土地神】より
人が死ぬと,魂はまず城隍廟,土地廟に赴くと信じられたから,遺族はすぐ廟へいって廟神を拝し,紙銭を焼いた。土地神への信仰は後漢末・六朝時代からすでに見られ,道教にも取り入れられた。唐・宋時代には全国に広まり,各地に土地廟が建立されるようになった。
【土府】より
陰陽道(おんみようどう)における地神。土公ともいう。
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★かっぱ
デジタル大辞泉の解説
[副]
1 突然発する激しい音を表す語。
「いただき給ふ鉢―と前に落ちにけり」〈伽・鉢かづき〉
2 急に倒れ伏したり、起き上がったりするさま。がばと。
「今はかうとおぼえける時、―と起き」〈平家・五〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
キュウリの俗称。河童(かっぱ)は想像上の動物で、かわわっぱが転じてかわっぱとなり、さらに転じてかっぱとなった。その河童はキュウリが大好物であるということから、キュウリをかっぱというようになった。主としてすし屋の用語で、キュウリを芯(しん)に入れて巻いたのり巻きずしをかっぱ巻きという。
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★嘉麻(市)(かま)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
福岡県中部にある市。2006年(平成18)、山田市と嘉穂(かほ)郡稲築町(いなつきまち)、碓井町(うすいまち)、嘉穂町が合併して成立。市名は古代以来の嘉麻郡の郡名による。南部は朝倉(あさくら)市との境にそびえる古処(こしょ)山、馬見(うまみ)山などに続く山地。上流部を嘉麻川ともいう遠賀川(おんががわ)が、南東端の朝倉郡東峰(とうほう)村境にある嘉麻峠に発し、市域中央を貫流。同川や支流山田川などの流域に平地が広がる。JR後藤寺(ごとうじ)線が北端部をかすめ、下鴨生(しもかもお)駅がある。国道211号が遠賀川沿いに縦走し、大隈町(おおくままち)地区で322号と交差する。
遠賀川の上流域は早くから開け、馬見の鎌田原(かまだばる)弥生墳墓群や漆生(うるしお)の沖出(おきで)古墳(4世紀末)は県指定史跡。『日本書紀』にみえる鎌屯倉(かまのみやけ)は市域に所在したとみられる。7世紀に碓井封(うすいのふう)が観世音(かんぜおん)寺(太宰府市)に施入されたのを皮切りに、市域には筥崎(はこざき)宮領益富(ますとみ)荘、宇佐弥勒(みろく)寺領漆生荘、岩崎(いわさき)荘、比叡山延暦寺領嘉麻荘などの荘園が成立。これら諸荘の年貢米搬送には遠賀川が利用された。中世、嘉麻郡の南境に位置する馬見・千手(せんず)などが、交通、戦略上の要地となり、南北朝期~戦国期には千手城に拠った千手氏、鷺山城(さぎやまじょう)の秋穂氏のほか、秋月氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏、毛利氏などが攻防を繰り返した。1579年(天正7)秋月氏が一帯を掌握、益富城を支城とした。古くは「おぐままち」といった益富城下の大隈町は秋月街道と日田街道が交差する要衝で、定期市(三斎市)が開かれ、宿場町としても発展する。しかし、1587年、豊臣秀吉の九州平定軍に攻略され、この時、秀吉が大隈町の町衆に与えたという陣羽織(国指定重要文化財)が残る。江戸時代は福岡藩領、秋月藩領などに所属。大隈宿は人馬の通行で賑わい、秋月街道に千手宿も設けられた。江戸後期には福岡藩は石炭仕組を実施し、嘉麻郡など4郡の石炭を遠賀川経由で福岡・博多市中に回漕させた。当地では、下臼井(しもうすい)村の舟場が石炭輸送の拠点として繁栄。明治中期頃から、上下の山田炭鉱、熊田(くまだ)炭鉱、平山(ひらやま)炭鉱、三井山野(みついやまの)炭鉱など、多くの炭鉱が稼動し、筑豊炭田南部の炭鉱町として発展、1895年(明治28)には筑豊鉄道の飯塚~臼井間が開通、1903年には飯塚~上山田間で旅客営業を開始(のちの国鉄上山田線)。しかし、昭和30年代以降、石炭合理化政策により炭鉱は相次いで閉山となる。人口は激減し、炭鉱町としての歴史は閉じられた。
現在の基幹産業は農業で、水田耕作、果樹・野菜栽培、キクなどの施設園芸や酪農も盛ん。また炭鉱閉山以降、縫製、印刷、食品など軽工業の工場を誘致、近年は自動車関連工場なども進出している。山野の若八幡神社(わかはちまんじんじゃ)で行われる「山野の楽(がく)」は、河童祭りともよばれ、県指定無形民俗文化財。例年10月には、1988年(昭和63)に廃線となった上山田線を利用したイベント(トロッコフェスタ)も開かれる。古処山、馬見山一帯は筑後川県立自然公園の指定域。面積135.11平方キロメートル、人口3万8743(2015)。[編集部]
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★上高地-名勝地
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
長野県西部,飛騨山脈南部の景勝地。古くは上河内,神河内 (神の庭の意) などと書かれた。焼岳の噴出物が梓川の谷を埋めてつくった標高約 1500mの小さな盆地で,穂高連峰,焼岳,六百山,霞沢岳などの高山に囲まれる。江戸時代までは松本藩御用林の作業員が入山した程度であったが,幕末から登山基地として注目され,明治 20年代にイギリスの宣教師 W.ウェストンによって内外に紹介された。島々渓谷から徳本 (とくごう) 峠を越える登山路に代り,1933年には梓川沿いに自動車道路が開通。大正池,明神池,シラカバ,ケショウヤナギ,カラマツの林,穂高連峰,噴煙をあげる焼岳などの眺めが美しい。春から秋には登山者のほか観光客も多く,梓川にかかる河童橋付近にはホテル,飲食店など観光施設が散在する。一帯は特別天然記念物,特別名勝に指定され,中部山岳国立公園に属する。
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★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
長野県の中西部、北アルプス観光の中心地。松本市(まつもとし)に属する。中部山岳国立公園に属し、特別保護地区、特別名勝、特別天然記念物などに指定され、優れた自然景観に特別の保護が加えられ、日本の代表的山岳観光地として知られる。[小林寛義]
・名勝地
上流からおもなものをあげると、明神岳(みょうじんだけ)直下に明神池がある。
上高地の中心河童(かっぱ)橋より徒歩約1時間の上流で、穂高神社の奥宮があり、
10月初旬に御船(おふね)神事がある。
この近くに上高地開発に尽くしたガイド上条嘉門次(かみじょうかもんじ)の
嘉門次小屋があるが、大部分改修し、当時の姿はわずかしかない。
河童橋は上高地の中心部で、
1920年(大正9)芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が北アルプスに登り、
そのときの経験で『河童』を発表したところから名づけられた。
当時は丸太橋で1935年(昭和10)に釣り橋になり、現在のは5代目である。
この両岸にはホテルや飲食店、上高地温泉などがあり、7月下旬の盛夏は雑踏する。
橋上からみる奥穂高の山容や梓川両岸のケショウヤナギ、シラカンバ、カラマツの
木々は上高地の代表的景観で、カラマツが紅葉する10月中旬橋からの焼岳の眺望は
すばらしい。
梓川の右岸にはウェストンを記念する碑があり、6月初旬にウェストン祭が行われる。
大正池は上高地盆地の入口にあたり、河童橋とともに上高地の代表的名勝地。
1915年焼岳の噴出物で梓川がせき止められてできた池で、当初は池中に枯れ木が
立ち、幻想的な池であったが、相次ぐ土砂の流入で川のように狭くなってしまった。
[小林寛義]
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★水神(読み)すいじん(英語表記)water gods
デジタル大辞泉の解説
水をつかさどる神。飲み水や田の水などを支配する神。水伯。
《「な」は「の」の意の格助詞》水をつかさどる神。すいじん。
「―に祈るかひなく涙川うきても人をよそに見るかな」〈後撰・恋一〉
百科事典マイペディアの解説
水の神。稲作と関係深く田の神と親近性を示し,春は川,秋は山に帰るとも,田の水口にいるともいう。女神や母子神,またヘビ,カエル,魚,河童(かっぱ),【みずち】(角のある竜),竜などの姿をとる。水神の祭は6月に多く,雨乞い,大水・疫病防止,豊作を祈る。特に天王祭(天王信仰)が有名。水分神(みくまりのかみ)は山頂で麓の水の分配をつかさどる。
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★河童天王祭り | 隠居のつぶやき - teacup.ブログ“AutoPage” 2011/06/07
https://green.ap.teacup.com/sizen/1175.html
この日は東海道五十三次の第一の宿場・品川で、「河童天王」祭りが行なわれていた日です。
河童天王は荏原神社の俗称で、古くは貴船明神と言い、鎌倉時代の宝永元年に京都の祇園社から牛頭天王を分霊したことにはじまる由緒ある神社です。
同じ品川に鎮座する品川神社も鎌倉時代からの古い社で、徳川家光が東海道の鎮守と定めました。
この二つの神社の祭礼を一括して「品川祭」または「品川天王祭」と呼び、またの名を「河童天王祭り」と言っていました。
品川神社を北の天王、荏原神社を南の天王または河童天王と呼び、それぞれの神社を出た神輿が品川橋の上で出会います。
この品川橋は旧東海道にあったもので、目黒川に架かっており、祭りで両社の神輿が出会うことから「行合橋」と呼ばれていました。
このお祭りが「河童天王祭り」の名で呼ばれるのは、荏原神社の神輿を海に担ぎ入れることと関係があります。神輿を海の中に完全に沈めないとその年は豊漁にならないという言い伝えがあります。
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★尻こぼし - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/尻こぼし
尻こぼし(しりこぼし)またはコボシは、三重県志摩郡和具町(のちの志摩町、現・志摩市)や布施田村(現・同)に伝わる海の妖怪。
河童の一種ともいわれる。
尻こぼしとは、「尻を破壊する、削り取る者」の意で、
「こぼす」(毀す、毀つと同)とは
「壊す、破壊する」「剃り取る、削り取る」を意味する古語であり方言である。
「こぼし」は、子法師の意味との説がある。
海にもぐる海女を襲い、河童のように人間の尻子玉を抜き取るといわれるもので、
これに襲われた死体は必ず尻の穴が開いているという。
海で人を脅かしてショック死させるともいう。
また鉄が嫌いであり、海中に鉄を落とすとこの妖怪の祟りに遭うという説もある。
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★ 石川県の昔話 1 かぶそ(かわうそ)【獺・川獺】中能登町 (3) 2011.09.09
https://plaza.rakuten.co.jp/zatokusen/diary/201109090001/
鳥山石燕 [画図百鬼夜行]より
「かぶそ」とはカワウソのことで、あのかわいいラッコの仲間。
昔は日本にもニホンカワウソがたくさんいたのですが、
現在では乱獲や開発で既に絶滅したと考えられています。
このカワウソを、
石川県能登地方では「かぶそ」「かわそ」と呼んで妖怪視していました。
夜道を歩く人の提灯の火を消していったり、
若い女に化けて男をたぶらかしたり、かなりいたずらをしたようです。
でも、残念ながら、もう会えないかもしれませんね。
「参考:能登の民話伝説 鳥屋町(現:中能登町)より」
[読みやすいように方言、表現をかなり改変してあります]
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★キュウリ 【胡瓜】
九州には、川祭りに河童(かっぱ)や水神に捧(ささ)げるキュウリを川に流すたとえもある。祇園信仰は水神信仰を基盤に展開しており、これらの伝承も瓜類と水神との宗教的結び付きを根底にして成り立っている。
水分が多い野菜のためか、昔から水神と縁が深い野菜とされてきました。水神が妖怪化したカッパの大好物だったという言い伝えもあり、「カッパ巻き」はそこから由来しているといわれています。
果肉が薄くて歯切れのよい白イボ種と、肉質に粘り気のある黒イボ種があります。現在は見栄えのよい白イボ種が主流になっています。旬(しゅん)は夏から秋で、わが国でのおもな生産地は群馬、埼玉、福島、宮崎、高知などです。
〈カリウムやピラジンが利尿効果、血圧降下作用をもたらす〉
○栄養成分としての働き
90%以上が水分なので、栄養的にはあまり期待できませんが、カリウム、カルシウム、ナトリウムを適度に含んでいるので、体に負担をかけることなく水分補給できます。
利尿作用があるので、むくみの解消、のぼせの改善に効果的。
カリウムは100g中200mgで多いほうです。体内でナトリウムを排出する働きをするので、血圧降下に役立ちます。
青臭さがありますが、これはピラジンという成分からきています。ピラジンは血がかたまるのを防ぐ成分で、脳梗塞(のうこうそく)や心筋梗塞(しんきんこうそく)の予防や治療に効果があります。
頭部に苦みのある成分がありますが、これはククルビタシンA、B、C、Dという物質です。
この4種のうち、ククルビタシンCには抗がん作用があるといわれています。
○漢方的な働き
体を冷やす作用があるので、夏の暑気払いに適しています。
日本には10世紀までに渡来し、黄瓜(きうり)(『新撰字鏡(しんせんじきょう)』)、加良宇利(からうり)(『本草和名(ほんぞうわみょう)』)、曽波宇里(そばうり)、木宇利(きうり)(『倭名類聚抄』)などとよばれた。しかし、重要野菜とはみなされなかったようで、水戸光圀(みとみつくに)は「毒多し、植えるべからず、食べるべからず」と説く(『桃源遺事』下)。イギリスでもキュウリの冷たさは死を暗示すると考えられ、食べると生命を落とすとの迷信が長く続いた。[湯浅浩史]
民俗
キュウリは日本各地で祇園(ぎおん)信仰と結び付いている。
山形県鶴岡(つるおか)市の八坂神社では、7月15日の祭日にキュウリ2本を供え、
うち1本を持って帰り食べる風習がある。類似の習俗はほかにも多く、キュウリを
祇園社の神饌(しんせん)とし、祭りの前後には食べなかったという土地もある。
神奈川県川崎市などには、
初なりのキュウリには蛇が入っているとして川に流す習慣があった。
祇園の神が川を流れてきた瓜(うり)に乗って出現したという伝えは多く、
瓜の中の蛇を祇園の神とする信仰があったらしい。
九州には、川祭りに河童(かっぱ)や水神に捧(ささ)げるキュウリを
川に流すたとえもある。
祇園信仰は水神信仰を基盤に展開しており、
これらの伝承も瓜類と水神との宗教的結び付きを根底にして成り立っている。
[小島瓔]
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★伝説 - ニッポニカ
https://japan-e-knowledge.jp/contents/kidsknowledge/cgi-bin/nipo/nipo_detail.cgi?id=0007227600&page=18&pFrom=&yokogusi=&refhtml=&hist=102192,102657,210022,102102,109403,107329,103432,210022,105112,104549,210037,100255,210030
伝説
熊本市横手(よこて)に五郎大明神という巨大な木像が祀(まつ)られている。
この祭神は「横手五郎」といって怪力の持ち主。
豪雄木山弾正(きやまだんじょう)の子で、父の仇(あだ)の加藤清正の命をねらい、
熊本築城のおり石運び人夫に加わって機をうかがったが、
見破られて城内の井戸で殺されたという。
「後藤又兵衛」は大坂落城で戦死したというが、脱出して九州落ちをし、
旧泉村の地(現八代市)で余生を送ったとされている。同地にその墓がある。
阿蘇市一の宮町には羽衣(はごろも)伝説がある。田鶴原(たづはら)神社は
天女を祀った社(やしろ)という。
阿蘇地方には雄大な国づくりの伝説を伝えている。
太古の阿蘇山の外輪山には野尻(のじり)湖という広大な火口湖があった。
健磐竜命(たけいわたつのみこと)は湖を干拓して耕地をつくろうと思い立ち、
外輪山の壁を蹴(け)破った。
そのときにできたのが「数鹿流(すがる)ヶ滝」であるといわれている。
曽我(そが)兄弟の死後、尼僧になった「虎御前(とらごぜん)」の足跡は諸国に
あるが、県下にも虎女(とらじょ)が建立したという塔が各地にある。
宇城(うき)市松橋(まつばせ)町の言い伝えによると、この地にきて病死したという。
その墓は同市古保山(こぼやま)にある。
悪七兵衛(あくしちびょうえ)とよばれた平景清(かげきよ)は、
平家滅亡のあと球磨(くま)の山奥に逃れた。
その父の後を追ってきた娘が、岡原(おかはる)村(あさぎり町)まで来た時
ゴマ畑で転び、ゴマがらで目を突いて盲目になった。
もはや道中もかなわぬと思い自害した。
この地方ではそれゆえゴマがらを村に持ち込まなくなったという。
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★荒神(こうじん)
精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙
① たけだけしく、霊験のあらたかな神。
※山家集(12C後)中「波につきて磯わにいますあらがみは潮ふむ宜禰(きね)を待つにやあるらん」
② 荒々しく人にわざわいを及ぼす神。
※孟津抄(1575)一七「能因歌枕 云人の中さへる神をばあらみさき又あらみけといふ荒神也」
③ 伊勢神宮の末社の「雨の宮風の宮」の別名。
④ かまどの神。
※諸国風俗問状答(19C前)三河国吉田領風俗問状答「さて大黒、蛭子、荒神〈竈の神の意〉には、大かたの家にて別に供ふ」
荒々しく乱暴する神。天皇の命令に従わない神。
※古事記(712)中「東の方十二道の荒夫琉神(あらブルかみ)、及(また)摩都楼波奴(まつろはぬ)人等を言向け和平(やは)せ」
※草根集(1473頃)四「いぐしさすしでにあらふる神やまずなごやかならぬ瀬々の川浪」
[1] (「三宝荒神(さんぼうこうじん)」の略) 仏・法・僧の三宝を守るという神。怒りをあらわし、三つの顔と六つの手をもつ。修験道や日蓮宗などで、とくに信仰される。荒神様。
※源平盛衰記(14C前)一「我(われ)財宝にうへたる事は、荒神(クハウシン)の所為にぞ」
[2] 〘名〙
① かまどを守る神。かまどの神。民間で「三宝荒神」と混同され、火を防ぐ神として、のちには農業全般の神として、かまどの上にたなを作ってまつられる。毎月の晦日に祭事が行なわれ、一月・五月・九月はその主な祭月である。たなには松の小枝と鶏の絵馬を供え、一二月一三日に絵馬をとりかえる。荒神様。〔日葡辞書(1603‐04)〕
※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「又壱人、『掛鯛(かけだい)を六月迄、荒神(クハウジン)前に置けるは』と尋ぬ」
② 近畿以西に濃厚な分布をもつ屋外の神。屋敷神、同族神、集落鎮守の場合があり、荒神講を組織して集落中で飲食する地方も多い。また転じて、かげにいて守ったり援助したりする人をもいう。荒神様。
※諸国風俗問状答(19C前)備後国福山領風俗問状答「荒神と申す小神祠、村々に有之」
③ (荒神はかまどの神であるところから、かまどを使う者として) 女房の異称。荒神様。
※二篇おどけむりもんどう(1818‐30頃か)「福神にあらずして寺に大黒とはいかに。内のかかを荒神といふがごとし」
④ 牛の守護神。牛荒神。
※浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)四「手なれし牛の、子をうみけるに、荒神(コウジン)の宮めぐりもすぎて」
⑤ ((一)の顔が三面であるところから) 中央のほか左、右にも乗れるようにつくった馬のくら。または、そのくらをのせた馬。
※雑俳・柳多留‐九一(1826)「荒神があれて三人どさら落」
⑥ 「こうじんびわ(荒神琵琶)」のこと。
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★猿神 https://ja.wikipedia.org/wiki/猿神
猿神(さるがみ)は、日吉神などの太陽神の使者とされるサルの化身、および中世の日本の説話に登場するサルの妖怪。
猿神信仰
比叡山延暦寺の僧の著書とされる神道理論書『耀天記(ようてんき)』によれば、漢字の発明者とされる古代中国の伝説上の人物・蒼頡が神の出現前に、釈迦が日本の日吉に神として現れ、サルの形を借りて吉凶を示すと知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明したことや、蒼頡は実は釈迦の前世であり、釈迦が日吉に祀られてまもなく、サルたちが日吉大社に集まったことが記述されている。この話は創作だが、仏教が日本に伝来するにあたり、それ以前から日本で信仰されていた日吉神など日本古来の神の信仰を繋ぎ合わせるものとして興味深いものと見る向きもあり、サルが日吉神の使者とされた由来の一つと考えられている。
信仰と結び付いて三猿の石像として祀っている地方も多い。あるいは、厩(うまや)の守護神として猿駒(さるこま)引きの絵馬を掲げる風習もある。河童(かっぱ)もエンコウとよび、猿との関係は深い。
このように天界と地上を媒介する猿神の性質は、外部からの侵入を排除して村内を守る村落の神仏の信仰、特に庚申信仰、塞の神、地蔵信仰とも結びついた。中でも庚申信仰では庚申待の習俗が始まって以降、「申」がサルに通じることから、庚申塔に「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が掘られることが広く行われるようになった。
また『絵本太閤記』によれば、豊臣秀吉の母が男子を授かるよう日吉神に願ったところ、懐中に太陽が入る夢を見て秀吉を身ごもったとあり、秀吉がサルとあだ名されたことは近江の日吉信仰や猿神信仰に関係しているとの説もある[1]。
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★伝説紀行 潮見川のカッパ 佐賀県武雄市
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/
http://www5b.biglobe.ne.jp/ms-koga/311shiomigawa.html
作:古賀 勝 第311話 2007年08月26日版 再編:2019.08.31
僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。
カッパの誓文石
武雄市の潮見川一帯は、県下でも河童(かっぱ)の害の多い所として有名であったが、河童の頭領を捕らえて「石に花が咲くまで害を与えぬ」と誓約させたという。その「誓文石(せいもんせき)」が現存する。
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★座敷わらし
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
旧家に出没するとされた子供の妖怪(ようかい)。
岩手県の北上盆地を中心とする東北地方に伝承される。
座敷ぼっこ、蔵っこ、蔵ぼっこ、蔵わらしなどの異称もある。通常は5~10歳の幼童で、赤ら顔(白いとする地域もある)のおかっぱ頭。
その名のとおり蔵にいる場合もあるが、多くは深夜豪家の奥座敷に現れ、畳の縁(へり)や床柱を伝ってすたすたと歩き回り、寝ている人の枕(まくら)をいじったりする。胸にのられると、うなされることがある。
いたずらや祟(たた)り、そして化けることはせず、これがいるうちは家運は繁盛するが、出没しなくなると傾くという。
したがって、出没を家の誇りとしてたいせつに扱い、世間はこれを羨望(せんぼう)する。成り上がりの家にはけっして出没しない。
座敷わらしの由来は、水や泉と関係の深い河童(かっぱ)にあるとする伝承があり、天竜川流域山村のカワランベと同系の、農作さらに家の繁栄に因果関係をもたせたものとも考えられる。
旧家の没落に因縁づけて座敷わらしの消えたことを強調するのは、その神霊的性格に畏怖(いふ)を抱くためであろう。
このほかに、ホソテとかナガテと称して、家の土間の片隅から手だけが伸びてくるという、間引き(堕胎)した赤児と関連させる伝承もある。
昔話「竜宮童子」の、海底から黄金や宝物などの財または幸福をもたらす鼻たれ小僧は、福の神ヨゲナイと同じように祖霊を水神の小僧になぞらえたものか。
いずれにしろ、種々の伝承に現れる彼の性格を考えれば、家の神の零落した姿ともいえるであろう。[渡邊昭五]
『佐々木喜善著『遠野のザシキワラシとオシラサマ』(1974・宝文館出版)』
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★日本の有名な妖怪を紹介! - 四季の美 2020/08/24
https://shikinobi.com/youkai
有名な妖怪や日本三大妖怪・三大悪妖怪を一覧でまとめてご紹介しています。
アニメ「妖怪ウォッチ」が子供たちの間で大ブームとなっています。
その一世代前には水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」など、妖怪はアニメや漫画に登場するキャラクターとしても取り上げられてきました。
日本人と妖怪は遥か昔から現在に至るまで深い関わりを持っており、日本人の精神性や自然観にも影響を与えています。
そこで今回は、日本に伝わる有名な妖怪についてご紹介したいと思います。
【目次】
1.妖怪とは
2.日本の有名な妖怪
2-1.日本三大妖怪
2-2.日本三大悪妖怪
2-3.その他の主な妖怪
3.妖怪に関する文献
4.妖怪関係の博物館・ミュージアム
5.まとめ
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★妖怪リスト - トップページ.jp 水木しげるの妖怪ワールド 妖怪大全集
http://www.top-page.jp/site/page/mizuki/complete_works/list/
かわいい妖怪、ちょっと怖い妖怪、誰かに似ている妖怪などなど個性豊かな妖怪たちをリストアップ。
[あ行]. ICON画像, □青女房(あおにょうぼう) 最終更新日2002 ...
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★画像付き妖怪大図鑑(58体収録) 更新日: 2017年10月16日
https://matome.naver.jp/odai/2142534806941890301
ありそうでなさそうな、妖怪大辞典。
物足りなかったり、画像がなかったりと、
満足のいくものが見つからないので、まとめていきます。
五十音順。
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