●●橘●タチバナ
★タチバナ(橘、学名:Citrus tachibana)
https://ja.wikipedia.org/wiki/タチバナ
ミカン科ミカン属の常緑小高木。別名はヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ、ダディ。
・家紋 https://ja.wikipedia.org/wiki/タチバナ#家紋
橘紋(たちばなもん)は、タチバナの実と葉を図案化した家紋である。文様としては平安時代末期ごろに現れ、江戸時代には90家余りの旗本が用い、蔦紋や桐紋などとともに十大紋の一つに挙げられている。元明天皇が、葛城王に橘姓を下賜したことにちなみ橘系の氏族が家紋として用いた。『見聞諸家紋』に記された、薬師寺氏(丸に三つ立ち橘)、小寺氏(藤巴に三つ橘)が文献上の初見である。
★
★橘諸兄(たちばなのもろえ) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘諸兄
敏達(びだつ)天皇の玄孫美努(みぬ)王の子。
★
★橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/橘奈良麻呂
橘諸兄(もろえ)の長男。
★
★県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ)
(県犬養橘三千代から転送)(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/県犬養橘三千代
古代屈指の有力女官。父は東人(あずまひと)。橘三千代ともいう。
★
★弟橘媛(おとたちばなひめ)https://ja.wikipedia.org/wiki/弟橘媛
日本武尊(やまとたけるのみこと)(倭建命)の妃。
『日本書紀』は弟橘媛とするが、『古事記』では弟橘比売命とする。
★
★唐衣橘洲(からころもきっしゅう、旧仮名遣い:からころもきつしう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/唐衣橘洲
江戸時代後期の狂歌師。大田南畝、朱楽菅江と共に天明狂歌の社会現象をおこし、狂歌三大家といわれた。本名は小島源之助、名は恭従(のち謙之)、字は温之、別号は酔竹園。
★
★橘曙覧(たちばなあけみ)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘曙覧
江戸後期の歌人。
越前(えちぜん)国福井の名門。
越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で、父親は、正玄(正源とも表記)五郎右衛門
幕末期の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。
★
★橘氏(たちばなうじ) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘氏
源平藤橘(げんぺいとうきつ)と総称される四大姓の一つ。
日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は宿禰、のち朝臣。
飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖として興った皇別氏族。
★
★橘逸勢(たちばなのはやなり)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘逸勢
平安初期の貴族・書家。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。奈良朝に権勢を誇った橘諸兄(もろえ)の曽孫(そうそん)。
★
★橘旭翁(たちばなきょくおう) (初代)
https://kotobank.jp/word/橘旭翁(初代)-1089410
筑前(ちくぜん)琵琶(びわ)の演奏家。
★
★橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘孝三郎
日本の政治運動家、農本主義思想家。農本ファシストであり、超国家主義者でもあった。
32年の五・一五事件には塾生を農民決死隊として組織する。
★
★橘嘉智子(たちばなのかちこ)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘嘉智子
日本の第52代天皇・嵯峨(さが)天皇の皇后。内舎人(うどねり)橘清友(きよとも)(贈太政(だいじょう)大臣正一位)の女(むすめ)。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。檀林寺を創建し、檀林皇后(だんりんこうごう)と称された。
★
★橘三喜(たちばなみつよし) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘三喜
江戸前期の神道(しんとう)家。橘神道の唱導者。為証庵と号した。延宝3年(1675年)から23年かけて全国の一宮を参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著している。
★
★き‐がわ〔‐がは〕【黄皮/橘皮】
橘(たちばな)などの実の皮。刻んで香辛料として料理に用いる。〈和名抄〉
★
★きつ【橘】
[人名用漢字] [音]キツ(漢) [訓]たちばな
1 木の名。タチバナ。「橘中/柑橘類」
2 橘(たちばな)氏のこと。「源平藤橘」
[難読]枸橘(からたち)
★
★きっちゅう‐の‐たのしみ【橘中の楽しみ】
《中国の巴(はきょう)で、橘(たちばな)の実を割ってみると、その中で二人の仙人が向かいあって碁を楽しんでいたという「幽怪録」の故事から》将棋や囲碁をする楽しみ。
★
★橘家神道(きっけしんとう) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘家神道
江戸時代に普及した神道の一派。
江戸時代に玉木正英によって提唱された神道説。
橘氏伝来の神道を説くとされる。
★
★橘(たちばな)(橘型駆逐艦)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘_(橘型駆逐艦)
日本海軍の駆逐艦。仮称5511号艦、橘型(改松型)駆逐艦の1番艦として横須賀海軍工廠で建造された。
艦名は植物のタチバナによる。食用柑橘類の総称でもある。艦名としては桜型駆逐艦2番艦に続いて2代目。
★
★福井市橘曙覧(たちばなあけみ)記念文学館 ホームページ
http://www.fukui-rekimachi.jp/tachibana/
幕末期の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。
★
★橘 曙覧(たちばなのあけみ)
●幕末の歌人で国学者「万葉集や源実朝依頼の歌人」正岡子規が讃める。
橘曙覧の長男、今滋に『橘曙覧小伝』がある。
また彼は父の残した歌を編集し、1878年(明治11年)『橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集』(しのぶのやかしゅう)を編纂した。
正岡子規はこれに注目して明治32年、「日本」紙上に発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げている。
以後、子規およびアララギの影響下にある和歌史観において重要な存在となる。
彼の歌を編纂したもので『独楽吟』がある。
「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものである。
1994年、今上天皇、皇后がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌のひとつを引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになった。
2000年4月、福井県福井市の愛宕坂の旧居「黄金舎」跡に顕彰施設である橘曙覧記念文学館が開館した。
★
★
★橘寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/橘寺
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏 頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁 天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えた ことに由来する。新西国三十三箇所第10番札所。
★
★右近橘 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/右近橘
右近橘(うこんのたちばな)は、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右に あった橘の樹。左近桜に相対した。 『天暦御記』によれば、もとは秦河勝の宅にあったの を、内裏建造の際に紫宸殿があたかも宅の故地に相当するから、旧によってこれを植えたもので、天徳年間(957年-961年)まであったという。
『日本紀略』によれば、天徳3年(959年)12月7日あらたに橘樹1本、高さ1丈2尺を植え替え、これは東三条殿の樹で、勅命によった。のちに、皇居の炎上その他でしばしば植え替えが行なわれたが、里内裏の際にもまたこれを植え替える例となった。橘を植えるのは、秦河勝宅地の縁だけではなくて、橘が古くから「トキジクノカクノコノミ」といわれ、その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるから、長寿瑞祥の樹として珍重されたからでもあるともいう。
★
★橘花 (航空機) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘花_(航空機)
橘花(きっか)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発していたジェット攻撃 機である。エンジン開発は主に空技廠が担当し、機体を中島飛行機が開発製造した。 ネ-12B装備型を「橘花」、ネ-20装備型を「橘花改」と正式には呼称する。
★
★橘家圓太郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/橘家圓太郎
橘家 圓太郎(たちばなや えんたろう)は江戸噺家の名跡。当代は8代目。初代のみ橘屋 。 6代目と7代目の間に5代目圓生の門で確認されているが立った活躍がなく二つ目 で終わっている為か代数として数えられていない。
★
★橘家圓蔵 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/橘家圓蔵
橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)は、落語家の名跡。当代は8代目。 かつての屋号は「 立花屋」であった。初代圓蔵が後に2代目三遊亭圓生を襲名したため、以後しばらくの間 「橘家」は三遊亭の分家的な家号になる。
★
★きものと悉皆みなぎ/家紋図鑑 【橘(たちばな)】
http://minagi.p-kit.com/page136115.html
家紋図鑑を掲載しているページです。
家紋図鑑
参考資料 講談社「家紋と家系辞典」他. かげたちばな. まるにたちばな. こくもちじぬきたちばな. きくざたちばな. 橘. 陰橘. 丸に橘. 石持ち地抜き橘. 菊座橘. 葉陰橘. 丸に三つ足橘. 丸に台付き橘.
★
★源平藤橘の話 家紋 拾い話
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_d.html
源平藤橘とは日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた言い方である。だが、 これらの氏族が併存して、たとえば政党が並び立つように同じ資格を有していた時代は見い出せない。
・藤原氏
四姓のうちもっとも古いのは藤原氏で、天智天皇を援けて蘇我入鹿を倒して大化の改新(乙巳の変)を実現した 中臣鎌足に始まる。はじめは鎌足以外の中臣一族も藤原姓を賜ったが、のちに鎌足の子不比等が台頭すると藤原姓は 不比等流だけに限定された。不比等の死後、子供たち武智麻呂・房前・宇合・麻呂ら藤原四兄弟は対立勢力を倒して 妹光明子を皇族以外では初めて皇后に立て、朝廷における藤原氏の立場を確立した。四兄弟は武智麻呂が南家、 房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家を起したが、のちに内部抗争もあって北家が藤原氏の主流となった。平安時代以来、 天皇家との関係を深め、対立勢力を陰謀で排斥し、公家社会の高位を占有し五摂家・清華家・大臣家などの 多くの流派に分かれた。藤原氏のうち、都での出世をあきらめて地方に下るものも少なくなく、南家流、あるいは 北家の流れを汲む利仁流・秀郷流など、武家の名門として地方に勢力を扶殖した。戦国時代にあらわれる伊達氏、 結城氏、上杉氏、竜造寺氏などの大名たちは、いずれも地方に下った藤原氏の流れを汲んだ諸氏であった。
★
★家紋を探る-源平藤橘から
http://www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/saguru5.html
源平藤橘の家紋から探る.
日本四大姓とされる源・平・藤原・橘の諸氏をみることで、苗字と家紋探しのヒント発見があるかも知れません。
■源氏系名字と家紋 清和源氏・村上源氏・宇多源氏・嵯峨源氏
源氏の家紋は「笹竜胆紋」であるといわれているが、源氏の流れは清和源氏・村上源氏・嵯峨源氏・宇多源氏など 十六もの流れがあり、当然家紋も「笹竜胆」だけではないのは当然のことだろう。
★
★源平藤橘を5分でおさらい!あなたの名字は何氏の流れ? - 家樹
https://ka-ju.co.jp/column/genpeitoukitsu 2020/03/22
歴史ある四大姓、「源平藤橘」とは
奈良時代から平安時代にかけて権威を振るった「源平藤橘」をご存知でしょうか。「げんぺいとうきつ」と読むのですが、人名ではなく源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた呼び名で「四大姓」とされています。
公家や武家では、現代わたしたちが名乗っているような名字とは別に、朝廷(天皇)から下賜された「氏」を持っていました。それがこの四大姓のような氏で、名字とは違って公式なため「本姓(ほんせい)」と呼ばれています。源氏・平氏・藤原氏は日本史のメインストリートを歩んだの対し、橘氏はちょっと少数派だったのかもしれません。そんな「源平藤橘」をご紹介しましょう。
★
★源平藤橘|歴史の話をしよう
http://naraku.or-hell.com/Entry/444/
姓と氏、名字(苗字)の違いを話し出すと長くなりますし、難しくなるのでさわりだけ。例えば、伊達氏は藤原氏(藤原姓)を称したんだけど、これってわかりにくいですよね。藤原商事の伊達支店ってところでしょうか(なおさらわかりにくい)
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の四姓(橘氏は早くに衰えた)が名流と意識されると、後世の人々の多くがみずからの出自をこれらに求めた。信長は最初藤原氏(藤原姓)を称したが、のちに平氏(平姓)に改めている。家康も源氏(源姓)を称したが、実際のところはあやしい。
平氏というと、平将門や清盛を輩出した桓武天皇の子孫、桓武平氏が有名だが、ほかにも任明天皇や光孝天皇の子孫にも「平」の姓を賜った者がいる。「平」の由来は桓武天皇が築いた「平安京」に由来するという説がある。
★タチバナ(橘、学名:Citrus tachibana)
https://ja.wikipedia.org/wiki/タチバナ
ミカン科ミカン属の常緑小高木。別名はヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ、ダディ。
・家紋 https://ja.wikipedia.org/wiki/タチバナ#家紋
橘紋(たちばなもん)は、タチバナの実と葉を図案化した家紋である。文様としては平安時代末期ごろに現れ、江戸時代には90家余りの旗本が用い、蔦紋や桐紋などとともに十大紋の一つに挙げられている。元明天皇が、葛城王に橘姓を下賜したことにちなみ橘系の氏族が家紋として用いた。『見聞諸家紋』に記された、薬師寺氏(丸に三つ立ち橘)、小寺氏(藤巴に三つ橘)が文献上の初見である。
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★橘諸兄(たちばなのもろえ) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘諸兄
敏達(びだつ)天皇の玄孫美努(みぬ)王の子。
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★橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/橘奈良麻呂
橘諸兄(もろえ)の長男。
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★県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ)
(県犬養橘三千代から転送)(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/県犬養橘三千代
古代屈指の有力女官。父は東人(あずまひと)。橘三千代ともいう。
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★弟橘媛(おとたちばなひめ)https://ja.wikipedia.org/wiki/弟橘媛
日本武尊(やまとたけるのみこと)(倭建命)の妃。
『日本書紀』は弟橘媛とするが、『古事記』では弟橘比売命とする。
★
★唐衣橘洲(からころもきっしゅう、旧仮名遣い:からころもきつしう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/唐衣橘洲
江戸時代後期の狂歌師。大田南畝、朱楽菅江と共に天明狂歌の社会現象をおこし、狂歌三大家といわれた。本名は小島源之助、名は恭従(のち謙之)、字は温之、別号は酔竹園。
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★橘曙覧(たちばなあけみ)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘曙覧
江戸後期の歌人。
越前(えちぜん)国福井の名門。
越前国石場町(現・福井県福井市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で、父親は、正玄(正源とも表記)五郎右衛門
幕末期の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。
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★橘氏(たちばなうじ) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘氏
源平藤橘(げんぺいとうきつ)と総称される四大姓の一つ。
日本の氏族のひとつ。姓(カバネ)は宿禰、のち朝臣。
飛鳥時代末期に県犬養三千代(橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖として興った皇別氏族。
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★橘逸勢(たちばなのはやなり)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘逸勢
平安初期の貴族・書家。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。奈良朝に権勢を誇った橘諸兄(もろえ)の曽孫(そうそん)。
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★橘旭翁(たちばなきょくおう) (初代)
https://kotobank.jp/word/橘旭翁(初代)-1089410
筑前(ちくぜん)琵琶(びわ)の演奏家。
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★橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘孝三郎
日本の政治運動家、農本主義思想家。農本ファシストであり、超国家主義者でもあった。
32年の五・一五事件には塾生を農民決死隊として組織する。
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★橘嘉智子(たちばなのかちこ)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘嘉智子
日本の第52代天皇・嵯峨(さが)天皇の皇后。内舎人(うどねり)橘清友(きよとも)(贈太政(だいじょう)大臣正一位)の女(むすめ)。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘。母は田口家主の娘で、贈正一位・田口三千媛。兄弟に右大臣・橘氏公がいる。檀林寺を創建し、檀林皇后(だんりんこうごう)と称された。
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★橘三喜(たちばなみつよし) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘三喜
江戸前期の神道(しんとう)家。橘神道の唱導者。為証庵と号した。延宝3年(1675年)から23年かけて全国の一宮を参拝し、その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著している。
★
★き‐がわ〔‐がは〕【黄皮/橘皮】
橘(たちばな)などの実の皮。刻んで香辛料として料理に用いる。〈和名抄〉
★
★きつ【橘】
[人名用漢字] [音]キツ(漢) [訓]たちばな
1 木の名。タチバナ。「橘中/柑橘類」
2 橘(たちばな)氏のこと。「源平藤橘」
[難読]枸橘(からたち)
★
★きっちゅう‐の‐たのしみ【橘中の楽しみ】
《中国の巴(はきょう)で、橘(たちばな)の実を割ってみると、その中で二人の仙人が向かいあって碁を楽しんでいたという「幽怪録」の故事から》将棋や囲碁をする楽しみ。
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★橘家神道(きっけしんとう) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘家神道
江戸時代に普及した神道の一派。
江戸時代に玉木正英によって提唱された神道説。
橘氏伝来の神道を説くとされる。
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★橘(たちばな)(橘型駆逐艦)https://ja.wikipedia.org/wiki/橘_(橘型駆逐艦)
日本海軍の駆逐艦。仮称5511号艦、橘型(改松型)駆逐艦の1番艦として横須賀海軍工廠で建造された。
艦名は植物のタチバナによる。食用柑橘類の総称でもある。艦名としては桜型駆逐艦2番艦に続いて2代目。
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★福井市橘曙覧(たちばなあけみ)記念文学館 ホームページ
http://www.fukui-rekimachi.jp/tachibana/
幕末期の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。
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★橘 曙覧(たちばなのあけみ)
●幕末の歌人で国学者「万葉集や源実朝依頼の歌人」正岡子規が讃める。
橘曙覧の長男、今滋に『橘曙覧小伝』がある。
また彼は父の残した歌を編集し、1878年(明治11年)『橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集』(しのぶのやかしゅう)を編纂した。
正岡子規はこれに注目して明治32年、「日本」紙上に発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛し、「墨汁一滴」において「万葉以後において歌人四人を得たり」として、源実朝・田安宗武・平賀元義とともに曙覧を挙げている。
以後、子規およびアララギの影響下にある和歌史観において重要な存在となる。
彼の歌を編纂したもので『独楽吟』がある。
「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものである。
1994年、今上天皇、皇后がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌のひとつを引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになった。
2000年4月、福井県福井市の愛宕坂の旧居「黄金舎」跡に顕彰施設である橘曙覧記念文学館が開館した。
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★橘寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/橘寺
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏 頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁 天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えた ことに由来する。新西国三十三箇所第10番札所。
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★右近橘 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/右近橘
右近橘(うこんのたちばな)は、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右に あった橘の樹。左近桜に相対した。 『天暦御記』によれば、もとは秦河勝の宅にあったの を、内裏建造の際に紫宸殿があたかも宅の故地に相当するから、旧によってこれを植えたもので、天徳年間(957年-961年)まであったという。
『日本紀略』によれば、天徳3年(959年)12月7日あらたに橘樹1本、高さ1丈2尺を植え替え、これは東三条殿の樹で、勅命によった。のちに、皇居の炎上その他でしばしば植え替えが行なわれたが、里内裏の際にもまたこれを植え替える例となった。橘を植えるのは、秦河勝宅地の縁だけではなくて、橘が古くから「トキジクノカクノコノミ」といわれ、その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるから、長寿瑞祥の樹として珍重されたからでもあるともいう。
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★橘花 (航空機) https://ja.wikipedia.org/wiki/橘花_(航空機)
橘花(きっか)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発していたジェット攻撃 機である。エンジン開発は主に空技廠が担当し、機体を中島飛行機が開発製造した。 ネ-12B装備型を「橘花」、ネ-20装備型を「橘花改」と正式には呼称する。
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★橘家圓太郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/橘家圓太郎
橘家 圓太郎(たちばなや えんたろう)は江戸噺家の名跡。当代は8代目。初代のみ橘屋 。 6代目と7代目の間に5代目圓生の門で確認されているが立った活躍がなく二つ目 で終わっている為か代数として数えられていない。
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★橘家圓蔵 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/橘家圓蔵
橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう)は、落語家の名跡。当代は8代目。 かつての屋号は「 立花屋」であった。初代圓蔵が後に2代目三遊亭圓生を襲名したため、以後しばらくの間 「橘家」は三遊亭の分家的な家号になる。
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★きものと悉皆みなぎ/家紋図鑑 【橘(たちばな)】
http://minagi.p-kit.com/page136115.html
家紋図鑑を掲載しているページです。
家紋図鑑
参考資料 講談社「家紋と家系辞典」他. かげたちばな. まるにたちばな. こくもちじぬきたちばな. きくざたちばな. 橘. 陰橘. 丸に橘. 石持ち地抜き橘. 菊座橘. 葉陰橘. 丸に三つ足橘. 丸に台付き橘.
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★源平藤橘の話 家紋 拾い話
http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_d.html
源平藤橘とは日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた言い方である。だが、 これらの氏族が併存して、たとえば政党が並び立つように同じ資格を有していた時代は見い出せない。
・藤原氏
四姓のうちもっとも古いのは藤原氏で、天智天皇を援けて蘇我入鹿を倒して大化の改新(乙巳の変)を実現した 中臣鎌足に始まる。はじめは鎌足以外の中臣一族も藤原姓を賜ったが、のちに鎌足の子不比等が台頭すると藤原姓は 不比等流だけに限定された。不比等の死後、子供たち武智麻呂・房前・宇合・麻呂ら藤原四兄弟は対立勢力を倒して 妹光明子を皇族以外では初めて皇后に立て、朝廷における藤原氏の立場を確立した。四兄弟は武智麻呂が南家、 房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家を起したが、のちに内部抗争もあって北家が藤原氏の主流となった。平安時代以来、 天皇家との関係を深め、対立勢力を陰謀で排斥し、公家社会の高位を占有し五摂家・清華家・大臣家などの 多くの流派に分かれた。藤原氏のうち、都での出世をあきらめて地方に下るものも少なくなく、南家流、あるいは 北家の流れを汲む利仁流・秀郷流など、武家の名門として地方に勢力を扶殖した。戦国時代にあらわれる伊達氏、 結城氏、上杉氏、竜造寺氏などの大名たちは、いずれも地方に下った藤原氏の流れを汲んだ諸氏であった。
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★家紋を探る-源平藤橘から
http://www.harimaya.com/o_kamon1/saguru/saguru5.html
源平藤橘の家紋から探る.
日本四大姓とされる源・平・藤原・橘の諸氏をみることで、苗字と家紋探しのヒント発見があるかも知れません。
■源氏系名字と家紋 清和源氏・村上源氏・宇多源氏・嵯峨源氏
源氏の家紋は「笹竜胆紋」であるといわれているが、源氏の流れは清和源氏・村上源氏・嵯峨源氏・宇多源氏など 十六もの流れがあり、当然家紋も「笹竜胆」だけではないのは当然のことだろう。
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★源平藤橘を5分でおさらい!あなたの名字は何氏の流れ? - 家樹
https://ka-ju.co.jp/column/genpeitoukitsu 2020/03/22
歴史ある四大姓、「源平藤橘」とは
奈良時代から平安時代にかけて権威を振るった「源平藤橘」をご存知でしょうか。「げんぺいとうきつ」と読むのですが、人名ではなく源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた呼び名で「四大姓」とされています。
公家や武家では、現代わたしたちが名乗っているような名字とは別に、朝廷(天皇)から下賜された「氏」を持っていました。それがこの四大姓のような氏で、名字とは違って公式なため「本姓(ほんせい)」と呼ばれています。源氏・平氏・藤原氏は日本史のメインストリートを歩んだの対し、橘氏はちょっと少数派だったのかもしれません。そんな「源平藤橘」をご紹介しましょう。
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★源平藤橘|歴史の話をしよう
http://naraku.or-hell.com/Entry/444/
姓と氏、名字(苗字)の違いを話し出すと長くなりますし、難しくなるのでさわりだけ。例えば、伊達氏は藤原氏(藤原姓)を称したんだけど、これってわかりにくいですよね。藤原商事の伊達支店ってところでしょうか(なおさらわかりにくい)
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の四姓(橘氏は早くに衰えた)が名流と意識されると、後世の人々の多くがみずからの出自をこれらに求めた。信長は最初藤原氏(藤原姓)を称したが、のちに平氏(平姓)に改めている。家康も源氏(源姓)を称したが、実際のところはあやしい。
平氏というと、平将門や清盛を輩出した桓武天皇の子孫、桓武平氏が有名だが、ほかにも任明天皇や光孝天皇の子孫にも「平」の姓を賜った者がいる。「平」の由来は桓武天皇が築いた「平安京」に由来するという説がある。
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