世の中にはいろんな人がいる。そしていろんな環境の中にいる。すべての人が同じ瞬間に、拳銃やナイフを突きつけられていたり、笑っていたり、寝ていたり、泣いたり、病気になったりしている。世界で何が起ころうと何も考えずに能天気に暮らしている人、常に何かに警戒して暮らしている人、いろんな人が暮らしている。そして、ここにはここの時間がある。
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登場人物:尉火焚 渡(ジョービタキ ワタル)ジョーちゃん、 野川 繁(ノガワ シゲル)野川マスター、百舌 敏(モズ サトシ)ビンちゃん、関 礼(セキ レイ)レイちゃん、河原 比羽(カワラ ヒワ)ヒワちゃん
尉火焚 「まいどー。」
野川マスター 「ジョーちゃんじゃない!?久しぶりですね。どうしてたの?変わりない?」
尉火焚 「あぁ、シャワー浴びすぎて、脳みそが風邪ひいたみたいです。」
野川マスター 「えっ?どういうこと?」「ジョーちゃん、久しぶりに来たと思ったら、なんかおかしいよ!?」
百舌 「ジョーちゃん!どうしてたの?」「心配してなかったけど。」
尉火焚 「がくっ!何なの?ビンちゃんこそ大丈夫?」尉火焚は百舌の後ろに来て首を覗き込んだ。「あぁ、もう大丈夫みたいね。」
野川マスター 「何の話?ちょっと話してよ!でも、今日は遅いねぇ!」
尉火焚 「もうお客さんあまりいないね。遅くなった。ここんとこすぐに家帰って本読んでたから。」と言いながら、窓際のビンちゃんの横に座った。
関 礼 「いらっしゃいませぇーーー」レイちゃんもいる。
尉火焚 「レイちゃん久しぶり。夏休みは快調?・・・マスター!立葵の一番上の花が枯れてるね。梅雨明けしてから少し経ったからね。」レイちゃんが笑ってる。マスターも笑ってる。その時、ドアが開き、若い女性が一人入ってきた。「レイちゃーん」と言って入ってきた。レイちゃんは「ヒワちゃーん」と言って迎えている。「ヒワちゃん?」尉火焚は思い出していた。そう。あの学生妊娠!!!心の中とは裏腹に尉火焚はまじめな顔で「レイちゃんのお友達?」と話しかける。もう他にお客もいないせいか、レイちゃんが紹介する。「友達の河原 比羽ちゃんで~す。」尉火焚も百舌も頭の中で名前の漢字を思い浮かべている。
百舌 「賑やかになったぞ!」嬉しそうに満面の笑みで言った。マスターと何やら話していたレイちゃんがヒワちゃんと一緒にボックスに座りぺちゃくちゃと喋りだした。
野川マスター 「ジョーちゃん何にする?」
尉火焚 「カレー食べたいなぁ。」
野川マスター 「カレーねぇ。分かった。」「スパイスは自分で配合してあるのがあるから、作ってあげよう。定番野菜に加えてかぼちゃとナスも入れようか。ゴーヤも入れたいところだけど、茹でて酢入りの水に入れて苦みを消さないといけないから、面倒だ。」「えへへっ、ゴーヤは畑仲間の人からもらって教えてもらったんだ。変わった名前の人でね。」
尉火焚 「マスター、ありがとう!感謝感謝。まじで?」
野川マスター 「あぁ、畑を少し借りて野菜作っているんだよ。そんな仲間も多くてね。楽しくやってる。農薬は使わないよ。人間は雑草と格闘だ。刈り取った雑草も入れて自然の堆肥を作る。うまく発酵させるのがまた大変。でも、野菜も力強く育つ。雑草を刈って人間が加勢する。害虫を食べてくれる虫や鳥も加勢する。農薬を使うと全員が弱くなる。人間もね。」「あっそうだ!うちで使ってる野菜類は近くの畑で採れたものばかりだし、調味料も無添加使ってるよ。安心して!」レイ・ヒワコンビは別として、おじさん二人はビックリした。「ほ~!!」この「ほ~!!」には、これからも来るという力強い誓いが込められている。「ジョーちゃん!脳みそがどうしたの?」
尉火焚 「いろんなシャワー浴びすぎてぼーとしてる。」「だって、前来た時、目白さんとかビンちゃんの染色体の話とか・・・それから~ハ チ とか大変だったのよ。環境ホルモンの話で蜂が襲ってきたのよね。おバカなわたしゃ、ちょいと知恵熱かえーーーーー。」
百舌 「なんじゃ、それ。」小声で「それ以上言っちゃダメ!」
野川マスター 「えええっ?蜂に刺されたの?大丈夫だったの?」二人は絶妙なハモリで「よかったねぇ!!!うまく逃げたねぇ!」
尉火焚 「でも、マスターが畑やってるとはね!」
野川マスター 「人間みんな、自分の終わりが近づくと自然にひかれていくんだろうね。花とか畑とか、みんなそういう趣味を持つようになるね。」「でもみんな、それぞれに自分の歴史があって、うれしかったことや悲しかったことや辛かったことや、の すべてを土や花や野菜などの生命力に委ねているのかな?」「ジョーちゃん、カレー煮てるからちょっと待っててね。スパイスは20種類。配合の仕方が大切なんだ。小麦粉は入ってないよ。スパイスとニンニク、ショウガ!最高の食材だらけだ。野菜もたっぷり。!体が喜ぶよ!ナスは皮が大切なんだ!知ってる?」「スパイスが日常のインド人にぼけ老人はいないとさ!」「多分うまいよ!あははは・・・失敗はなすよ!なのだ!」
尉火焚 「マスターすごいね。」「マスターさん!リスペクトだよ。だじゃれも。いいね!を10回押すよ!」何だか訳の分からないことを言ってるジョーちゃんだが、「ここんとこね、本を読んでたんです。”失われし未来”と”メス化する自然”っていう本。こんな本が出版されていることも知らず、勤務先と自宅を往復していましたよ。それが情けなくて。自分が情けなくて。」
野川マスター 「ジョーちゃん!」
尉火焚 「俺、考えたんだけど、過去のあの3年間のスキマを環境ホルモンで埋めようと思うんだ。」
野川マスター 「訳が分からないんだけど・・・あっ!!!でもなんか・・・分かるような・・・ジョーちゃん!やったね!今になってやっと信号機から立ち直るということだね!?」
尉火焚 「俺、これから色んな事まじめに考えるよ。曖昧さも認めるよ。でも、そんな小さいこと気にする場合じゃないんだよね。今は。意識を持たないと。」
百舌 「今日はお二人さん、どうしちゃったのかな?」「マスター、キンキンに冷えた白ワインお願い。」
野川マスター 「はーい。凍りそうな白ワインね。」
突然、百舌が酔った勢いで初対面の河原 比羽に話しかけようとしている。初対面も何もないのだ。
百舌 「ヒワちゃん。もうシャワー浴びさせたの?」百舌はボックスに座っている河原 比羽に向かって赤ら顔で言った。しかも眉間のしわを見せながら。河原 比羽は、恐怖を感じた。「何?この人!」しかし、レイちゃんがすかさず説明している。シャワーの意味を・・・。少しづつ河原 比羽の表情が和らいでゆく。
河原 比羽 「多分・・・」恥ずかしそうに、いや、まだ警戒しながら言った。「ていうかぁ~、どうしてみなさん色んな事知ってるんですか?レイちゃんみんなにしゃべっちゃったの?」
全員「いやぁー。どうも・・・。」
尉火焚 「ごめんなさい。このお店には個人情報保護法は適用されない治外法権の店なのよ。なんちゃって。」
百舌 「男は不器用だから、ちゃんと言うこと言って・・・首輪つけて引っ張らなくっちゃ!」何とも心にもないことを言っている。
野川マスター 「暑い夏に辛~いカレーだよ!」「できたよ!」
尉火焚 「わぁっ、すげぇ!香りがすごいね。20種類のスパイスか!」やまびこのように「うま~い!」
関 礼 「わぁっ、食べたい!私カレー大好きぃ。」野川マスターは困ったようにでも嬉しそうに言った。「あなたは、ちょっとだけよ。それからヒワちゃんは食べないでね。スパイスは刺激強いから胎児にもあなたにも良くないよ。」
河原 比羽 「残念!これからも色んな事我慢しなくちゃいけないのかなぁ。」
関 礼 「ヒワちゃん大変ね。」
尉火焚 「マスター、さっき小麦粉入ってないって言ってたけど、どうして?」
野川マスター 「世の中も、食生活もバランスが大切なんだよ。あなたたち食事以外にもお菓子食べたりしてるでしょ?その原材料に乳、卵、小麦なんかが入ってる。そういうものばかり口にするのは良くないよ。戦後の日本人の食生活はすごく変わったのよ。体のこれまでの働き方では対応できなくなってるのよ。原因不明の現代病と言われているアレルギーや色んな病気は、多分そのせいだと思ってるんだ。」「だから、私の提供するものは、かたよらない安心できる食材でやってる。安心できて、素材に生命力があって、そんな食事なら体は喜ぶよ。ただし、少し手間はかかるけどね。」
尉火焚 「ひえっ~!マスター教授!」そう言われて、教授話を続ける。
野川マスター 「高度成長の最後のバブルが終わって、デフレの不景気になってからは加速的に”ひと手間”を省く商品がどんどん出てきたよね。”簡単、便利、すぐにできる”とかね。日本人のこの研究熱心なのはいいけど、合成化学物質を使って、安くて便利を実現したんだよ。消費者のひと手間を省くためにね。いやー、その技術力は感心するけどね。」
百舌 「そうだよね。ヨーロッパの人たちは没落して質素で素朴な生活をしてる訳じゃない。あの人たちは、随分前にそういう選択をしたんだよ。」「発展途上国は経済成長を第一に考えるよね。いろんな問題を山積みにしてもね。国の成長には段階があって、ほぼ同じ道を歩むんだよ。」
尉火焚 「マスター教授と百舌准教授か。」「ふむふむ・・・」尉火焚の頭の中で、読んだ本の内容と今の話がつながっていくのを感じていた。
野川マスター 「ビンちゃん、よくわかってるね。」お客は、4人だけになった。若い女性2人はボックス席で元気に話をしているが、残りのおやじ達は、酔ってるにもかかわらず、帰ろうとしない。野川マスターが話を続けた。「若い頃は、少しできるようになっただけで有頂天になるものだ。当時、”今の経済発展はすべての深刻な問題を先送りして、山積みにしているだけだ。”というキャンペーンを張ろうと提案したが却下された。”そんなもん記事になるか!ボケ!”で終わりだよ。俺は、それは当時の日本の真実だと思ったんだ。真実を報道するのが記者だろ?俺は食い下がった。納得できなかった。・・・そんなことが何度もあって、いろいろもめて、それからは地方まわりだ。仕事上は、地方は出世コースから外れたというけど、地方と都市部の人間的価値に上下があるはずはない。私は、できる限りの自分の仕事をしてきたつもりだ。」
尉火焚 「マスター、そんなことがあったんだね!辛かったでしょ!」
野川マスター 「そうだね。若かったんだよ。そんなことは、みんな分かっていたんだよ。でも、できない。新聞も売れないと会社潰れるしね。その頃は経済発展一色だよ。」「でも、どお?バブルがはじけて経済発展がなくなったら、先送りにして山積みにした問題がどんどん見えてきて、どうにも解決できないし、デフレからも脱却できないでしょ?」
尉火焚 「真実を報道するマスコミといっても、テレビにはいつもお笑いタレントが出てるし、お笑いの一環だと思ってる若い人もいるんじゃない?」
百舌 「ジョーちゃん、ちょっと!それはあんまりだよ。うんっ?でも・・・あるかも?」
野川マスター 「偏向報道という言葉があるでしょ?」2人は黙った。「意見が対立しているのに特定の立場から情報操作を行うことだよ。テレビのインタビューで放送しているのは数件だけど、いろんな意見があるはずだけど、その番組の言いたい意見だけを報道する傾向がある。選挙前には”ええ?これが日本の全国民の考え?そうなのか!ってなっていく。勝手に争点を作って、ちょっと疑わしい報道が盛んになって、奇跡の新政権が誕生したりするでしょ?一方で、最近の政権側の動きは、報道を制限しようとしているように見えて心配だ。都合の悪いことばかり報道するのが気に食わないからってそんなこと本気でする?報道を制限するのは、どこかの民主主義活動を弾圧する国と変わらないことでしょ!組織は、社の体質というかトップの考え方と人事配置としがらみの中で動く。報道だって変わりない。”国境なき記者団”は2018年の報道自由度ランキングで日本を67位とした。前年は72位。この人たちの発表をそんなに気にすることもないけど、今の報道は、自主規制とかで自分たちで自分たちの首を絞めてるような面もある。弱いのは事実だ。・・・真実を報道することは難しいことなんだ。」
百舌 「マスター!今日はどうしたの?なんかあったの?」
野川マスター 「いやーごめんなさい。ちょっと興奮したね!シャワー浴びたい気分だね。」
尉火焚 「ふふふ!」ちょっと愛想笑いする。色んなことが頭に浮かび、ふざけられない。
百舌 「ヨーロッパは過去の古い建物を保存するために努力してる。アメリカは常に古いビルをいかに簡単に爆破して新しいビルを作るかを考える。」「日本はアメリカ型社会に大きくかじを切った時があったね。でも報道はそんなこと記事にしなかった。”郵政民営化と天下りと規制撤廃”でキャンペーンを張ったよね。ねっ、マスター?」
野川マスター 「ビンちゃん、さすがだね。そのとおりだよ。ジョーちゃんがこの間、目白さんに怒られたのは何故?真実は?」野川マスターの声には力が入っていた。噛みしめるように、ゆっくりと。
尉火焚 「ええっ?俺が変なことを言ったからでしょ?それ以外に何もないよ。」野川マスターが尉火焚に近づき、小声で言った。「もし目白さんが運悪く脳梗塞で倒れて意識不明になったとしよう。地方紙なら記事になるかもしれない。例えばA社は言う。目白さんのような高齢者の問題を取り上げる。高齢化した一人暮らしの問題を取り上げてそれを問題視する。B社は現政権の高齢化社会への対策ができていないことを問題視する。批判好きな会社だ。C社は、居酒屋野川のトイレが店内の音を吸収しやすい構造だということを突き止めて報道する。地方の会社だね。」「ジョーちゃんがしゃべった言葉は忘れ去られるのか?いや、D社は、隣りの客が高齢者を傷つけるようなことを言ったためだと報道するかもしれない。」
尉火焚 「やっぱり?俺トイレ入ったら、お客さんの声がよく聞こえるから不思議に思ってたんだよね。本当に良く聞こえるね!・・・それで目白さんもしっかり聞いてた訳だ!!!なるへそーーー!て言うか、俺犯人になる可能性もあるの?怖いね。」
野川マスター 「真実は幾通りもある。まさに今この場で起きたことさえ、幾通りもあるよ。」「あの時、目白さんはもともと機嫌が悪くて、ジョーちゃんの言葉も聞いていなかったかもしれないよ。我々は勝手に目白さんのことを警戒しただけかもしれないよ。でも少なくとも事実は目白さんの機嫌が悪かったことだ。これを忘れてはいけない。」
さっきから少し気になっていた様子のレイちゃんが3人の方に向かって言った。「私、国会中継見てたんだけど。何これって、なんか変?と思ったのよね。何回も質問するけど、どんな質問にも同じ答弁してるのよね。全然的外れな答弁しても平気な感じだったよ。かえって答える方が威張ってたみたい。これを延々と一日続けるの?みたいな。」
「多くの人間が絡まる組織は真実を飲み込んでしまう。国会中継見てたら本当に日本から民主主義はなくなったと感じるね。情けないね。少なくとも先進国の議場ではないね。真実も事実もないね。報道は何してるんだろ。レイちゃん達若者もしっかりと日本を支えてほしいな。」しばらくみんな黙ってしまった。野川マスターの様子がおかしい。何かこみあげてくるのを抑えるかのように言った。「昔の同僚が真実を探してくると言って退社し、フリーになって紛争地域に行ったけど、消息不明になってる。・・・我々農耕民族には民主主義は根付かないのかなぁ。今の日本は発展途上国に逆戻りだ。国連からも心配されているからな。」野川マスターがボックス席に座り大きなため息をついた。頬に何か光るものがある。涙か?尉火焚はびっくりした。でもこれは本当らしい。頬から伝うマスターの涙に、何か別の世界の物語の中にさまよっているのかと不思議な思いがした。自然と涙があふれてきた。隣りを見ると、ビンちゃんも泣いてるではないか!
関 礼 「あれぇ、みんなどうしたの?」「えええっ?な!い!て!る!のぉ~???」カレーの辛さが原因ではない。これは事実だ。
尉火焚 「青信号が緑色なのは事実だけど、真実ではないのか。・・・」尉火焚の一言で、重苦しい雰囲気が少しづつ和らぐ。
野川マスター 「ジョーちゃん!いいね!」
百舌 「ジョーちゃんだねぇ!」「そろそろ行きますか!?」
暑い夏は始まったばかり。居酒屋野川の暑い夏も始まっている。
続く(不定期)