kira kiraな☆しあわせ ~多発性海綿状血管奇形・心因性非てんかん性発作(PNES)と共に~

病気があるからこそ今いる私。楽しいことも悲しいことも、すべてがkira kiraの思い出になると信じて‥☆

浪人生活をしていた頃の話

2006-02-16 01:43:07 | 病気と障害と私の生活
高校の友だちと卒業旅行に出かけたり、招待券をいただいてキティちゃんに会いに行ったり・・
その頃から感じていた腰の骨痛。
特に何をしたわけでもないし、おばちゃんだなぁ~と思いつつ、旅行したり、遠出をしたりの生活を続けていた。

でも、だんだんひどくなって・・・
座っていられなくなった。
ごはんを食べる間、大好きなピアノを弾く間、何をしていても痛くて耐えられない。10分と座ってられないから、勉強もできない・・。
浪人生活を送る予定の予備校でクラスわけテストを控えていたので、この状況に焦りを感じた
 もう、病気に邪魔されるようなことは嫌!!

定例の診察日に先生に相談。整形外科に紹介してもらって、鎮痛剤をもらったけど全く効かず。
これ以上強い薬はないという薬をもらっても効かず。
注射も効かず・・。

腰の骨も痛ければ、足も痛い
MRI検査は約20日待ち。それ以上どうにもしてもらえず・・
気を紛らわす毎日だった。
激痛が襲ってくるまでは・・ピアノを弾き、パソコンにむかい、天気が良ければお散歩
身体が元気にならないと、勉強をする気になれなくて・・。
だから、しばらく勉強とは離れました。

散歩と言っても、たった10分くらいの距離なのに、何度も立ち止まらないと歩けなくなった。立ってるのも、歩くのも、つらい・・。

ついには、洗顔のためにかがむことすら激痛でできなくなり・・
「もう限界!!」と・・入院することになった

入院してしまえば検査も早く受けられるかもしれないし、激痛な生活から解放される 早く回復して来年の受験に備えなくちゃ!!
そう思った。

でも・・。
そうはいかず、検査の結果、心因性の疑い。
骨が痛くて目が覚め、鎮痛剤の注射をしてもらうような生活を5日して退院した。
自分でストレスを感じているとは思っていなかったから、勧められた心療内科や精神科に行こうとは考えなかった。
時間が解決してくれるのを待つしかないんだ・・と思うことに。
予備校の授業も始まるし・・。
そんなに休んでもいられない


今思えば、抱えていたストレスなんて山ほどあった
周りの女の子に浪人した人がいないこと。
病気じゃなければ浪人しなかったのでは?という気持ちになってしまうこと。
これ以上遅れたくない焦り。病院で、二浪は覚悟して・・と言われていて、でも絶対それは嫌!!とプレッシャーだったこと。
元気に見えるけど症状がある、この病気の理解者がほしい・・・ 
病院に行かなければ理解してくれる人がいない・・
と思ってたこととか。
その頃の日記に、そう書いてある・・。

こんなスタートの浪人生活。
いきなり薬も増えちゃって異常な眠気に襲われるし、最悪だった。
薬の副作用はそのうち慣れてしまうけど、慣れるまでは本当に戦い
どんな方向に進んでいこうかも考えずに予備校入ってしまい
とりあえず、無試験で予備校に入れるように、高校の先生に推薦状を書いてもらったけど、「農学部受験クラス」みたいなとこに入っちゃって、
とにかく、めちゃくちゃな始まりでした・・


もともと勉強できるわけじゃないし
模試を受けても成績がどんどん上がっていくなんてこともなく、
将来も見えてこない。
とりあえず、与えられたことを毎日こなして(こなしてない日の方が多かったけど・・)平凡な浪人生活を過ごしていた。
朝9時から授業が始まって、空き時間は自習して、7時頃まで自習室にこもってたり。買い物したくなれば早く帰ったり。
友だちができてからは、近くの喫茶店とか行って、夜9時頃まで勉強教えてもらったりもした。
いつもみんなで言ってたのは、
「成人式なくならないようにしようね!」
文学部だったり理工学部だったり医学部だったり・・
全然目指しているとこは違ったけど、一人でいるよりすごくやる気が出るし、がんばれた

今もそうだけど、[友だちがいる]っていうそのパワーは強い・・
人と人のつながりから生まれる力ほど強力なものってないんじゃないか?って思うくらい、いろんなところで、いろんなふうに・・その力を発揮する。


高校生のときに通っていた予備校の先生や友だち、浪人していた頼れるお姉ちゃん・お兄ちゃんのような存在の人たちとも連絡とっていて、ご飯を食べに行ったりもした
そこでも、たくさん励まされて・・
「努力は必ず実を結ぶ」「自分が大学に行きたいために一生懸命、勉強するんだよ」と。
浪人したばかりの頃は、ずっと高校生のときには誰かと一緒にいたから、一人の生活になって不安だった。急に一人ぼっちになってしまったみたいで・・。
でも、受験は誰かと一緒にするものじゃない。私が私の将来に向けてすること。
自分の将来と真剣に向き合う期間。それを忘れちゃいけない・・そう思うようになった。


普段の授業と、模試。また模試!?・・の生活をしているうちに、腰骨痛はいつの間にやら消えた。

薬の副作用もそのうち気にならなくなった。
と言っても、自習室でよく寝ていたり 夜も遅くまで起きていることはつらくて、ぼーっとしながらもとりあえず問題解いたり、また地に足着かずな状態になっていた
「勉強している"つもり"は、やったことにはならないよ」と病院の先生に言われ、眠いなかでやっても意味がないことはわかってるけど、眠いからと言って寝ていたらほとんど1日寝ていることになってしまう
そう思って、薬が必要な身体であることが気にいらなくなっていった。
それに、浪人しても、またこうやって病気が邪魔してくるのではゴールが見えない・・と思うと、悲しかった。


夏期講習では校舎をいくつか梯子していて、
そのときだけでなく、バイト(←超短期間の県庁でのお仕事☆)をしていたときも・・
びっくりなことに「ここはどこ?」な状態になることが数回起こった
自分がどこにいるのか、どうしてそこにいるのか、そして、時間の感覚(朝とか昼とか夕方とか・・)というものが全くわからなくなる・・。

友だちと一緒にいるときならまだ良いけど、
一人で電車乗ってたときはどうしよう!!っていう感じだった。
電車の中の電光表示を見ていたけど、でも、どこで降りたらいいのかわからず・・
とりあえずよく知ってる駅の名前を聞いたら降りよう!と思って、遠回りしたけど無事に家まで帰れました
乗ってた電車が山手線でよかった。ずっと乗ってれば、いつかまた戻ってくるし・・笑

高校生のときにも、時々そんな事態に陥ることがあって・・
「あれ??ここどこのトイレだっけ!?」とか、「今・・もう夜だっけ?夕飯食べたんだっけ?」みたいな、ほんの少しの間だけ正常じゃなくなってしまうことが。
薬があってなかったのか、量が足りなかったのか、ちゃんと発作をコントロールできていなかったんだろうなぁ・・

体調がそんなおかしくなるのは、そのとき必死で、ムリをできてたから気づかなかっただけで・・
疲れてたんだと思う。
今はそこまでムリもできなくなったから・・まだ若かったんだなぁー(笑)


そんなときに行った病院で、ひとりのおばさまに出逢った
びっくりだけど、検査室で初めて会ったそのおばちゃま(「おばちゃまって呼んで」と言われたので、「おばちゃま」)が、お昼ごはんをごちそうしてくださった
「こんなお嬢さん、どこが悪いのかしら・・って気になってたのよ。」
と声をかけられ、突然で私はびっくりだったけど、おばちゃまはずっと気になっていたみたいで・・。
若い私のことが気になっていたらしく、ちょうどお昼だったので、食事に誘ってくれました。
70歳を過ぎているとは思えない美しさと元気さ。
病気を思わせない、活動的な生き方は魅力的だった。
おばちゃまはとてもステキは方でした。
お茶の先生をしているというので、お箸を上手に持てない・ご飯を綺麗に食べられない私は、そのことが気になって・・
「上手にごはんが食べられなくて・・ごめんなさい。」
すると、おばちゃまは、
「いいのよ。そんなことどうでも。大事なのは中身。」
そう言ってくれました。
そして、人の内面は外に表れるものというようなことを話してくれたり、いろんな話をして、デザートまでごちそうになって
駅まで一緒に歩いて、お別れした。
「病気になんか負けないで、生きましょう!」
って握手して・・。

元気にしてるかなぁーって、時々おばちゃまのことを思い出す。
時々というか、よく考える。
病気になったからこそ出逢った人たちのこと・・。
みんな、元気かな・・??がんばってるのかな・・??
私はがんばっているよ☆って伝えたい・・



そんなこんなで、あっという間に二回目の出願時期。
11月の後半までは、看護の道を諦められずによく泣いて悩んだけど、
結局は福祉を選んだ。病院で働く福祉の仕事があると知ったから・・☆
これまでの経験もすべて活かせる職業につきたい!と思ったから・・

けど、受験科目が、英・数・現・化・面接・小論でやってきたので、福祉の大学を受験するにはちょっとズレている。
今までせっかく理系科目でがんばってきたのに・・何やってたんだろう??って思ったりもした。
せっかくここまで勉強してきたんだから・・と思って、センター試験までは数学も化学もがんばることにした。
もしかしたら使えるかもしれないし☆

福祉系の大学は、意外と少ない・・と思った。
英・数・現で受験できる関東の大学で、
病院に就職できそうで、福祉の学校として歴史があるところ・・
って探してたから?
第一志望校と、いま通ってる大学。
それから、もう浪人は嫌だし通える範囲で2~3校。
センターも使って、5校ほど出願。

医療福祉が、初めからコースであるような学校に行きたかったけど、
関東では、あまりそういう学校ってなかった。(今はあるのかも・・)
だから、「この学校の、ここがすごく良くて行きたいと思いました☆」
みたいなのがなくて、大学見学とかも一度も行かないまま、学校のパンフレット見て、あと受験科目だけで、受験し、いちばん歴史があるところに決めた。


そんな冷めた受験だったけど、病院で「大学決まりました」の報告をしたら、すごく喜んでくれて・・
いつも相談にのってくれてた看護師さんにも先生が報告してくれて、看護師さんと「よかったねーよくがんばったね!!」って、抱き合って、泣いて喜んだ
そして、
「あなたが一番つらくて大変だったけど、支えてくれたお家の人にも感謝しなくちゃいけないよ
「これからも、つらいことにぶつかってもきっと乗り越えていける!大丈夫☆」
って言ってくれて・・このとき、初めて、がんばったんだ私・・と思えた。
浪人したのに、進路ぐにゃって変わって、こんな結末で良かったのかな??
って思ってたけど、ずっとがんばってきたことを、認めてくれる人たちがいて、
やっと、ダメじゃないというか・・良かったんだと思えた。

そんなふうに思わせてくれる人がいて、本当にしあわせだと思う。
そういう人たちだから、がんばろう!という気持ちにもなるし、
素のままで頼ることもできる。


浪人生活は、つらかったよりも、充実だった。
あの1年って、無駄にしちゃう人もいるんだろうけど、きっと次に進んでいくために、すごく重要だった人のほうが多いんじゃないかと思うくらい、貴重な時間に思える。
浪人したばかりで、どんよりしてたときに、
「浪人はしたほうがいい」と言われたことがあるけど、そう言われたのも、今となれば納得(笑)

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