先日のブログの続きですが、テキサスワイポンと牧園牧場の証となる「ワイポンの鐘」を撮りに霧島高原乗馬クラブに行ってきました。
今回は、裏の物産館からではなく、ちゃんと正面入り口から入りました(;^_^)
駐車場入り口には「馬に乗ってみよう!」とウェルカムなイラストの看板が♪
こちらがワイポンの鐘。
こうやってみるとオシャレな鐘ですね。
鐘の横にいるカメラが大好きなポニーたち(前回同様)
目がキラキラしてかわいい(^^)
そして、今日もウトウトしていた彼。(前回同様)
この日の鹿児島は肌がキーンとする寒さでしたが、日差しが当たるところは案外ぽかぽかしており、厩舎にいるお馬さんたちは顔を出して日向ぼっこをしている子もいれば、中で爆睡している子も。
鼻を撫でらせてくれました。
赤ちゃんのほっぺみたいにプニプニ~(^^)
あぁ。。。眠いのね(-_-)zzz
先日のブログで、この乗馬クラブの前身は牧園牧場だったと書きましたが、駐車場に牧園牧場の跡碑がありました。
牧園牧場のあゆみも書いてありましたよ。
牧園牧場の創立は遠く明治29年に遡り、はじめ農商務省所轄九州種馬牧場と称し種馬の繁殖育成を行い、その後明治40年8月馬政局所轄鹿児島種馬所となり、陸軍省、農商務省等それぞれ所轄は変わったが、業務は、鹿児島、沖縄両県を管轄区域とする種馬業務であった。戦後昭和21年5月鹿児島種畜牧場と改名。従来の種馬業務の外に和牛、山羊、緬羊等を取入れ南九州の畜産指導の拠点となる。特に戦前・戦後を通じ本県馬産の基礎を確立した業績は大きく昭和10年には、天皇陛下の行幸を拝ぎ、往日の盛況が偲ばれる。しかしながら時代の変遷は昭和25年4月この牧場を廃場に追いこみ、牧園町は、由緒あるこの広大な牧場が荒廃に帰するのを憂え、桜の名所としても観光的にも知られるところであり、勇断をもって跡地の払い下げを行い、昭和25年7月1日をもって牧園牧場として発足し、多大の犠牲を払いながら経営を維持し軽種馬の育成牧場として内外にしられその間、公営牧場として和牛、緬山羊の飼育、酪農、養鶏、家畜人工受精業務などを行い町内は勿論、地域の畜産振興に貢献しかつては緬山羊の牧場としても知られ牧歌的風景は、霧島高原の風物詩として観光資源に役立ってきた。尚、昭和27年に牧園高等学校定時制畜産科設置で実習農場ともなり、又中央競馬会の抽せん馬預託を昭和28年から受け競走馬の育成業務をおこない、永い歴史の中で経営を変えて頂いたのは日本中央競馬会と個人預託の力添えによるところが大きく、競走馬育成を45年間で延べ1600頭を各競馬場等に送り出した功績は大であり町営牧場として45年、国営からして100年の永い歴史に平成8年3月末日で終止符を打ち牧場閉鎖となる。
「牧園牧場のあゆみ」
明治29年5月 九州種馬牧場(農商務省管轄)
明治40年8月 鹿児島種馬所(馬政局管轄)
昭和21年5月 農林省鹿児島種畜場(農林省管轄)
昭和25年4月 農林省鹿児島種畜牧場廃止決定
7月 牧園町営牧場として発足
昭和26年10月 家畜人工受精所開設(牛)
12月 牛乳殺菌処理施設設置
昭和27年4月 牧園高等学校定時制畜産課設置され実習場になる
昭和28年3月 農林省畜産局競馬部より育成馬15頭の預託を受け軽種馬の育成業務を開始
3月 町営牧場羊毛加工場開設
昭和30年3月 国営競馬場廃止に伴い預託馬は日本中央競馬会に名義変更される
昭和32年11月 伝書鳩による牛の精液輸送を開始する(敷根種畜場より)
昭和44年3月 牧園高校畜産科閉校並びに記念●除幕式(●は読めず)
昭和47年5月 緬羊、種雄牛飼育業務廃止
昭和54年4月 町営授産所廃止となる
昭和59年5月 第35回全国種樹祭開催される
平成8年3月 牧園町営牧場閉鎖
種雄牛・・・食肉用・乳用とそれぞれの目的にかなった優れた遺伝子を持つ雄牛。
各地の種雄牛センターなどに登録され、人工授精などに使われる。種牛。
内容を読むとえっ!?と思うところも多々あり、「伝書鳩による牛の精液輸送を開始」なんかびっくり。
わたしは伝書鳩についてよく知りませんが、そんなことまでできたの!?と。
しかも敷根って垂水の敷根ですよね。伝書鳩のすごさを認識しました。
ちなみに、牧園高校畜産科閉校時の記念樹?記念碑?なんだろう… 文字がつぶれて読めませんでした。
追記・・・牧園町郷土誌を読みました。すると・・・
昭和44年2月 定時制畜産科並びに記念碑除幕式
とありましたので、記念碑ということで間違いないのでしょう。
郷土誌は2月、牧園牧場の跡碑には3月とあります。
おそらく郷土史のほうが合っているのだろうと考えるところです。
畜産科学び舎の跡の碑。現物の写真を撮りに行きたいですね。
あっ…牧園町の郷土史が読みたくなってきた。。。