2月は月初めに読んだこの本が面白くて近田春夫の音楽をよく聴いていた。
近田春夫の音楽といっても自分が好んで聴いてきたのはヒップホップ期のプレジデントBPMとVIBRASTONEだ。
偶々タワーレコードのセールで『Vibra Is Back』のアナログ盤(セール会場でみるまでアナログ化されてたことすら知らなかった!)を8割引きという破格の価格で見つけたので買って聴いていたこともあって熱が高まった感じ。
『エントロピープロダクションズ』も『Smile!』も聴き返したけれど、この『Vibra Is Back』が一番いいですね。本人も著書でそう語っているように。バンドのサウンドが一番まとまっているし、ヒップホップをバンドでやるというコンセプトに対して手探りでありながら、演奏が達者なメンバーによるバンド編成が他に類をみないグルーヴがこの時期のVIBRASTONEにはある、と思う(JAGATARAなどが出演してた<東京ソイソース>の熱気がここに集った?)。
ヒップホップでバンドといったらStetsasonicかThe Rootsになるけれど、両バンドともOSはヒップホップ、B-BOYというOSでバンドというアプリケーションを動かしているのに対して、VIBRASTONEのOSはロックでありファンクであり、B-BOYではなくバンドマンというか。本場モンからするとちょっと違ってズレているのだけれど、そこが堪らない魅力を出している。
そのズレというのはおそらくバンドマスターである近田春夫が意図したところだろう。なので経験をつんでバンドのOSがヒップホップを組み込んだものにアップデートされていくと活動を停止せざるを得なくなっていったのだと思う。
なぜなら、そこから先は洗練・円熟への繰り返しが求められるから。
「構造が分かっちゃったから詰まらなくなった」と嘯く近田春夫にはそれは魅力的でなかったのだろう。
近田春夫がハウスやトランスに傾倒しつつのもそういうことだろう。
ヒップホップでバンドといったらStetsasonicかThe Rootsになるけれど、両バンドともOSはヒップホップ、B-BOYというOSでバンドというアプリケーションを動かしているのに対して、VIBRASTONEのOSはロックでありファンクであり、B-BOYではなくバンドマンというか。本場モンからするとちょっと違ってズレているのだけれど、そこが堪らない魅力を出している。
そのズレというのはおそらくバンドマスターである近田春夫が意図したところだろう。なので経験をつんでバンドのOSがヒップホップを組み込んだものにアップデートされていくと活動を停止せざるを得なくなっていったのだと思う。
なぜなら、そこから先は洗練・円熟への繰り返しが求められるから。
「構造が分かっちゃったから詰まらなくなった」と嘯く近田春夫にはそれは魅力的でなかったのだろう。
近田春夫がハウスやトランスに傾倒しつつのもそういうことだろう。
「ハウスでなく歌謡ハウス。つまり、これは歌謡(曲)でありアレンジがハウスであるというだけ」(同)だけれど、このラリー・ハードをも彷彿とさせるようなベースとピアノの絡んだハウスはいまのクラブのフロアでも相応しいはず。この路線でアルバムをもっと作って欲しかった!
この本は未読なのだけれど、自分のような歌謡曲を主体的に聴いてこなかった人間でも過日に旅立った筒美京平の残した音楽についてあれこれ感じるものがあったのは(訃報を耳にしてから2~3日はSPORTIFIで筒美京平楽曲だけを聴いていた)近田春夫が歌謡曲を言葉で評価したことの影響下にあるのだろう。
そんな近田春夫が何故いまほどに歌謡曲(的なもの)にヒップホップ/ラップが近づいていっている時代にラップをやらないのか……という疑問がふつふつと生まれ、それについて考えていた2月だった。
例えば、こういう方向性でいまのTrapやったら結構面白いと思うんですけどね…。
プレジデントBPM時代から日本語で韻を踏むことに意味はない(極端な話、終助詞で音をそろえることは出来るから)。それよりも言葉と言葉の積み重なりによる飛躍など意味へ追求をするべきだとして、それを実践してきた近田春夫がいまも「日本語で脚韻を踏んでいるのは滑稽」というのは分かる気もするんですけど、その滑稽さというのは魅力にもなっているのでは? とも思う。
そんな近田春夫が何故いまほどに歌謡曲(的なもの)にヒップホップ/ラップが近づいていっている時代にラップをやらないのか……という疑問がふつふつと生まれ、それについて考えていた2月だった。
例えば、こういう方向性でいまのTrapやったら結構面白いと思うんですけどね…。
プレジデントBPM時代から日本語で韻を踏むことに意味はない(極端な話、終助詞で音をそろえることは出来るから)。それよりも言葉と言葉の積み重なりによる飛躍など意味へ追求をするべきだとして、それを実践してきた近田春夫がいまも「日本語で脚韻を踏んでいるのは滑稽」というのは分かる気もするんですけど、その滑稽さというのは魅力にもなっているのでは? とも思う。
それこそが、”本場モンからするとちょっと違ったズレ”なのではないだろうか?
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