過日、音楽プロデューサー牧村憲一さん主催の『インタビュー』が『踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽』の著者である輪島 裕介さんをゲストに迎えて開催されました。
こちらを聴講して思ったこと、考えたことをツラツラと書き綴ろうかと思います。
同じく輪島氏の著書『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』も踏まえてのインタビューだったので、下記の駄文はこの二冊を踏まえてのものになります。
「鑑賞/批評中心に形成されてきたポピュラー音楽史観を、「参加する」という視点で組み立て直す」という輪島さんのアプローチに従えば、日本語によるラップはその最新モデルと言えるだろう。
この話「日本がどうやってヒップホップを受け入れてきたか?」とも言えるのだが、ヒップホップ=ラップではない(ヒップホップという文化にラップという表現方法が内包されて いる)ので、敢えて別けて考えたい。
日本に於けるヒップホップの受容というとプレジデントBPMやいとうせいこうになるだろう。
ディスコのような水商売ぽさとインテリ的なサブカル。
これらに対してストリートのヒリヒリした感覚を! というのがB Fresh3に代表されるホコ天で踊っていたB BOYで、その流れがMicrophone Pager~雷~Nitro Microphone Undergroundと続く…。
という大まかな日本に於けるヒップホップの受容史を踏まえた上で、海外のリズムに「参加する」というアプローチはB BOYのあり方そのものだし、そもそもB BOYが踊るブレイクビーツ自体がジャズであったり、ラテンであったりと折衷的で、雑多なリズムの固まりだったわけだ。これは戦後日本がマンボやチャチャチャ、ブーガルーを流行歌に積極的に取りいれていった姿と重なる。
*日本人のラテン・リズム好きというのも多分にあるのだと思う。キング・オブ・ディギンことMUROが満を持してのメジャー・デビューに「El Carnaval」というラテンのリズムを掘り出したネタを持ってきたのもそこを見越してか…? 穿ちすぎ?
ヒップホップとラップを別ける…と先ほど書いたけれども、ラップに関しても「リズム歌謡」
日本語でラップをするということのはじまりは「邦子のかわい子ぶりっ子」だったり「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3 」だったりというノベルティ系だったというのは、ディック・ミネなどに代表されるカタコト歌謡の系譜上にある流れであると言えるのではないだろうか。
カタコト歌謡については輪島さんが次著に予定されているテーマということで、そちらを楽しみに待つことにして(さぁ、後戻りはできない自体になってまいりました)、日本語本来の響きに近い発音と英語風な発音との両者で揺れ動く日本語ラップは間違いなくこのカタコト歌謡の流れにある(本流か傍流かはよくよく考察しなくてはだけれど)。
ラップをカタコト歌謡の流れとして捉えるとなると気になるのが非ヒップホップ圏での日本語によるラップの取り扱いだ。
例えばSMAP、例えば嵐。
アイドルが歌うラップは何故ヘタなのか。 より正確にいえば何故拙く古いフロウのままなのか。
Sky-Hiという大いなる例外はいるけれども、彼の存在はAAAの日高では、つまりアイドルでは本格的なラップ/ヒップホップは出来ないという逆説的な証明にもなっているのではないか?
*自分の言葉でライムしなくてはヒップホップではないので、その強すぎる自己主張がアイドルという器を壊してしまうということなのかもしれないけれど。
いや、まてよ。ライムベリーや『サ上と中江』のように普通にアイドルでありながら、上手いラップというのも成立しているなぁ。…でもそれは今のところカワイイ女の子だけだ。カワイイ女の子がラップをするというのはアグネス・チャンがカタコトで歌うように、浅田美代子が音痴丸出しで歌うように未 成熟なものを愛でるという文脈にはまってくるのではないか? どうなのか。
音楽的な部分とは違う部分で言うと日本語ラップ(日本語のラップとは区別してつかってますよぉ)の一部が演歌的な世界を歌っているということにも着目したい。
『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』で語られているように70年代に作られた「日本の心」的風景 …ヤクザ映画的な世界を歌う2016年の若者。それもアメリカの最新のビートに載って。
そう、Kohhのことだ。
特に『Monocrome』で見せたような世界観は70年代に演歌がやったことをそのまま今やっているようにも思える。
面白いなと思うのは、絶対に本人はそんなことを意識していないし、狙っているわけでもないだろう。ただリアルであることというヒップホップ・マナーに従って自分の身の回りのこと、自分の中から出てきた言葉をラップしているだけだろうから。
Kohhとは対照的にそういった演歌や昭和歌謡の世界を意図して取り入れている人もいる。
Stillichimiya「ズンドコ節」はまさにリズム歌謡の要素をサンプリングした傑作でドリフネタのMVも含めて渋い。
あと、Punnpeeが加山雄三「お嫁に おいで」をリミックスしているが、これもリズム歌謡とヒップホップの出会いを意識した作品だろう(作られた経緯などではなく仕上がった音として)。
というわけで、思いつくままにツラツラと書き綴ってみた。
最後にRHYMESTER宇多丸が「アメリカに代表される海外の音楽を日本流にアレンジしたものが歌謡曲だとすると、自分たちがやっていることはアメリカのヒップホップを日本流に消化して歌うことだから、自分たちがやっていることを歌謡曲と呼んでもらっても構わない」とインタビューで言っていたなぁと空覚えの知識を書き記して、拙文を終えます。
こちらを聴講して思ったこと、考えたことをツラツラと書き綴ろうかと思います。
同じく輪島氏の著書『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』も踏まえてのインタビューだったので、下記の駄文はこの二冊を踏まえてのものになります。
「鑑賞/批評中心に形成されてきたポピュラー音楽史観を、「参加する」という視点で組み立て直す」という輪島さんのアプローチに従えば、日本語によるラップはその最新モデルと言えるだろう。
この話「日本がどうやってヒップホップを受け入れてきたか?」とも言えるのだが、ヒップホップ=ラップではない(ヒップホップという文化にラップという表現方法が内包されて いる)ので、敢えて別けて考えたい。
日本に於けるヒップホップの受容というとプレジデントBPMやいとうせいこうになるだろう。
ディスコのような水商売ぽさとインテリ的なサブカル。
これらに対してストリートのヒリヒリした感覚を! というのがB Fresh3に代表されるホコ天で踊っていたB BOYで、その流れがMicrophone Pager~雷~Nitro Microphone Undergroundと続く…。
という大まかな日本に於けるヒップホップの受容史を踏まえた上で、海外のリズムに「参加する」というアプローチはB BOYのあり方そのものだし、そもそもB BOYが踊るブレイクビーツ自体がジャズであったり、ラテンであったりと折衷的で、雑多なリズムの固まりだったわけだ。これは戦後日本がマンボやチャチャチャ、ブーガルーを流行歌に積極的に取りいれていった姿と重なる。
*日本人のラテン・リズム好きというのも多分にあるのだと思う。キング・オブ・ディギンことMUROが満を持してのメジャー・デビューに「El Carnaval」というラテンのリズムを掘り出したネタを持ってきたのもそこを見越してか…? 穿ちすぎ?
ヒップホップとラップを別ける…と先ほど書いたけれども、ラップに関しても「リズム歌謡」
日本語でラップをするということのはじまりは「邦子のかわい子ぶりっ子」だったり「咲坂と桃内のごきげんいかが1・2・3 」だったりというノベルティ系だったというのは、ディック・ミネなどに代表されるカタコト歌謡の系譜上にある流れであると言えるのではないだろうか。
カタコト歌謡については輪島さんが次著に予定されているテーマということで、そちらを楽しみに待つことにして(さぁ、後戻りはできない自体になってまいりました)、日本語本来の響きに近い発音と英語風な発音との両者で揺れ動く日本語ラップは間違いなくこのカタコト歌謡の流れにある(本流か傍流かはよくよく考察しなくてはだけれど)。
ラップをカタコト歌謡の流れとして捉えるとなると気になるのが非ヒップホップ圏での日本語によるラップの取り扱いだ。
例えばSMAP、例えば嵐。
アイドルが歌うラップは何故ヘタなのか。 より正確にいえば何故拙く古いフロウのままなのか。
Sky-Hiという大いなる例外はいるけれども、彼の存在はAAAの日高では、つまりアイドルでは本格的なラップ/ヒップホップは出来ないという逆説的な証明にもなっているのではないか?
*自分の言葉でライムしなくてはヒップホップではないので、その強すぎる自己主張がアイドルという器を壊してしまうということなのかもしれないけれど。
いや、まてよ。ライムベリーや『サ上と中江』のように普通にアイドルでありながら、上手いラップというのも成立しているなぁ。…でもそれは今のところカワイイ女の子だけだ。カワイイ女の子がラップをするというのはアグネス・チャンがカタコトで歌うように、浅田美代子が音痴丸出しで歌うように未 成熟なものを愛でるという文脈にはまってくるのではないか? どうなのか。
音楽的な部分とは違う部分で言うと日本語ラップ(日本語のラップとは区別してつかってますよぉ)の一部が演歌的な世界を歌っているということにも着目したい。
『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』で語られているように70年代に作られた「日本の心」的風景 …ヤクザ映画的な世界を歌う2016年の若者。それもアメリカの最新のビートに載って。
そう、Kohhのことだ。
特に『Monocrome』で見せたような世界観は70年代に演歌がやったことをそのまま今やっているようにも思える。
面白いなと思うのは、絶対に本人はそんなことを意識していないし、狙っているわけでもないだろう。ただリアルであることというヒップホップ・マナーに従って自分の身の回りのこと、自分の中から出てきた言葉をラップしているだけだろうから。
Kohhとは対照的にそういった演歌や昭和歌謡の世界を意図して取り入れている人もいる。
Stillichimiya「ズンドコ節」はまさにリズム歌謡の要素をサンプリングした傑作でドリフネタのMVも含めて渋い。
あと、Punnpeeが加山雄三「お嫁に おいで」をリミックスしているが、これもリズム歌謡とヒップホップの出会いを意識した作品だろう(作られた経緯などではなく仕上がった音として)。
というわけで、思いつくままにツラツラと書き綴ってみた。
最後にRHYMESTER宇多丸が「アメリカに代表される海外の音楽を日本流にアレンジしたものが歌謡曲だとすると、自分たちがやっていることはアメリカのヒップホップを日本流に消化して歌うことだから、自分たちがやっていることを歌謡曲と呼んでもらっても構わない」とインタビューで言っていたなぁと空覚えの知識を書き記して、拙文を終えます。
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