木を見て森を想う

断片しか見えない日々の現象を少し掘り下げてみたいと思います。

民度の生態史観1

2020-10-28 18:00:00 | 時事

発展途上国の現実を見て

 日本人の民度の話に入る前に、私が日本の民度を含む民族性に関わる歴史に興味を持ったきっかけを書きたいと思います。大学院生の頃1年ほど、とある東南アジアの国で過ごしました。日本よりすごく遅れた国、というのが最初の印象でしたが、どのくらい遅れているのかよくわからない不思議な印象を受けました。いまではそれがある意味普通なのだとわかるのですが。周りを見れば、恐ろしいほどの貧困、犯罪、不衛生の蔓延した社会でした。人口の半数以上はまともに初等教育すら受けられず、最下層からの脱却の希望のほとんどない淀んだ社会でした。貧困層は健康で文化的な最低限度の生活にはほど遠い生活をしていました。

 話はそれますが、その時気づいたことは、国民の人権を守るのは結局のところ国家権力である、ということでした。貧困層が教育、医療、衛生、治安などのすべての面から政府から放置され、そこにはギャングによる支配がありました。同国人によると地元暴力団(外国のそれとのつながりは不明)の縄張りとなっていて政府が立ち入れない領域になっている、とのことでした。

 国家権力とは人権を侵害するもので、国家権力を制限することが人権尊重につながり人々はハッピーになる、というそれまで私が信じてきたリベラル世界観が完全に覆された瞬間でした。実際、当時の西側先進国から評判の悪かった強権的な支配者ほど、同国人からは支持を集めていました。少なくとも治安は維持されるのです。治安が不安定なことほど庶民を苦しめるものはないのです。治安が保たれることが、健康で文化的な最低限度の庶民生活を維持するための必要条件であることを皮膚感覚で理解しました。治安を保つことができる確固とした国家権力が確立されていることはその必要条件です。その国家権力が国民の人権を尊重するか侵害するかは次の段階なのです。

日本はなぜ先進国になれたのか?

 歴史には全くの無知であった私は、いったいこの国は日本よりどのくらい遅れているのだろうかと考えたものです。高度経済成長期、終戦直後、戦前などどの時代の要素も含んでおり、どの時代と答えは見つかりませんでした。自動車や冷蔵庫、エアコンはもとよりパソコンなどもお金さえあれば普通に手に入りましたし、中流以上の人々(人口比ではとても少ないのですが)は皆携帯電話を持っていました。一方でそのような現代文明の恩恵に全くあずかれない、まさにディッケンズの小説に描かれているような下層階級の人々が同じ視野に入るのです。インターネットで世界とやり取りする人のすぐ横には文字の世界からも取り残された人々がいました。近代の最先端と近代の入り口はるか前で歴史が止まってしまったような世界が隣り合う不思議な世界でした。そして実はそれが多くの発展途上国の現状であることに後になってわかったのです。

 そのような国々と距離的にはさほど離れていないのになぜ日本は先進国になれたのか、という疑問を抱き始めました。当然、明治維新に行き着きます。日本から司馬遼太郎の著書を随分送ってもらって読みました。しかしなぜ日本が明治維新を成しえ、近代化ができたのかについては謎のままでした。坂本龍馬らの天才的な人物の関与も大きかったでしょうが、それだけでは説明できないように感じました。幸運が大きく左右したことも間違いないと思います。

日本が植民地化を免れたのは幸運によるもの?

 日本は当時の帝国主義の列強から最も離れた国でした。そのため列強が日本周辺の国々で行ってきた手口を学習し、備えることができました。しかしながら、日本が幸運にも植民地化を逃れ、近代化に成功できたのは地の利だけによるものではありませんでした。非常に限られた情報を基に、当時の国際環境を理解できる人が日本にはいました。その俊英の言葉を理解でき、徳川体制の下でも日本という国を考えることができ、日本が独立を保ち発展していくためにはどのような仕組みを作るべきか考えることができる人々が多数いました。当然幕府の高官にも勝海舟のような人はいましたが、多くは決して身分の高くない下級武士でした。

 政治的なリーダーだけではありません。産業革命にはいたっていませんでしたが、織物など多くの分野で工場制手工業が発達していました。商業でも、北海道の昆布が上方で普通に手に入り、江戸で上方の下りものが手に入るような流通システムが出来上がり、独自に為替システムを発展させるなど、高度に発達した商業システムが出来上がっていました。また化学肥料こそありませんでしたが、干鰯や金肥など施肥や千歯扱きなどの農具の発展により農業生産性は向上していましたし、メンデル遺伝学や交配こそ知られていませんでしたが品種改良も行われていました。朝顔などは江戸時代に多くの品種が生まれています。また、当時世界で最も人口の多い都市の1つであった百万都市江戸の人々は上水道から水を得ていました。

 上記のように、維新後の動力革命による産業革命こそ外から持ってこられた技術ではありましたが、それを直ちに自分のものにしていく土台はすであったのです。ちょうど、戦国時代の日本人が火縄銃を瞬く間に自分のものとしたように。庶民の衛生観念や識字率など、文化レベルも高く、幕末から明治初期に日本に来た外国人は皆、驚きを持って記述しています。

社会の土台ができていた

 このように見ると、幕末にはすでに日本は世界の最先端とはいえないとしてもそれに近い進んだ文化レベルを持っていたことがわかります。社会の文化や学問レベルを三角形に例えてみます。頂点はある社会のエリートたちの文化レベル、底辺は一般庶民の文化レベルに例えます。様々な社会を比較するとその頂点の高さが高い社会もあればさほど高くない社会もあります。一方、頂点と底辺が近い社会もあれば非常に離れている社会もあります。

 江戸時代末期の日本における三角形頂点の文化や学問のレベルはヨーロッパと比べてさほど低かったわけではありませんし、底辺の文化レベルはヨーロッパと比べてもむしろ高いほど、非常に高かったのです。すなわち頂点と底辺が高いレベルで近いところにある社会であったといえるのではないでしょうか。当時の一般庶民の識字率は日本が非常に高いレベルにあったそうです。お隣のChinaは確かにその頂点は日本と同等であったかもしれませんが、一方で底辺の人々は文字にも縁のない生活をしており、頂点と底辺の距離が極めて離れた非常におおきな三角形の社会であったのでしょう。

 このように日本が地の利を生かして幸運を生かして近代化に成功した理由は、つまるところその土台ができていた、ということだと思います。頂点だけでなく底辺の文化レベルが高かったのは近代化に成功した大きな要因だったのでしょう。そうすると日本が近代化に成功した理由を考えるためにはなぜ庶民の文化レベルが高かったのかについて考えなければならないことになります。