文明の生態史観
おわかりの方も多いと思いますが、「民度の生態史観」というタイトルは梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」をもじったものです。大学生のころ本書と出会い、強い感銘を受けました。封建制度を経た西欧と日本などの第一地域は巨大帝国が発達したChinaや中東など第二地域と比べて、発展の速度が速かった、というものです。しかしなぜ第一地域では封建制度が成立したのでしょうか。梅棹論では第二地域の周縁部とだけありますが、同じく周縁部でも朝鮮半島や東南アジア、ロシアなどでは見られません。なぜ日本と西欧なのでしょうか。またさらなる疑問として、なぜ封建制度がその後の発展につながったのでしょうか。そして私の個人的経験による独断と偏見を通してみると、第1地域の民度は総じて高く、第2地域の民度は総じて低いという印象があります。
封建制度とは何かと問いだせば、多くの歴史書を紐解かなければいけなくなりそうですが、ここではとりあえず御恩と奉公で結ばれた主従関係が幾つも層をなし、またその関係に世襲があったものとします。当時ほぼ接点がなかった洋の東西で、詳細に見ると異なる点は多いものの、ほぼ同時期に封建制度として括ることのできる似たような制度が成立したのは何とも興味深く感じます。
封建制度がなぜ文明の発達に寄与したのでしょうか。思いつくのは競争社会であったということでしょうか。それもあるのかもしれません。しかしここではいったん封建制度とは離れて地形と国の規模から考えてみたいと思います。
地形による支配領域の制約
さてある領土と領民を持つ国を考えたいと思います。戦国時代の国のようなものを考えてください。その国はほぼ自給的でその国の人口はその国で生産される食糧の量で決まるとします。したがって食糧生産量=人口扶養力です。また戦国時代以前は百姓が農閑期に弓や刀を持って戦をしたとのことですが、単純化のために、兵隊は兵隊、百姓は百姓であったとし、兵隊の数で兵力が、百姓の数で労力が決まり、それらの和を国力とします。すなわち国力=人口=兵力+労力です。また国力のうち兵力に割く割合を兵力係数、労力に割く割合を労力係数とすると、兵力=兵力係数×人口、労力=労力係数×人口です。つまり兵力係数+労力係数は1です。
それぞれの国は隣接する国を征服して自国をより大きくしようとするものとします。その時に次の2つの仮定を考えます。遮るものがない平野部に隣接する国がある場合、勝敗は兵力の大小で決まるものとします。砦などを造って防御を固めますが、そのために割く人員は兵力とみなします。そうすると戦の勝敗は、結局兵力の大小で決まります。
国と国との間には山脈や海という天然の防壁が存在するときは、攻めるほうが不利になります。このような障壁を超えて戦をするために余分にかかる兵力を防御効果とします。すると、兵力(攻撃側)>兵力(防御側)+防御効果でなければ攻撃しても征服することはできません。防御効果は急な山や渡河の難しい川ほど大きくなります。したがって山脈など超えて隣国を征服するには隣国との兵力差が防御効果以上となることが必要となります。
上記のような仮定の上で、同じ平野に複数の国が存在する場合を考えると、兵力の多寡が周辺の国を征服するか、逆に征服されるかを決めるので、長期的な成長は無視しても短期的な兵力増強が必要となります。1つの平野の中に国が複数存在しても、短期的に優劣がきまるので、1つの国に征服されていくことになります。そのようにして、1つの平野や盆地が1つの国に征服されてしまうとどうなるでしょうか?
隣国とは防御効果の大きい山脈などを隔てて接することになります。隣国との国力=人口が同等であれば、兵力係数を高めて兵力で優位に立つのは難しくなります。したがって労力を増やして人口扶養力を増やすことで人口=国力をまず高めるという長期的戦略が必要となります。このように考えると、山がちの日本では1つの勢力が抜け出して強い中央政権をつくることが難しいことがわかります。戦国時代のような小邦が相対峙しながらも一定の均衡の上に共存する状態が出来やすかったのでしょう。
支配者と被支配者のWin-Win関係
領主としては、隙あらば攻め入ろうとする隣国に対して一定の兵力は置く必要がありますが、長期的な国力の成長を考えると、労力係数も高めたい。労力係数と兵力係数のバランスが必要でした。そこで生産性の向上が至上課題となるのです。多くの戦国大名が信玄堤のような治水事業を行ったことからも明らかです。
それだけではありません。長期的かつ持続的な生産力増強を考えると、収奪ではなく領民(百姓)の生産意欲の向上こそが重要となります。この時代はまだ、可耕地がすべて開墾されていたわけではなく、百姓たちは近隣の国に逃散することもあったということです(百姓から見た戦国大名、黒田基樹)。こうなると国力はがた落ちです。領主側としては百姓に領内に定着してもらってご機嫌に生産活動をしてもらう必要がありました。
北条早雲ら多くの戦国大名らの取った施策もまさにそこに気づいていたことを示唆しています。彼ら先進的な戦国大名により、中間搾取者が排除されて領主による領民の直接支配に変わっていきました。検地によって、年貢は一種の契約に基づいたものとなりました。もちろんそれは甘いものではなかったでしょうが、年貢として納める分以外は百姓の取り分となる、今でいうインセンティブが働く結果となったのは間違いありません。そのことはつまり、百姓にとっては創意工夫して頑張れば報われる社会になったということを意味します。
百姓が生産に精を出してくれれば国力増強につながるため、領主にとってはWinです。一方、年貢で納める以上の生産量が百姓の取り分となることが保証され、治水などを通じて百姓の側の繁栄を後押しするものであれば、そのような領主を戴くことは領民にとってもWinです。このようにして、領主と領民のWin-Win関係が生まれたのではないかと思います。そして被支配民にもWinが期待できることが、頑張れば報われる、という生産意欲につながり、その後の発展の起爆剤となったのではないでしょうか。
このような領主と領民がWin-Win関係を構築できるような小邦が分立できたのは、上に述べたように、一強が出にくい地形によるものと思われます。加えて第2地域の大帝国の力が直接及ばないということも不可欠でした。島国で山がちの地形は、しばしば日本が持つ地形的なハンディキャップのように言われますが、この地形こそが日本の発展を生んだのではないでしょうか。