木を見て森を想う

断片しか見えない日々の現象を少し掘り下げてみたいと思います。

木を見て森を想う

2020-10-25 18:00:00 | 初めに

「木を見て森を見ず」とは細部にこだわって全体がみえていないこと戒める言葉です。俯瞰的な視点から全体像を見ることの重要性は分かっていても、部分を見てわかった気になってしまう、というのは誰にもあることだと思います。ただ、全体像を見るというのはときにとても難しいものです。「群盲象をなでる」状況に陥っている可能性もあります。数名の目の不自由な人が象の体の一部を撫でて、脚を撫でた人は柱のようだと言い、尾を撫でた人は綱のようだと言い、鼻を撫でた人は木の枝のようだと言い、耳を撫でた人は扇のようだと言い、腹を撫でた人は壁のようだと、撫でた部分によって何に触っているのかばらばらだということです。森が見えるというのはもしかしたらとても思い上がった物言いであるのかもしれません。葦の髄から森を見渡そうととしていることは、常に心にとめておきたいと思います。

反面、1本の木を詳細に観察するとその森がどんな森か見えてくることがあります。その木にどんな鳥や昆虫がよってくるのか、その鳥や昆虫は何を餌とするのか、他の森でその木はどんな姿をしているのか、など仔細に観察すると、森の全体像がおぼろげながら浮かび上がってきます。

私たちが住む世界は大きな森です。その森の全体像を見ることは至難の業のように思えます。でも、その理解のためには全体像を明らかにすることは不可欠です。様々な現象の断片を仔細に眺めることにより、森の姿が見えてくればよいなと考えます。当初はタイトルを「木を見て森を探る」としようかとも考えていましたが、実証的な考察ができるわけでもなく、また勝手な想像(妄想?)に終わる場合もある、というか大抵そうなので、時事ネタなどを基に思いをはせたいと考えています。