バイク歴 【3時限目:20代後半のバイクライフ】
↓↓↓ 《今日からタイトル変更》 ↓↓↓
ああ!青春の日々第三弾【25~30歳代の頃】
スズキに入社して7年目に激震が起きた!それはその年起きた伊豆大島の大噴火よりも大きなことだった。ナント!自分の勤務する新橋営業所を建直しテナントビルにすると言うのだ。
この国道15線(第一京浜)沿いの東新橋スズキビルの立地場所は今の汐留の高層ビル群のすぐまん前で新橋や銀座の入口でとても良い場所だった。その上、昭和61年当時はバブルに向かってまっしぐらだったこともあり二輪ディーラーよりもテナントビルになることは当然のことだった。
その半年後には取り壊される昭和61年4月新橋営業所に一人の新卒者が入社して来た。
その男とは当社(株)ワースワイル取締役である大前雅春だった。
大前とは来年4月でナント!まる20年の付き合いの腐れ縁である。
この男、かなりの天然でとてもオモロイ!
ウサギは寂しいと死んじゃうと聞いたことがあるが、大前は喋っていないと死んでしまうらしい!
入社後サービス工場内でも黙っていられないらしく『ウォッ!』『なんだこれ!』『チキショー!』なんてのは日常茶飯でいつもギャーギャー&ブツブツと独り言を言っていた。そんな大前が諸先輩方に『お前(大前)黙って仕事出来んのか!』と言われると、スグサマ『オーマエ(大前)ゴット!』とレイザーラモン級に両手を挙げる始末である。その後、諸先輩方にシメられたことは言うまでもない。
そんなある日、大前が『実はもう仕事が辛くて辞めたいのですが』と早々入社一ヶ月も経たない4月下旬に5月病を発病した【ツワモノ】だった。
もちろんすぐさま新橋ガード下の焼き鳥に大前と行き、社会人のなんたるかをトクトクと教え込み即復活!
その後、煮豚足のウマイ屋台に移り、私の食べつくした煮豚足の骨を美味そうにしゃぶりつき『これが豚足ですか~!ウマイけど食うとこネ~!』と喋ってました!
この大前、生まれも育ちも浅草橋場。近くにはの吉原、山谷、泪橋が近く、実家は今でも呉服屋さん。べしゃり口調は江戸弁まる出しの【べらんめー】で最近の人で例えるなら、TVでやってたビートたけしの親父【菊次郎】そのまんま!
いよいよ昭和61年の11月にビル解体が始まり、同時に世田谷の上野毛のスズキ自販東京(4輪)の営業所に移転し、その自販一部を間借りして私ともう一人(石井と言う麻布のボンボンで、今は世田谷の下馬でアシストと言うバイク屋をやっている)の二名だけで城南地区のスズキ車の修理を一手に引き受けていた。
やはりバイクブームの時代にサービスマン二人だけで城南地区全域はとても辛い仕事でした。前回も話したが、当時はスズキが絶好調(世の中バブルで何もかもが絶好調)でRG400&500ΓにGSX-R750とスズキが一番輝いていた時期に、城南地区のサービスマン二人の毎日は地獄の日々だったのは言うまでもない。
この頃マスターのバイクライフは4気筒マルチにも飽きてきて、もっとバイクらしいバイクを追求していたところスズキGR650という2気筒のバイクが目に止った。このGR650はとても不思議なバイク。
外観はアメリカン、しかしエンジンはバーチカルビックツインのDOHCエンジン。
このGR650はフライホイールに遠心クラッチが着いていてアイドリング~2,500rpmまではフライホイールがクランクシャフトに繋がっているが、それ以上の回転ではフライホイールを離してレスポンスを良くするなんて気の利いた可変マスなんて機構が付いていた。
このフライホイールはどのエンジンにも付いているが、効果があるのはシングルやツインエンジンの低回転域をスムーズにカバーする為に、特に大きく重いフライホイールが装着されている。ハーレー等が信号待ちで『ドドッ ドドッ ドドッ ドッ』なんて今にも止まりそうで止まらないアイドリングしているのはこのフライホイールが大きくて重い物が付いているからです。
このフライホイールも低速域ではとてもありがたいシロモノなんでが、高速回転時にはかなりのやっかい物になってしまうんです。
特に5,000rpm以上の高回転域だと惰性が付きすぎてしまい、アクセルをONからOFFにしたときにフライホイール慣性が利き過ぎてしまい回転が下がってくれない(ハーレー、ドラッグスター、スティードなどのようにレスポンスの悪さが露呈されてしまう)
この様な部分を克服したのが可変マスのGR650でした。←これはかなり凄いことなんですよ!
有名バイク雑誌のモトライダーがBOTT(バトルオブツイン)に出場するのにGR650を選び、かの有名なPOP(ヨシムラ)にエンジンチューンを頼んでBOTTに出場し,優勝したなんてこともありました。
このGR650には特に思い入れがあり2台も乗り継ぎました。このGR650は何故かこんな凄いエンジンを搭載してるのにもかかわらずアメリカンだったので、F19incとR16incのホイールにFシングルディスク、Rドラムブレーキと足廻りは大タコで何故かリヤサスだけはフルフローター(スズキ自慢の1本サス)と凄いのかダサいのかわからんバイクだった。
この大タコ料理はとても苦労した。F廻りをGSX750E-1のステムSET&フォーク&ブレーキでRサスはヨシムラカヤバ。そして肝心のホイールですがやはりレトロ調にしたかったので前後18incスポークでキメキメすると決めてハブ探しから始めた。
FはGS750のハブですぐ決まったが、リヤはディスクにするのかドラムのまま行くのか決めかねていたところ、目の前にサベージ650の車検があり、このリヤホイールハブ使えそうだなと思い、早速GR650に組んだところブレーキパネルやスプロケットハブもそのままボルトオン!
最後にその頃発売されたてのエクセルアルミリム(ブルー)のF2.50incとR3.00incでキメキメに決めた。
外装はスズキに勤めていたこともあり、あまり派手に出来なかったのでシートだけ張り替えてGSX400Fのテールカウルを付け、外装をシルバーにして完了。
マフラーはノーマルのメガホン2本出しがカッコ良かったので、エンジンセッティングだけした後に排圧調整だけした。このGR650は乗るのもイジクルのもどちらもとても楽しかったですね!良き時代でした。
世田谷上野毛出張所時代も約1年で終了し、今度は新宿のスズキ二輪東京の本社勤務を命ぜられスズキ時代の一番華やかな時代に突入しました。役職も主任⇒係長⇒課長代理⇒課長と当時の株価のような出世っぷりで、仕事も本社サービス責任者、スズキ車の広報担当、二輪整備士の講師、警視庁納入担当、新商品説明講師など多忙な毎日でしたが、夜は何時に終わろうとも誘われることも多く、特に本社経理の女子達にも人気があって毎日のように飲みに行っていたことも付け加えておきましょう。(自画自賛)
バイクはGR650の他にもGSX-R750、DR600S、RGV250Γ等いろいろと乗り継ぎました。しかしこの時代はバイクの価格もバブルと同じに高騰してGSX-R750RRは160万円ですよ!ホント良き時代の最終章でしたね…
30歳を目の前にして絶好調だった人生も、バブルの崩壊と時を同じくして元気だった実姉が平成元年に末期癌と診断された。
寝たきりだった親父も姉が末期癌になったことを悔やみ悩んでいた。
その親父も姉の亡くなる数ヶ月前に突然心筋梗塞にて他界し、たぶん親父は娘が旅立つ前に先に逝って天国で姉を迎え入れる準備をしたのだろう…
他界した姉はまだ31歳で、子供(姪っ子)は3歳だった。
就職してからここまで順調にバブルの良き時代と共に(しかしバブルの恩恵を受けずに)来たはずのマスター人生にもバブル終焉とともに陰りが見え始めてきた。
いよいよ【スズキ退職 ⇒ 独立】と、激動の第四弾【30~35歳代の頃】に乞うご期待
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ああ!青春の日々第三弾【25~30歳代の頃】
スズキに入社して7年目に激震が起きた!それはその年起きた伊豆大島の大噴火よりも大きなことだった。ナント!自分の勤務する新橋営業所を建直しテナントビルにすると言うのだ。
この国道15線(第一京浜)沿いの東新橋スズキビルの立地場所は今の汐留の高層ビル群のすぐまん前で新橋や銀座の入口でとても良い場所だった。その上、昭和61年当時はバブルに向かってまっしぐらだったこともあり二輪ディーラーよりもテナントビルになることは当然のことだった。
その半年後には取り壊される昭和61年4月新橋営業所に一人の新卒者が入社して来た。
その男とは当社(株)ワースワイル取締役である大前雅春だった。
大前とは来年4月でナント!まる20年の付き合いの腐れ縁である。
この男、かなりの天然でとてもオモロイ!
ウサギは寂しいと死んじゃうと聞いたことがあるが、大前は喋っていないと死んでしまうらしい!
入社後サービス工場内でも黙っていられないらしく『ウォッ!』『なんだこれ!』『チキショー!』なんてのは日常茶飯でいつもギャーギャー&ブツブツと独り言を言っていた。そんな大前が諸先輩方に『お前(大前)黙って仕事出来んのか!』と言われると、スグサマ『オーマエ(大前)ゴット!』とレイザーラモン級に両手を挙げる始末である。その後、諸先輩方にシメられたことは言うまでもない。
そんなある日、大前が『実はもう仕事が辛くて辞めたいのですが』と早々入社一ヶ月も経たない4月下旬に5月病を発病した【ツワモノ】だった。
もちろんすぐさま新橋ガード下の焼き鳥に大前と行き、社会人のなんたるかをトクトクと教え込み即復活!
その後、煮豚足のウマイ屋台に移り、私の食べつくした煮豚足の骨を美味そうにしゃぶりつき『これが豚足ですか~!ウマイけど食うとこネ~!』と喋ってました!
この大前、生まれも育ちも浅草橋場。近くにはの吉原、山谷、泪橋が近く、実家は今でも呉服屋さん。べしゃり口調は江戸弁まる出しの【べらんめー】で最近の人で例えるなら、TVでやってたビートたけしの親父【菊次郎】そのまんま!
いよいよ昭和61年の11月にビル解体が始まり、同時に世田谷の上野毛のスズキ自販東京(4輪)の営業所に移転し、その自販一部を間借りして私ともう一人(石井と言う麻布のボンボンで、今は世田谷の下馬でアシストと言うバイク屋をやっている)の二名だけで城南地区のスズキ車の修理を一手に引き受けていた。
やはりバイクブームの時代にサービスマン二人だけで城南地区全域はとても辛い仕事でした。前回も話したが、当時はスズキが絶好調(世の中バブルで何もかもが絶好調)でRG400&500ΓにGSX-R750とスズキが一番輝いていた時期に、城南地区のサービスマン二人の毎日は地獄の日々だったのは言うまでもない。
この頃マスターのバイクライフは4気筒マルチにも飽きてきて、もっとバイクらしいバイクを追求していたところスズキGR650という2気筒のバイクが目に止った。このGR650はとても不思議なバイク。
外観はアメリカン、しかしエンジンはバーチカルビックツインのDOHCエンジン。
このGR650はフライホイールに遠心クラッチが着いていてアイドリング~2,500rpmまではフライホイールがクランクシャフトに繋がっているが、それ以上の回転ではフライホイールを離してレスポンスを良くするなんて気の利いた可変マスなんて機構が付いていた。
このフライホイールはどのエンジンにも付いているが、効果があるのはシングルやツインエンジンの低回転域をスムーズにカバーする為に、特に大きく重いフライホイールが装着されている。ハーレー等が信号待ちで『ドドッ ドドッ ドドッ ドッ』なんて今にも止まりそうで止まらないアイドリングしているのはこのフライホイールが大きくて重い物が付いているからです。
このフライホイールも低速域ではとてもありがたいシロモノなんでが、高速回転時にはかなりのやっかい物になってしまうんです。
特に5,000rpm以上の高回転域だと惰性が付きすぎてしまい、アクセルをONからOFFにしたときにフライホイール慣性が利き過ぎてしまい回転が下がってくれない(ハーレー、ドラッグスター、スティードなどのようにレスポンスの悪さが露呈されてしまう)
この様な部分を克服したのが可変マスのGR650でした。←これはかなり凄いことなんですよ!
有名バイク雑誌のモトライダーがBOTT(バトルオブツイン)に出場するのにGR650を選び、かの有名なPOP(ヨシムラ)にエンジンチューンを頼んでBOTTに出場し,優勝したなんてこともありました。
このGR650には特に思い入れがあり2台も乗り継ぎました。このGR650は何故かこんな凄いエンジンを搭載してるのにもかかわらずアメリカンだったので、F19incとR16incのホイールにFシングルディスク、Rドラムブレーキと足廻りは大タコで何故かリヤサスだけはフルフローター(スズキ自慢の1本サス)と凄いのかダサいのかわからんバイクだった。
この大タコ料理はとても苦労した。F廻りをGSX750E-1のステムSET&フォーク&ブレーキでRサスはヨシムラカヤバ。そして肝心のホイールですがやはりレトロ調にしたかったので前後18incスポークでキメキメすると決めてハブ探しから始めた。
FはGS750のハブですぐ決まったが、リヤはディスクにするのかドラムのまま行くのか決めかねていたところ、目の前にサベージ650の車検があり、このリヤホイールハブ使えそうだなと思い、早速GR650に組んだところブレーキパネルやスプロケットハブもそのままボルトオン!
最後にその頃発売されたてのエクセルアルミリム(ブルー)のF2.50incとR3.00incでキメキメに決めた。
外装はスズキに勤めていたこともあり、あまり派手に出来なかったのでシートだけ張り替えてGSX400Fのテールカウルを付け、外装をシルバーにして完了。
マフラーはノーマルのメガホン2本出しがカッコ良かったので、エンジンセッティングだけした後に排圧調整だけした。このGR650は乗るのもイジクルのもどちらもとても楽しかったですね!良き時代でした。
世田谷上野毛出張所時代も約1年で終了し、今度は新宿のスズキ二輪東京の本社勤務を命ぜられスズキ時代の一番華やかな時代に突入しました。役職も主任⇒係長⇒課長代理⇒課長と当時の株価のような出世っぷりで、仕事も本社サービス責任者、スズキ車の広報担当、二輪整備士の講師、警視庁納入担当、新商品説明講師など多忙な毎日でしたが、夜は何時に終わろうとも誘われることも多く、特に本社経理の女子達にも人気があって毎日のように飲みに行っていたことも付け加えておきましょう。(自画自賛)
バイクはGR650の他にもGSX-R750、DR600S、RGV250Γ等いろいろと乗り継ぎました。しかしこの時代はバイクの価格もバブルと同じに高騰してGSX-R750RRは160万円ですよ!ホント良き時代の最終章でしたね…
30歳を目の前にして絶好調だった人生も、バブルの崩壊と時を同じくして元気だった実姉が平成元年に末期癌と診断された。
寝たきりだった親父も姉が末期癌になったことを悔やみ悩んでいた。
その親父も姉の亡くなる数ヶ月前に突然心筋梗塞にて他界し、たぶん親父は娘が旅立つ前に先に逝って天国で姉を迎え入れる準備をしたのだろう…
他界した姉はまだ31歳で、子供(姪っ子)は3歳だった。
就職してからここまで順調にバブルの良き時代と共に(しかしバブルの恩恵を受けずに)来たはずのマスター人生にもバブル終焉とともに陰りが見え始めてきた。
いよいよ【スズキ退職 ⇒ 独立】と、激動の第四弾【30~35歳代の頃】に乞うご期待