【本日の2時限目:20歳代前半の頃】
スズキ入社2年目ですぐ20歳になった時に激務が待っていた! 昭和56年(1981年)スズキが満を持して初の400ccマルチGSX400Fを販売したが… このバイクには泣かされたね!
クランクシャフトのコンロッドビックエンド部の焼付きが多発した。原因は都内の渋滞路を走ることによるオーバーヒートでオイル温度の上昇によるオイル粘度低下が招いた焼付きだった。
来る日も来る日も、毎日GSX400Fのクランクシャフトとコンロッドの交換に、メタル粉がピストンスカートに噛み込みシリンダーピストンも交換する始末。
そこにオーバーヒートでオイル下がり(バルブステムシール)でのバルブO/S交換が加わったり、ステーターコイルも熱による焼け爛れでの交換など1台の規定工数はゆうに8.9時間にプラスバルブオーバーホールが入ると12.1時間になる。
当初は丹念に規定工数通りに1台1台仕上げていたが、やれどもやれども入工するので、総工程を5時間程で出来るようになった。音を聞けばピストン交換が必要かもだいたい判ったしピストン交換が必要でなければ、カムシャフトを外した段階でヘッドを開けずにエンジンを裏返してクランクケースを開けクランクシャフトと各メタルを交換した。
400ccマルチエンジンの自重は100kg近くあり、そこにGS650Gという小カタナも同じ症状があった。この2台を常に一人で積み下ろしをやりエンジンO/Hしたおかげでこの昭和56年~57年の2年間でギックリ腰は合計4回もやった!
しかしこの2年間はとても充実していた。特にエンジンに関してのウンチクや構造が否が応でも覚えてしまった。
スズキ入社後のバイクライフで一番印象にあるのはなんと言ってもGSX750E(赤ベコ)のオーナーになった時の印象は強烈極まりないものだった。
友人のCB750FZを圧倒的なパワーで凌駕した! 特にエンジンに関して言えば、どうしたら一番パワーが出るか等もメーカーからの情報を得ていたので、それをもちろん施していた。
★ 純正 1mmオーバーサイズピストン組み込み
★ シリンダーヘッド0.5mm面研
★ バルブ及び、IN&OUTマニホールドの鏡面仕上
★ バルブクリアランスを音の出ない範囲での一番広めに設定
★ カムチェーンの自動調整機能を作動させなくし、暖季後ロック
★ インレットホースの拡大とMJ及びPJ番数UP及びJN調整
★ マフラーを初期ロッド2,000台のテールパイプ径のデカイ物に交換
等々外見はハンドルがコンチに変わっていた他はノーマルのGSX750E当時はグロス馬力で68psのバイクがマスターチューンによりシャシーダイナモでの後輪出力(ネット)は81psも出ていた! 最高速もトップで吹け切ってしまうのでフロントスプロケを1丁上げてもまだ吹け切っていた。(当時は180kmだった為計測不能だが、メーター振り切っては真下を向いていたことは間違いなかった)
当時は本当にバイクブームで特にロードレースやモトクロスはとても華やかでマスターもモトクロスは付き合いで草レースをかなりやっていました。千葉県浦安市のディズニーランドができる前の場所はどこでも走れたので毎週走っていた。
サーキットやモトクロスをやっていた関係でスズキの筑波走行会でも先導車をやったり、スズキのモトクロッサー【RM】シリーズの発表会などでも先導車をやったりしてとても楽しい時代であったことは間違いなかった。
世間もバブル景気に向かってまっしぐらだったので国民意識レベルはアパートに住んでても中層階級意識が蔓延し、男性の首には金100gの首輪にロレックスがベタ流行という感じだった中でバイクの値段も高騰し、イントルーダー750の限定車が100万円で、GSX-R750R(乾式クラッチ)が107万円とバブル全盛期に突入していった良き時代でした。
スズキに在籍していたマスターも、RG400γ&500γにGSX-R750が激売れで4月の末に賞与時期でもないのに10万円も金一封が出たりしました。この頃は新橋営業所に勤めていたので夜飲んでタクシーで帰ろうものならタクシー待ちは1時間以上はザラで、どこかの通りでタクシーを捕まえることなんて全く出来ない時代でした。
とまあマスターの20代前半はバイク全盛期で尚且つバブルに向かっての本当に良き時代でした。マスターはサラリーマンだったのでバブル景気で儲かったことは体験していないが、バイク全盛期にスズキという大メーカーで仕事が出来たことは今の自分を形成する上で、とても重要な時期を良い会社で過させてもらったと思っている。
ワースマスター
スズキ入社2年目ですぐ20歳になった時に激務が待っていた! 昭和56年(1981年)スズキが満を持して初の400ccマルチGSX400Fを販売したが… このバイクには泣かされたね!
クランクシャフトのコンロッドビックエンド部の焼付きが多発した。原因は都内の渋滞路を走ることによるオーバーヒートでオイル温度の上昇によるオイル粘度低下が招いた焼付きだった。
来る日も来る日も、毎日GSX400Fのクランクシャフトとコンロッドの交換に、メタル粉がピストンスカートに噛み込みシリンダーピストンも交換する始末。
そこにオーバーヒートでオイル下がり(バルブステムシール)でのバルブO/S交換が加わったり、ステーターコイルも熱による焼け爛れでの交換など1台の規定工数はゆうに8.9時間にプラスバルブオーバーホールが入ると12.1時間になる。
当初は丹念に規定工数通りに1台1台仕上げていたが、やれどもやれども入工するので、総工程を5時間程で出来るようになった。音を聞けばピストン交換が必要かもだいたい判ったしピストン交換が必要でなければ、カムシャフトを外した段階でヘッドを開けずにエンジンを裏返してクランクケースを開けクランクシャフトと各メタルを交換した。
400ccマルチエンジンの自重は100kg近くあり、そこにGS650Gという小カタナも同じ症状があった。この2台を常に一人で積み下ろしをやりエンジンO/Hしたおかげでこの昭和56年~57年の2年間でギックリ腰は合計4回もやった!
しかしこの2年間はとても充実していた。特にエンジンに関してのウンチクや構造が否が応でも覚えてしまった。
スズキ入社後のバイクライフで一番印象にあるのはなんと言ってもGSX750E(赤ベコ)のオーナーになった時の印象は強烈極まりないものだった。
友人のCB750FZを圧倒的なパワーで凌駕した! 特にエンジンに関して言えば、どうしたら一番パワーが出るか等もメーカーからの情報を得ていたので、それをもちろん施していた。
★ 純正 1mmオーバーサイズピストン組み込み
★ シリンダーヘッド0.5mm面研
★ バルブ及び、IN&OUTマニホールドの鏡面仕上
★ バルブクリアランスを音の出ない範囲での一番広めに設定
★ カムチェーンの自動調整機能を作動させなくし、暖季後ロック
★ インレットホースの拡大とMJ及びPJ番数UP及びJN調整
★ マフラーを初期ロッド2,000台のテールパイプ径のデカイ物に交換
等々外見はハンドルがコンチに変わっていた他はノーマルのGSX750E当時はグロス馬力で68psのバイクがマスターチューンによりシャシーダイナモでの後輪出力(ネット)は81psも出ていた! 最高速もトップで吹け切ってしまうのでフロントスプロケを1丁上げてもまだ吹け切っていた。(当時は180kmだった為計測不能だが、メーター振り切っては真下を向いていたことは間違いなかった)
当時は本当にバイクブームで特にロードレースやモトクロスはとても華やかでマスターもモトクロスは付き合いで草レースをかなりやっていました。千葉県浦安市のディズニーランドができる前の場所はどこでも走れたので毎週走っていた。
サーキットやモトクロスをやっていた関係でスズキの筑波走行会でも先導車をやったり、スズキのモトクロッサー【RM】シリーズの発表会などでも先導車をやったりしてとても楽しい時代であったことは間違いなかった。
世間もバブル景気に向かってまっしぐらだったので国民意識レベルはアパートに住んでても中層階級意識が蔓延し、男性の首には金100gの首輪にロレックスがベタ流行という感じだった中でバイクの値段も高騰し、イントルーダー750の限定車が100万円で、GSX-R750R(乾式クラッチ)が107万円とバブル全盛期に突入していった良き時代でした。
スズキに在籍していたマスターも、RG400γ&500γにGSX-R750が激売れで4月の末に賞与時期でもないのに10万円も金一封が出たりしました。この頃は新橋営業所に勤めていたので夜飲んでタクシーで帰ろうものならタクシー待ちは1時間以上はザラで、どこかの通りでタクシーを捕まえることなんて全く出来ない時代でした。
とまあマスターの20代前半はバイク全盛期で尚且つバブルに向かっての本当に良き時代でした。マスターはサラリーマンだったのでバブル景気で儲かったことは体験していないが、バイク全盛期にスズキという大メーカーで仕事が出来たことは今の自分を形成する上で、とても重要な時期を良い会社で過させてもらったと思っている。
ワースマスター