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テンプル騎士団の無念

2011年08月06日 | 徒然

自由・平等・博愛のシンボルが曇ってどうにも気になって仕方がないので翻訳をリクエスト
「テンプル騎士団の無念とフランスへの失望はどうやったら解放されるのでしょうか? 」


テンプル騎士団の処刑されたメンバーは
黒い影となってフランス上空にぐるぐると渦巻いたまま天に帰ることもできず
重たいエネルギーとなって漂っています。

自分たちの目指したもの、自分たちが守れなかったもの、自分たちが信じてきたものが、
権力の前では何の力もなさなかったと失望の思いで一杯なのです。
彼らが唯一恐れたものが権力だったのです。
それゆえ、その権力に屈することとなったのは自明のことでしょう。

「彼らが目指したもの、守りたかったもの、信じてきたものとはなんでしょう?」

彼らが真に守りたかったもの、それは彼らの目指す大義でした。

彼らは彼らの教義に忠実でありたかったのです。
彼らの教義とは
自分たちこそがイエス=キリストに選ばれた者たちであり、
自分たちの教団こそが唯一の正義と真実を遂行するために存在しているのだ、
すなわちイエスの血を守り続けるために存在する、
その誇りを守るためには権力に迎合しなければならない
と、本来の大義からどんどんと方向性を見失っていったのです。

人は守られなくてはいけないのでしょうか?
守ることが必要なのでしょうか?
「守る」という意識こそが「自分は強く守らなければならない存在は弱いものだ」と限定し、
「守らなければならない存在」と思った時点で
その人が本来持っている光や強さといったものを外に出すことができなくなるのです。

誰かや伝統や言いつけを「守る」・・・
その守る行為こそ、そのものや人に自分自身を縛りつけ、
守ろうとする者も守られる対象となるものも雁字搦めになっていく行為に他なりません。
つまり「守る」という行為には必然的に恐れが結びついてしまうのです。

マグダラの恐れによってテンプル騎士団に託されたイエスの血は、
それを「守らなければならない」という恐れにテンプル騎士団自体を結びつける行為となったのです。

「恐れ」が元となって始まったものは、恐れを引き寄せることにつながります。
彼らが台頭し力をつけていった時も、
「権力」や「お金」を求め、それは愛から起因するものではなかったのです。

「テンプル騎士団が学んだものはなんだったのでしょうか?」

彼らはフランスに裏切られ、失望したように感じているのでしょうが、
彼らの肥大した「権力」「お金」を求めるエゴの領域、
そして自分たちは「選ばれた者たちである」という特権意識、
それらはフランスの貴族社会を象徴するものでしたが、
どんどんと時代の流れから、重い波動ゆえ取り残されていきました。

貴族階級の者たちも自分たちのエネルギーも重く
いずれ階級制度自体がなくなってゆくであろうということを危惧し、
その反映としてテンプル騎士団を追い詰めていく結果となりました。

つまり恐れから発するものは、
いずれその恐れのエネルギーによって淘汰されてしまうのだということなのです。

人は誰かに守られなくても安全で安心なのです。
それは大いなるものを信頼することができるからです。

人の持つ恐れのエネルギーは重く、歴史の中で渦巻き、恐れが怖れを呼び、
自分一人が恐れただけのことであっても、加速度的に他の恐れのエネルギーを引き寄せてしまいます。

人の肉体の中に残ったネガティヴな波動は
たとえ肉体がなくなったとしてもその地に残ってしまうのです。
ネガティヴなエネルギーを拾ったとしても、
そのネガティヴなエネルギーを昇華させ、その地のエネルギーを変えることができるのは
生きてその地に存在する人々の力なのです。

今、生きて肉体を授かっている者たちにできることは、
常に愛を選択し、喜びに満ち、笑顔を絶やさないでいることなのです。

その愛の波動で地球上に残った無念や失望といった想いをクリアリングしているのです。
 
≪聖母マリア≫


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