今日は68回目の終戦の日ですね、新聞には「終戦記念日」と書いて有るけど、誕生や結婚記念日なら解るけど、多くの忌まわしい犠牲者を出した戦争には記念日など相応しくない、ただ終戦を迎えた時、日本中、不安と安堵の気持ちがあっただろう
私は戦争を知らない世代です、でも父は中国に狩り出され、捕虜生活を送らされ昭和21年帰還した、突然痩せた姿で帰って来て、母は驚きと安堵で腰を抜かしたと聞いた
父からは一度も戦争の話を聞いた事が無かった、ただ中学生の時、「ソ連に仇を取りに行く」と話したことがあった、聞いて、次は一人で行かす訳に行かないから付いて行こうと漠然と思ったものでした、でも日本は成長を遂げ、平和な世の中に成りました
私と同じ様な境遇で生まれた人々が「団塊の世代」と呼ばれ、日本の成長の礎となり、頑張って今が有るのかな?
東京暮らしの時、田舎から母方の祖父母が上京し、東京見物で観光バスに同行した事があった、靖国神社に寄った時、おじいちゃんから「お前の叔父さんはここで眠っているんだぞ」と云われた、母の弟が南方で戦死したのだった
政府関係者が毎年、靖国参拝に中国や韓国から文句が来るが同胞に敬意を払うのは間違ってはいないだろう、問題は祀られた人たちの中にA級戦犯がいる事、でも同じ日本人なのにと思うが?!
父が子供の頃、一緒に暮らした従兄弟のTさんが東京で大学生の時、学徒動員された、昭和20年8月4日、沖縄海域で人間魚雷「回天」の搭乗員として、暗闇で出撃、亡くなった
その時の様子を知りたくて調べてみた、100発以上の爆雷を浴び潜水艦は電源が壊れたり酸素が不足したり、修羅場のような状況に陥り潜水艦を守る為にもTさんは出撃を要請し、艦長も月も無く見通しが悪かったが4基全てに出撃の命令を出し、最初にT少尉が出撃し間もなく爆音がして次が発進、3,4号は爆雷の衝撃で発進出来ず、出撃出来なかった二人は、助かったという気持ちと無念と云う気持ち、言いようの無い気持だったと回想していた
アメリカ側の記録ではアメリカ艦艇の下、10m位の所を通過して自爆した模様だった、それから11日後、終戦となった
出撃に当たり父母に当て人生記録を遺した、一部に「・・死そのものは簡単なるものなり。されど死を決意し、それに着手する人間の心理過程は、決して簡単なるものでも、容易なるものでもない。それを苦しみながら、経た結論に到達する。それは、人間という一事である」22歳の最期だった
一度きりの人生、二度と繰り返えさない平和な社会が良いに決まってる!
私は戦争を知らない世代です、でも父は中国に狩り出され、捕虜生活を送らされ昭和21年帰還した、突然痩せた姿で帰って来て、母は驚きと安堵で腰を抜かしたと聞いた
父からは一度も戦争の話を聞いた事が無かった、ただ中学生の時、「ソ連に仇を取りに行く」と話したことがあった、聞いて、次は一人で行かす訳に行かないから付いて行こうと漠然と思ったものでした、でも日本は成長を遂げ、平和な世の中に成りました
私と同じ様な境遇で生まれた人々が「団塊の世代」と呼ばれ、日本の成長の礎となり、頑張って今が有るのかな?
東京暮らしの時、田舎から母方の祖父母が上京し、東京見物で観光バスに同行した事があった、靖国神社に寄った時、おじいちゃんから「お前の叔父さんはここで眠っているんだぞ」と云われた、母の弟が南方で戦死したのだった
政府関係者が毎年、靖国参拝に中国や韓国から文句が来るが同胞に敬意を払うのは間違ってはいないだろう、問題は祀られた人たちの中にA級戦犯がいる事、でも同じ日本人なのにと思うが?!
父が子供の頃、一緒に暮らした従兄弟のTさんが東京で大学生の時、学徒動員された、昭和20年8月4日、沖縄海域で人間魚雷「回天」の搭乗員として、暗闇で出撃、亡くなった
その時の様子を知りたくて調べてみた、100発以上の爆雷を浴び潜水艦は電源が壊れたり酸素が不足したり、修羅場のような状況に陥り潜水艦を守る為にもTさんは出撃を要請し、艦長も月も無く見通しが悪かったが4基全てに出撃の命令を出し、最初にT少尉が出撃し間もなく爆音がして次が発進、3,4号は爆雷の衝撃で発進出来ず、出撃出来なかった二人は、助かったという気持ちと無念と云う気持ち、言いようの無い気持だったと回想していた
アメリカ側の記録ではアメリカ艦艇の下、10m位の所を通過して自爆した模様だった、それから11日後、終戦となった
出撃に当たり父母に当て人生記録を遺した、一部に「・・死そのものは簡単なるものなり。されど死を決意し、それに着手する人間の心理過程は、決して簡単なるものでも、容易なるものでもない。それを苦しみながら、経た結論に到達する。それは、人間という一事である」22歳の最期だった
一度きりの人生、二度と繰り返えさない平和な社会が良いに決まってる!