関東地方のど真ん中、古河という所で私は生まれ育った。茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉の5つの県にまたがり、利根川・渡良瀬川に沿ってその古河市という町はある。そして現在も長年にわたりその古河に私は住んでいる。途中13年ばかり町を離れてはいるけれど、やはり古河っ子に変わりはない。
この町の歴史は古い。万葉集にもすでにその地名は2首も詠まれているので、単純に計算しても1200年前には古河は存在していたことになる。
城下町だけあってこの町の特筆すべき点は多い。市内はおおまかにいって駅を境に西と東に二分される。その西側がそっくり昔は古河城下であった。
私の小さい頃は旧城下町だけあって、この西側には十字路というものがなかったような気がする。あるのは丁字路か鍵の手。Y字路は少しはあったように記憶はしているが。駅西の日光街道の十字路も、さらに少し北に進んだ十字路も、以前はどちらも丁字路であった。
だから世の中に十字路という道路の存在を知った時にはびっくりした。あれはたしか中学生だった頃。東京中心部を初めて歩いた時、その道路の広さに驚いたが、それよりも私をびっくりさせたのは十字路のなんと多いこと。これでは車と車がぶつかってしまうではないかと本気で思ったことも今は遠い思い出。
古河は城下町だから当然お城はあったが、その規模はたしか東西800m、南北2200mというスケールで、関東でも群を抜いての敷地であった。北西から西、南、東とすべてが水に囲まれ、北側は武家たちのお屋敷。わずかに東側の水の先だけが商家、民家が立ち並んでいたようである。その町並みに敵軍が押し寄せてきた時に、丁字路や鍵の手の道ばかりなら敵もきっと攻めにくいだろうという思いから町並みを作ったのだと思う。
残念なことは、これだけの規模の古河城であったが、明治維新と同時にすべて取り壊され、渡良瀬川の河川を変更し、その跡地の中心部は今は川底となってしまったことである。
今こうして車を走らせながら往時をふと偲んでみる。そして時にではあるが、その城下町古河の武家屋敷跡地や城の跡地などにも車を走らせる。
そんな時、この古河に生まれ育ってよかったなと何気に思う。古河はこれからも、私がいなくなった後でさえしっかりと歴史を刻んでいくことと思う。
「つれづれ(78)城下町古河とその町並み」