世の中、当て字がたくさん出まわっている。
人の名前ならいざ知らず、一般表記で使う場合は、時としてイヤだなと思える場合がある。
短歌の世界でよく目にするのが「夫」だ。
「夫」と書いて「つま」と読ませる。どうもしっくりしないので、私はまだ一度も使ったことがないのだが。
ふ、ふう、おっとという読み方はあるが、「つま」とは正式にいえば読まない。これは当て字である。だが、万葉集にも「つま」として読んでいる例があるので、認められてはいないが、文芸界の習慣としては使われてもいるのだろう。文字数の関係や使いやすさ、言葉の響きなどが要因だと思う。
「秋桜」と書いて「コスモス」と読ませるのは困ったものだ。
コスモスの和名を秋桜(あきざくら)というのだから、読み方もそれだけでよいとは思うのだが。当て字なので、植物の事典をみても、「あきざくら」とは読むが、「コスモス」とは書いてない。
「女」と書いて「ひと」も同様。
じょ、にょう、おんな、め、むすめ、めあわす、なんじとは読むが、「ひと」とは読まない。やはり当て字だ。
いつから「ひと」と読ませるような当て字になったのか調べてみた。意外と古い。
最初の使用はなんと大正11年(1922年)、西條八十が「海辺の墓」という詩集を出したが、その中の「おもいで」という詩に使ったのが最初ということがわかった。
西條氏はやはり大詩人だ。99年も前の当て字が今でも使われている。瞳を「め」とも読ませている。
私は女「おんな」としか使ってはいないのだが。
その舞台となった能登の伏木へ行ってみたが、私は大詩人ではないので、女をひとというイメージには近寄れなかった。
おもいで
向日葵を
一輪持った女(ひと)でした
やさしい声でひそひそと
僕に話をしてくれた
七尾から伏木(ふしき)へわたる船の中
十四の夏のひとり旅
わかれた浜の白い雲
ああ その瞳(め)さえ忘られぬ
向日葵の
母さんに似た女でした
「海辺の墓」 西條八十
「つれづれ(38) 当て字」