我が家の「みかんの木」にも花が咲きました。
実になったのは、昨年は10個未満だった。
収穫が待ち遠しいです(笑)
みかんの花咲く丘は、第二次世界大戦の終戦直後に生まれた、日本を代表する童謡の名作の1つとして知られる。1946年8月25日に発表された。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實による。レコードは、猪口小夜子が吹き込んだもの(1947年7月・キングレコード、表記は「みかん花咲く丘」)と、川田正子が吹き込んだもの(1947年〜1948年頃・日本コロムビア)が存在する。
「戦後生まれの童謡の中では最大のヒット曲」とも称される。
「みかんの花咲く丘」誕生秘話
1946年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京・内幸町の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶ、ラジオの「二次放送」が行われることになった。放送には当時12歳で人気絶頂の童謡歌手であった川田正子が出演することになっており、作曲家の海沼實が川田が歌う曲の作曲を任されていたが、前日の24日になっても作品は仕上がっていなかった。そこへ音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が、川田の取材のため、海沼が滞在していた川田宅を訪ねてきた。海沼は加藤に事情を説明し、必要な歌詞の大まかな流れを加藤に説明した上で、その場で作詞するよう加藤に求めた。
加藤はまず主題から検討した。放送の行われる静岡から加藤がまずイメージしたのは、みかんであった。しかし当時、サトウハチロー作詞の『リンゴの唄』が並木路子と霧島昇の歌唱で大ヒットしており、みかんの実の方を扱えば加藤の先輩にあたるサトウハチロウから「二番煎じ」と嫌味を言われるおそれがあった。8月はみかんは実がなっている季節であったが、あえて実ではなく、花の方を主題とすることに決め、海沼が指示した流れにみかんの花が咲く情景を盛り込む形で、1番と2番にあたる部分を完成させた。3番も作るよう求められた加藤は、自らの体験を元に3番を書き足し、海沼の依頼から約30分で歌詞を完成させた。
原稿を受け取ると海沼はGHQで詞の検閲を受け、検印を受けるとすぐに伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲を始めた。車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと前奏が浮かび、伊東線の宇佐美駅付近でようやく曲が完成した。宿に着くと海沼は川田とともに入浴し、作ったばかりの旋律を口移しで川田に教えた。翌日の放送では川田はまだ歌詞を覚えておらず、海沼が名刺の裏に書いた歌詞を見ながら歌う、という慌ただしさであったが、歌は日本全国に大反響を呼び、『みかんの花咲く丘』は、日本を代表する童謡作品となって、現在にいたるまで広く歌い継がれている。
① みかんの花が咲いている 思い出の道丘の道
はるかに見える青い海 お船がとおく霞んでる
② 黒い煙をはきながら お船はどこへ行くのでしょう
波に揺られて島のかげ 汽笛がぼうと鳴りました
③ いつか来た丘母さんと 一緒に眺めたあの島よ
今日もひとりで見ていると やさしい母さん思われる
みかんの花咲く丘/川田正子
この歌は大好きです。
レコードも懐かしいです。
秘話も勉強になりました。
有難うございます。
竹千代 拝
遥か昔良く歌いました、懐かしいですよね。
みかんの花を見て、この歌を思い出しました。
本当に懐かしいですね。
誕生秘話もこれまた面白いですね。
よろしくお願いいたします。
79歳ですか~。嫌だなぁ。
自分が高齢になって来ると、死が遠くに感じない。
さて、少し元気の出る話を書きますね。
1)今年の秋に霞ケ浦一周をやるかもしれません。ヒロバッタさんやシンさん、ゆうのさん、池上君もまだ行って無いんです。あきさんは車を(大きい方)処分した様ですけど、車輪行も有かも。
前回の様な大勢にはしないつもりです。ランチが大変なので。
2)ヒロバッタさんが21、22日が休みだそうでサイクリングどうかな?と言ってます。私は日曜はダメなので、土曜日に1票入れます。
鴻巣でポピー祭りが有るそうです。
詳細はこれから相談です。
本日、コメント閉じています❗️
79歳は早いですね。
秋ですか、楽しみに待ってます。
鴻巣はその頃が見頃と思っていますが、一足先に様子見して来ようかと思います。
同世代。 懐かしいです。
コメントいただき有り難うございます。
懐かしいですね😊
今は学校では歌っていないでしょうね?