晴れた休日は自転車に乗って! (akio)

古希も過ぎた爺の「気楽な自転車散歩」やチョット頑張った「サイクリング」の備忘録(ボケ防止かな?)

2019 平林寺の紅葉

2019年11月20日 16時51分39秒 | ポタリング・サイクリング・自転車

9時に歯医者、終わって9時20分です。

出たついでにと思ったが、北風強し、遠くまで行きたくない!!

少し走って「金山緑地公園」に来る。

モミジ」はまだまだだった。

風に揺られる「ススキの穂」が何気に綺麗だったりして・・

秋も深まったのだね・・


でも、このまま帰りたくない!!

近場の「紅葉」って・・この前の様子ではまだ早そうだったけれど・・・

平林寺」に行ってみます。(平林寺の境内の野火止用水も見たいし・・・)

平林寺界隈に到着、「睡足軒」もこの前と比べ見頃となって来ています。

でも、今日は「休館日」だったので、外から覘く。


では期待して平林寺」に行きます。

駐輪場は少し離れてます。


数分歩いて「総門」です。

毎年思うが「入山料」の500円は少々お高いと思う(笑)

境内の「お散歩コース」も相当縮小されたし・・・

山門」までの通路です。

紅葉」した「モミジ」を適当に撮りまが、一部を除きチョット早いですね。


境内にあるさざれ石」です。

さざれ石(細石、さざれいし)は、さざれ石は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化した「石灰質角礫岩」を、日本の国歌である「君が代」の歌詞にある巌(いわお)であるとして、この岩を指してさざれ石と呼ぶことも少なくない。  


仏殿」前です。

本殿」も「鐘楼」にも規制がかかり行けません。


ちらっと「野火止用水」を・・

 


 「放生池」に映る「モミジ」。(もっと紅葉していれば綺麗かも・・)

ひっそりと佇む「平和観音」です。

こちらも行けません。(昨年は行けた場所、紅葉していないから良いけれど・・)

またまた出現、「野火止用水」です。


モミジ山」手前の辺りも全く「紅葉」していません。

そして「モミジ山」です。

まぁまぁですね。

チョットだけアップ。

モミジ山」の横の、外周道も行けません。(昨年は行けました。)

当然ですが、反対側もです。


そして「野火止塚」に行ました。

高さは6mあるそうです。

野火止塚(九十九塚)
この野火止塚は、和名抄に見る火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものか、定かではないが、野火の見張台であったとする説が有力である。それは、この塚が古くからこの平野の名所にあって、その名残りを留めていた事でも判る。


続いて松林を歩いて行くと「業平塚」です。

業平塚(在原業平が京より東口への東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある)
江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮り止むるために築きたりしもののなるべきを、後世好事の人、伊勢物語によりて名付けなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいわく「むさし野にかたり伝えし在原のその名を忍ぶ露の古塚」とあるが、この歌碑は今はない。


では、今まで行った事が無い、東の端まで行ってみます。

突き当たると、新座駅方面が見えました。

そして、歩いて行くと・・

歴代塔所」が出現しました。

先ほど、歩いていて陰から紅く見えたのはココだったのか。

また、行き止まりを回避して歩く。


そして「松平伊豆守信綱」のお墓へ。

智恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱は、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎といい、同六年、久綱の弟で徳川家一門である「長沢松平」氏を相続していた松平正綱の養子となり、同九年七月に家光が誕生すると、信綱は召し出されて家光附の小姓となった。
元和六年(1620)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、「大河内松平」を興した。同年五百石、同九年小姓組番頭となり、加増されて八百石を知行。
同年七月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位伊豆守に叙任した。
寛永元年(1624)信綱は二千石となり、同四年には一挙に八千石の加増をうけて一万石を領した。さらに同七年には五千石を加増されている。
この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は、家光の絶大な信頼を得ていた。家光政権の確立の中で、同年十一月に信綱は老中並となり、安倍忠秋・堀田正盛らとともに六人衆に任ぜられ。
幕政に参画する。ついで十年五月、信綱は一万五千石加増の上、武蔵忍城主となり三万石を領し、さらに十二年十一月には信綱は忠秋・正盛とともに老中となった。
こうして信綱は旗本から、幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。
寛永十四年十月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。
その功によって同十六年川越城に転封され、三万石の加増をうけて六万石を領した。同二十年、侍従に進み、正保四年(1647)一万五千石を加増され、その所領は合せて七万五千石となった。信綱は三代将軍家光、四代家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今の名相とも謳われる一方、郷土の発展につくした功績も大きく、のちの小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運をおこしたり、川越街道の整備なども行っている。また、承応四年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行った信綱は、この野火止台地開発とともに所領の野火止村に、菩提寺である岩槻から移転させることを切望したが果たせず、寛文二年(1662)三月十六日に逝去した。享年六十七歳。法名は松囃子院殿乾徳全梁大居士。初め、岩槻の平林寺に埋葬されたが、この輝綱が父信綱の遺命を守り、翌三年に平林寺の伽藍および墓石にいたるまで、現在地に移建したため、改葬されたものである。(新座市教育委員会・平林寺掲示より)


では退散とします。

 「放生池」には鯉が・・・

そして「野火止用水」に流れています。


外から見るより境内は「紅葉」していました。

近いので、もう一度来るかも・・・

 


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2 コメント

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Unknown (h-miwa57)
2019-11-22 14:31:40
akioさん

良い景色ですねぇ~。
ご一緒したいくらいですが、電動の爺チャリですのでついて行けません。
画像たけで楽しませていただきます。
yuki
返信する
Unknown (y54akio)
2019-11-22 16:19:11
あき→yukiさまへ
全体的に少し見頃には早かったですので、良いとこ撮りです。
近場は一般道を通るのでゆっくり走りますよ。良い画が撮れれば良いのですが、難しいですね。
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