今日10月1日は、年始から274日目、年末まであと91日。
画像はガウガメラの戦い。
紀元前331年
ガウガメラの戦い。アレクサンダー大王がペルシア帝国を破る。
ティグリス川上流、現在のイラク北部と推定されるガウガメラにおいて、アルゲアス朝
(マケドニア王国)およびコリントス同盟の連合軍とアケメネス朝の戦いである。
アレクサンドロス3世(大王)率いる連合軍(以下「マケドニア軍」)がダレイオス3世
率いるペルシア軍を破った。アルベラの戦いともいう。
この戦いはガウガメラとアルベラ付近で起こったものであるが、主戦場がガウガメラだった
ため、厳密にはガウガメラの戦いが妥当である。
※コリントス同盟※
もしくはヘラス同盟は、 マケドニア王フィリッポス2世(アレクサンドロ
ス3世(大王)の父)がカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍
に勝利した後の紀元前337年にコリントスで結成させた同盟。
スパルタを除くギリシアの全ポリスが加盟した。
コリントス同盟の加盟国は自由な自治が認められ、相互不可侵の平和条約が
締結された。しかし、現存政体の変更、負債の帳消し、土地の再配分、奴隷解
放は不可とされるなど、この同盟はギリシア北方の目家ドニア王国がギリシア
南部を支配しやすくするための同盟でもあった。
コリントス同盟により、ペルシア戦争でギリシアに多大な損害をもたらした復讐
としてペルシア討伐が決議され、各ポリスはそのために兵士をマケドニア王国
に派遣した。この兵士たちは人質の役目も果たした。
フィリッポス2世が暗殺された後は、その息子であるアレクサンドロス大王が
コリントス同盟の盟主を引き継いだ。
アレクサンドロス大王がペルシア討伐の東方遠征を開始し、グラニコス河の
戦いでペルシア帝国軍を破った際には、ペルシア兵の武具をアテナイのパル
テノン神殿に献上した。
また、ペルセポリスの宮殿を炎上させ、アテナイを焼き払ったことへの復讐を
成し遂げた。
その間、ギリシア本土はマケドニア王国の圧倒的な軍事力を背景にしたコリン
トス同盟によって、平和が訪れていた。
コリントス同盟はアレクサンドロス大王の死後、ラミア戦争(紀元前323年-紀元
前322年)まで続いた。
※ガウガメラの戦い※
イッソスの戦いのあとの2年間にアレクサンドロスは地中海沿岸地方とエジプト
を制圧した。その後彼はシリアからペルシア帝国の心臓部に攻め入り、ユーフラ
テス川とティグリス川を抵抗なしに渡った。
ダレイオスは帝国中から軍勢を集め、大軍を編成、数でアレクサンドロスを打ち
破ろうとし、現代の歴史家の推定では、ペルシア軍の軍勢は約20万人から25
万人程度と考えられている。ダレイオスは自軍の数的優位と戦車隊を生かすこ
とのできる平原を戦場に選んだ。
古代の記録では、アレクサンドロスの兵はマケドニアおよびっコリントス同盟以
外にトラキアなどの同盟諸国から合計7千人の騎兵と4万人の歩兵を数えたと
される。
ダレイオスの軍勢については100万人とするものもあれば、25万人程度とする
ものもある。ダレイオスの軍勢は当時の軍の能力で効率的に補給を行える限度
である5万人を超えなかったとする歴史家もいるが、10万人以上であった可能
性もある。
ある推定では、2万5千人のペルタスト、1万人の不死隊、2千人の重装歩兵、
1千人のバクトリア兵、4万人の騎兵、200両の戦車、15頭の戦象がいたと
される。
ペルシア軍は数的にははるかに優勢だったが、質的にはマケドニア軍に劣った。
マケドニア軍のファランクスはサリッサと呼ばれる6メートルの長さの槍で武装
していた。ペルシア軍の歩兵は大半が訓練不足であり、装備でも劣った。
ダレイオスの重装歩兵はギリシア人傭兵と、近衛兵である1万人の不死隊だけ
だった。ギリシア人傭兵はファランクスとして戦ったが、その槍は3メートルしか
なく、不死隊の槍にいたっては2メートルしかなかった
(訓練不足の兵士にいたずらに長い槍を与えても使用は不可能であり、槍の長
さは同時に兵士の練度の指標でもある)。
ダレイオスの残りの部隊の中ではアルメニア人部隊が最も重装備で、ギリシア
人傭兵部隊と同程度だった。他の部隊ははるかに軽装で、アケメネス朝ペル
シアの主要な武器である弓矢で武装していた。
両軍の配置
開戦前
ペルシア軍は先に戦場に到着した。ダレイオスは事前に戦場の樹木を刈り払
って戦車部隊の障害とならないようにしておいた。
軍勢の中央にはダレイオスと最精鋭の歩兵部隊が布陣した。
両翼は騎兵部隊であり、左翼をベッソス、右翼をマザイオスが指揮した。
戦車隊は騎兵の前に配備された。
マケドニア軍は二手に分かれた。右翼はアレクサンドロス自ら指揮し、
左翼はパルメニオンが指揮した。左翼が敵の攻撃を支えている間に右翼
から決定的な打撃を与える計画であった。
騎兵戦力はペルシア軍に5対1の比率で劣り、しかも布陣の長さは1マ
イル以上もペルシア軍の方が長いため、マケドニア軍がペルシア軍に包囲
されるのは不可避に見えた。
アレクサンドロスの戦術は歴史上でもまれなものだった。
まずペルシア軍の騎兵をできるだけ多く引き付け、敵戦線に裂け目を作り出し、
そこから中央のダレイオスを直接攻撃する計画だった。
しかしこの戦術には完璧なタイミングと機動が要求され、大王自ら動く必要が
あった。
マケドニア軍中央は前進したが、両翼は逆に45度の角度で後退し、ペルシア
軍の騎兵の格好の標的となった。イッソスの戦いでの経験からダレイオスは最
初に動きたくなかったが、このマケドニア軍の動きによって先に攻撃を仕掛けざ
るを得なくなった。
まず戦車隊が攻撃を開始したが、マケドニア軍は戦車に対する防御戦術を編み
出しており、この攻撃は効果がなかった。
ペルシア軍がマケドニア軍の両翼を攻撃するため進撃するのに応じて、アレクサ
ンドロスも攻撃に出た。彼は自分の率いる部隊をくさび状に編成し、自ら突撃の
先頭に立った。その後ろには援護のため軽装歩兵が続いた。
アレクサンドロスは騎兵の大半を率いてダレイオスの前線と並行に移動し、戦場
から離れていった。ダレイオスは前線の騎兵にアレクサンドロスを食い止めるよう
に命じた。この騎兵はアレクサンドロスの後衛の軽装歩兵に防がれ、アレクサンド
ロスはペルシア軍に向かって急転回して、ベッソスの左翼とダレイオスの中軍の
間にできた裂け目に突入した。
アレクサンドロスの騎兵は続いていまや弱体化したペルシア軍の中軍を襲い、
ダレイオスの近衛兵とギリシア人傭兵部隊を撃破した。
左翼のベッソスはダレイオスから切り離されてしまい、アレクサンドロスの騎兵
に攻撃されるのを恐れて退却した。
ダレイオスも包囲されるの恐れて退却したが、そのためペルシア軍の中軍は
潰走することとなった。
アレクサンドロスはダレイオスを追撃するつもりだったが、パルメニオンから必
死の救援を求める伝令に接した。マケドニア軍が崩壊する危険を犯してまで
追撃を続けるか、左翼を救援するかの選択に迫られたアレクサンドロスは結局
パルメニオンを救援し、その後でダレイオスを追撃することにした。
マケドニア軍の左翼と中央の間に大きな裂け目ができており、ペルシア軍の中
央にいたペルシア騎兵とインド騎兵はその裂け目からマケドニア軍の戦線を突
き破ったが、彼らは背後に回りこむよりも、マケドニア軍の宿営地に進軍して物
資を略奪するほうを選んだ。
ダレイオスの中軍が崩壊したので、マザイオスもベッソス同様退却を始めたが、
彼の部隊はまもなく潰走状態となった。
戦闘が終わると、パルメニオンの部隊はペルシア軍の補給部隊を制圧する一方、
アレクサンドロスはダレイオスを追撃したが、ダレイオスはベッソスらと合流して
逃れることができた。アレクサンドロスはバビロンに入り、まもなく大王と称する
ことになる。
ダレイオスは東部で軍を再編成しようとしたが、ベッソスに裏切られて殺された。
ここにアケメネス朝は滅びた。
959年
ウェセックス家の王族エドガーがイングランド王に即位した。
のちにエドガー平和王と称された。
※ウェセックス家※
5世紀以降、イングランド南部に建国したウェセックス王国を支配、
9世紀にはイングランド全土を支配したアングロサクソン人の王家。
始祖の名から、セルディック家ともいわれる。
965年
ローマ教皇にヨハネス13世が即位。
※ヨハネス13世※
ローマ教皇(在位:965年10月1日- 972年9月6日)。
出自はローマ貴族のクレシェンツィ(クレッシェンティウス)家。
教皇レオ8世の死(965年の2月 - 4月)ののちに選出される。
これは神聖ローマ皇帝オットー1世の同意を得たもので、皇帝・ローマ貴族
両者の歩み寄った結果の人選であったが、皇帝側からの支援を受けている
ことでローマ貴族側からは嫌われていた。
そのため965年12月に反乱が起きて一時的に追放され、966年11月ま
でローマに戻れなかった。
帰還後、ヨハネス13世はマクデブルク大司教区の設立を含む教会機構の
改革を皇帝とともに行った。さらに、東ローマ帝国や東方正教会の影響を排
除するために南イタリアでの幾つかの大司教区の設置もした。
967年の降誕祭の日、オットー2世を副帝として戴冠した。
これは東西両教会の和睦ないし統一を目論んでの行為であったとされる。
オットー2世はのちに東ローマ皇女テオファヌとの結婚も行っている。
ヨハネス13世の死については、ヨハネス12世と同じく、密通相手の夫に
よって殺されたという逸話が残っている。
1553年
メアリー1世がイングランド王に戴冠。
※メアリー1世(1516年2月18日-1558年11月17日)※
イングランドとアイルランドの女王。
(在位:1553年7月19日-1558年11月17日)
ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(カスティーリャ女王
イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)との娘として、グリニッジ
宮殿で生まれた。
スペイン王フェリペ2世と結婚。イングランド国教会に連なるプロテスタン
トに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と
呼ばれた。
不安定な身分
王妃キャサリン・オブ・アラゴンは4度の懐妊に失敗していたが、5度目の
懐妊でメアリーを出産した。メアリーの名は、叔母メアリー王女(ヘンリー7
世の末子)にちなんだものだった。
当初は男児誕生を願っていたヘンリー8世も、娘が健康であると知ると「イン
グランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として跡継ぎと見なし、鍾愛
した。養育係としてブランタジネット家男系最後の生き残りであるマーガレット
・ポールが任命された。
1519年、ヘンリー8世は庶子のヘンリー・フィッツロイが生まれると、この男児
をただちにリッチモンド公爵に叙している。ヘンリー8世の父ヘンリー7世が
即位前にリッチモンド伯爵だったことからもわかるように、この叙爵は庶子に
対するものとしては破格のもので、この子が正嫡でないことへの無念さがそこ
には見て取れる。
一方メアリーに対しては、プリンス・オブ・ウェールズに相当する王女として
「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号が用いられたものの、そこに世継ぎと
しての法的な根拠は付与されなかった。
ヘンリー8世はメアリーの幼児期を通して常に、メアリーと然るべき名家の男子
との縁談を模索していた。当初はフランスの王子を検討し、2歳の時にフランソ
ワ1世の王子フランソワと婚約したが破談になった。
1522年、6歳の時に16歳年上の従兄である神聖ローマ皇帝カール5世と婚約
したが、再び破談となった。
再度フランスと、ということでフランソワ1世の第2王子アンリ(のちのアンリ2世)
との婚約を模索したが首尾よく行かなかった。しかし、少女期のメアリーは非常に
美しく、魅力的であり、そのことは他国にも伝わっていたという。
メアリーが9歳になる頃には、キャサリンとの間にもうこれ以上の子はできない
ことが明らかな情勢となっていた。男子を切望するヘンリー8世は、寵愛する
アン・ブーリンと再婚するためにキャサリンとの婚姻無効を宣言、これとともに
メアリーからは世継ぎの地位ばかりか王女の身位までが剥奪されて庶子と
された(第一継承法)。ヘンリー8世はメアリーに「両親の結婚は間違いだった」
と認めさせようとしたが、拒否されている。
やがてアン王妃が第2王女エリザベスを産むと、アンはメアリーに対して名目
上の「プリンセス・オブ・ウェールズ」となったエリザベスへの臣従を強要したが、
メアリーはエリザベスを「妹としては認めるが、王女としては認めない」と突っぱ
ねた。怒ったアンはメアリーを強引にエリザベスの侍女の身分におとしめ、自身
の叔母の監視の下、幽閉状態に置いた。
アンが王妃の間を通じてヘンリー8世はメアリーとの面会は拒絶している。
アンはかつての愛人だったノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーに対して、
メアリーを殺すつもりだと話していたことが知られている。またアンの裁判では、
複数の者がメアリーの毒殺未遂があったことを証言している。
この時期、ハートフォードシャーで幽閉状態にあったメアリーは病気がちであり、
養育係のポールや侍女、侍従たちと引き離された彼女にとっての唯一の相談
相手かつ庇護者だったのは、神聖ローマ帝国及びスペインの駐英大使だった
ウスタシュ・シャビュイであった。
メアリーがヘンリー8世と再会したのはアンが処刑されたときだった。
次の王妃ジェーン・シーモアとの関係は良好であった。
ジェーンはヘンリー8世とメアリーが和解することを強く望んだ。
ヘンリー8世の和解条件は、ヘンリー8世がイングランド国教会の長である事、
そして両親の結婚が無効であることを認めることであった。
当初、メアリーはこれを拒絶したが、メアリーの境遇の安定のためにシャピュイ
と神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)の説得により、渋々
この条件を受けいれた。
メアリーは宮廷に戻り、かつて王女として持っていた財産と侍女らも戻され、
ボーリュー城などが住居として与えられた。
(メアリーの前の城主はアン・ブーリンの弟のジョージだった)。
ジェーンが王子エドワードを出産すると、メアリーはこの王子の洗礼の代母役を
務めた。その一方で、メアリーはエリザベスと共に庶子として扱われ続けた。
このことに対し、メアリーを王女の地位に戻すことを求めた反乱(恩寵の巡礼)が、
かつてのメアリーの侍従であったスリーフォード男爵ジョン・ハッセーによって
起こされた。ハッセーは処刑されたが、メアリーはこの件に不関与とされ、罪に
問われることはなかった。
1539年、プファルツ=ノイブルク公フィリップから求婚を受けるが、プロテスタント
であることから断っている。この頃、ヘンリー8世はメアリーを王妃不在時の宮廷
の「女主人」として扱うようになっていた。
ヘンリー8世が晩年に6番目の王妃としたキャサリン・パーは、家族の絆を大切
にすることに心を砕き、まだ幼少のエドワードとエリザベスを自らのもとで養育す
るとともに、4歳年下の「娘」のメアリーにも心を砕いた。
こうした努力が実り、健康を害して近い将来の死を悟ったヘンリー8世は、エドワ
ードがまだ幼くひ弱な体質であることを危惧して、1543年に王位継承法を改正し
メアリーとエリザベスにエドワードに次ぐ王位継承権を与えた(第三継承法)。
しかし「プリンセス」の称号は復活させず、「レディ」の称号のままであった。
果してヘンリー8世はその翌年に死去し、まだ9歳のエドワード6世が即位した。
エドワード6世の死と女王即位
エドワード6世はその短い治世を通じて、異母姉で自らの推定相続人たるメアリ
ーに対してカトリックの信仰を放棄するよう促し続けたが、母キャサリンによって
敬虔なカトリックに育てられていたメアリーはそれを拒絶し続けた。
メアリーはエドワード6世の在位中は、ほとんど宮廷に赴くことはなかった。
しかしこれは、メアリーの王位継承権が再び危ういものとなることを意味した。
病弱のエドワード6世は即位から6年後には、もう回復の見込みがないほど病床
に伏す身となっていた。
彼が後継者として指名したのは、父ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫で
従姪にあたるジェーン・グレイだったが、その背後にはこの直前に自身の子ギル
フォードをジェーンと結婚させていた野心家のノーサンバランド公ジョン・ダドリー
の暗躍があった。
エドワード6世が1553年7月6日に15歳で夭折すると、枢密院は筋書き通り
ジェーン・グレイを女王に推戴した。ノーサンバランド公はメアリーの身柄を拘束し
ようとしたが、事前に身の危険を察知したメアリーはノーフォーク公トマス・ハワー
ドに匿われ、ロンドンを脱出する。その間に7月10日にはジェーンがロンドン塔
に入城し、その王位継承が公に宣言されたが、一方のメアリーも13日にノリッジ
で即位を宣言した。
すると、メアリーのもとには支持者が続々と集結し、民衆蜂起となってロンドンに
進軍した。これを自ら鎮圧しようと兵を向けたノーサンバランド公は、逆に惨敗を
喫してしまう。これを受けて19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンド
ンに入ったメアリーは改めて即位を宣言した。
ノーサンバランド公とその子ギルフォードは、ジェーン・グレイとともに身柄を拘束
された。こうしてメアリーは名実共にイングランドの女王となった。
メアリーを支持する民衆がこのように蜂起したのは、ヘンリー8世の遺言では
王位継承権がエドワード、メアリー、エリザベスの順にあったのにもかかわらず、
これを継いだエドワード6世の遺言ではこの異母姉2人を差し置いて、プロテ
スタントであるという理由で従姪のジェーンが後継者に指名されていたことから、
それがエドワード6世の真意であることを疑い、ジェーンがノーサンバランド公
の傀儡になることを危惧したためといわれている。
エドワード6世の遺言の真偽は別として、少なくともそれを理由に民衆の蜂起を
煽ったメアリーの作戦勝ちだった。そして彼女は「イングランドで初めて広く国民
に支持された女王」になったのである。
宗教政策
敬虔なカトリック信者であるメアリー1世は、父ヘンリー8世以来の宗教改革を覆し、
イングランドはローマ教皇を中心とするカトリック世界に復帰した。メアリーはプロテ
スタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー」
(Bloody Mary) と呼ばれた。処刑された者の中には、トマス・クランマー、ヒュー・ラ
ティマー、ニコラス・リドリーらがいる。
フェリペ2世との結婚
母方からスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王家の血を引くメアリーは、結婚の相手
に従兄カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)
を選んだ。しかしカトリックの宗主国のようなスペイン王太子との結婚は、将来イング
ランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいただけに反対する
者も多く、トマス・ワイアットらがケントでエリザベスを王位に即けることを求めて蜂起
する事態となったが、反乱は鎮圧されワイアットは処刑された。
この乱に連座する形で、ジェーン・グレイらを処刑している。
この後にもいくつかの反乱が起こるが、そのいずれもがエリザベスを王位に即ける
ことを旗印にしたものだった。
メアリーは幾多の反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚
した。フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイ
ン王として即位するため本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か
月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。
フェリペとの結婚後、メアリーには懐妊かと思われた時期もあったが、想像妊娠だった
上、実は卵巣腫瘍を発症していた模様で、妊娠と思われたのはその症状だったと推測
されている。この結婚によって、イングランドはフランスとスペインの戦争(第六次イタリ
ア戦争)に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うこ
とになった(カレー包囲戦)。
悪いことづくめに終わったフェリペとの結婚の果てに、メアリーは自らの健康も害して
その崩御の時期を悟るようになった。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、
母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み
続けており、崩御の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。
メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・
ジェームズ宮殿で崩御した。メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から
解放れた日」として祝われた。
修正主義による再評価
近年、ピューリタン寄りでリベラルな従来の歴史観を批判する歴史修正主義に
よって、メアリー1世の治世に対する極度に否定的な見方は緩みつつある。
新しい角度からの視点では次のように評価されている。
メアリー1世は宗教改革に逆行してカトリックへの復帰を目指し、その過程で多く
のプロテスタントを処刑したことが非難されてきた。
しかし宗教改革はエドワード6世時代には一般社会には浸透せず、イングランド
の実質的なプロテスタント化はエリザベス1世時代以後に進んでいったものと考
えられる。
エドワード6世死去の時点では、教養ある貴族やジェントリ階層は伝統的な宗教
慣習に強い愛着を示し、一般民衆と彼らを教導する教区の聖職者もプロテスタント
の革命的な改革やその教義を理解しなかった。
カトリックへの復帰がさしたる抵抗なく行われたのはこのためだといえる。
メアリー1世の治世がもし長ければ、イングランドがプロテスタント国家にならなか
った可能性は高い。
フェリペとの結婚は、スペインによる属国化を招きかねなかったとして非難されてきた。
しかし当時はテューダー家の血を引く者のほとんどが女性であり、また国内貴族との
結婚はジェーン・グレイの例にも見られるように、貴族間の派閥争いや王家乗っ取りを
許すおそれからはばかられたという事情があった。
婚姻時の取り決めでも、フェリペのイングランド共同王としての資格はメアリーとの結婚
期間のみに限定されており、イングランド王位の継承権はフェリペとメアリーの間の子
のみに認められており、イングランドの独立性は充分に考慮されていた。
※※クイーン・メアリー※※
メアリーという名のクイーンは、他にも3人がほぼ同時代のブリテンにいた。
メアリー・テューダー
フランス王ルイ12世の王妃(1514年)。
ルイ12世との死別後、兄のイングランド王ヘンリー8世の寵臣
初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンと再婚するが、
1533年に死去するまでその称号は「ダッチェス・オヴ・サフォ
ーク」(サフォーク公爵夫人)ではなく「クイーン・オヴ・フラ
ンス」(フランス王妃)のままだった。
後にメアリー1世とイングランド王位を争って破れたジェーン・
グレイは、このメアリー・テューダーとチャールズ・ブランドン
の孫娘にあたる。
メアリー・オブ・ギーズ
スコットランド王ジェームズ5世の王妃(1538年 - 1542年)。
ジェームズ5世との死別後も、生後6日でスコットランド女王と
なった娘のメアリー・ステュアートの摂政として1560年に死去す
るまで「クイーン・ダウェジャー」(王太后)だった。
メアリー・スチュアート
スコットランド女王(1542年 - 1567年)。
この間フランス王フランソワ2世の王妃(1559年 – 1560年)
としてもクイーンだった。
メアリー女王、メアリー1世に限っても2人、メアリー・テューダーに限っても
2人が存在することになる。
1730年
オスマン帝国のスルタンであったアフメト3世がパトロナ・ハリルの乱により
退位を余儀なくされる。チューリップ時代の終焉。
※チューリップ時代※
18世紀前半のオスマン帝国の皇帝・アフメト3世の治世のうち、オスマン帝国が
対外的な領土喪失と引き替えに和平を得た1718年から、アフメト3世が廃位
される1730年までの期間を指す言葉。
「チューリップ時代」という名前は、この時期のオスマン帝国でチューリップの栽培
・観賞が盛んになったことに由来しており、後世名付けられた名称である。
元来オスマン帝国のあったアナトリア半島はチューリップの原産地の一つであった
が、17世紀の西欧でのチューリップ栽培熱(チューリップ・バブル)が、アフメト3世
時代のオスマン帝国に「逆輸入」され、チューリップの栽培が流行したことからこの
ように呼ばれる。
チューリップ栽培が流行した背景には、1718年のパッサロヴィッツ条約(オースト
リアなどとの講和条約)によってもたらされた対外関係の安定と、それに伴う国内
状況の好転が深く関係している。
首都であるイスタンブールを中心に華美な文化がもてはやされ、細密画家のレヴ
ニーが活躍したのもこの時代である。
また、イスタンブールに造営されたサーダバード離宮に見られるような、当時西欧
で流行したロココ様式に影響を受けた西洋趣味もこの時代の大きな特徴である。
これらは、表面的な単なる西洋趣味に終わったという評価がある一方で、大宰相
ネヴシェヒルリ・イビラヒム・パシャの命を受けて行われたイルミセキズ・チェレビー
のフランス訪問に見られるような、それまでのオスマン帝国にはあまり存在しなか
った、西洋の制度を「優れた」ものと認めて採り入れるという態度が登場し始めた
時代であるという評価もある。
1730年、イスタンブールで無頼の者となっていた元イェニチェリのパトロナ・ハリル
を担いだ反乱(パトロナ・ハリルの乱)が起こると、ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャ
は殺害され、サーダバード離宮は暴徒によって破壊された。
乱によってアフメト3世は廃位・幽閉され、チューリップ時代は終焉を迎えた。
※※イェニチェリ※※
14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団で、スプー
ンをシンボルにしていたことが知られている。常備軍団カプクルの中核をなし、火器
で武装した最精鋭であった。
トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。
オスマン帝国軍の軍楽、メフテルは西欧ではイェニチェリ音楽(Janissary Music)
として知られている。イェニチェリは親衛隊として、君主と食事を共にする特権を持ち、
野戦で使用される大きな鍋とスプーンをシンボルとしていた。
イェニチェリの営舎には大きな鍋が置かれ、反乱をおこすときは鍋をひっくり返した。
「なべをひっくりかえす」という言葉はトルコでは大騒ぎや反乱という意味とされる。
1795年
フランス革命戦争。
南ネーデルラントがスプリモンの戦いを経てフランスに併合。
※南ネーデルラント※
スペイン(1579年-1713年)、オーストリア(1713年-1794年)及びフランス
(1794年-1815年)により支配された低地諸国の一部の地域を指す。
時代によって、スペイン領ネーデルラント、オーストリア領ネーデルラント
とも呼ばれる。この領域は、現在のベルギーのほとんど(リエージュ司教領を
除く:ここは神聖ローマ帝国の一部であった)とルクセンブルク(現在のベル
ギーのリュクさんブール州、ドイツのラインラント=ブファルツ州の一部も
含む)と、1678年までは北フランスの一部を含んでいた。
ネーデルラントは非常に裕福であったため、負債を抱えていたハプスブルク家にとって
重要な土地であった。しかし、他のハプスブルク領と異なり、ネーデルラントは商人階級
の地位が高い土地であった。
ブリュッセルを起点とする帝国郵便が貿易網として商人へ利益をもたらしていた。
この郵便事業は、ランニングコストではなくイニシャルコストの解決を目的として、
早くから裾野広く民間の参入を許した。
スペインはハプスブルク家の戦費を徴収するために重税を課そうと試みたし、
それは昔からあるネーデルラントの特権を守るための口実ともなっていた。
これは、宗教的に非寛容で頑固なカトリック教国のスペインの統治に対する抵抗
とともに、1570年代のスペインに対するネーデルラントの反乱につながった。
18世紀初めに行われたスペイン継承戦争により、南ネーデルラントはオーストリ
ア・ハプスブルク家に継承された。
オーストリアの法律では、古くからある特権に基づいた各州の防衛というものが、
2世紀前のフェリペ2世の時と同様に、ヨーゼフ2世にとっても問題となった。
これは、1789年から1790年頃にかけて大きな反乱を引き起こした。
オーストリア領ネーデルラントは最終的にフランス革命戦争により失われ、
フランスに併合された。
続くナポレオン戦争の後、1815年のウィーン会議において、オーストリアのネー
デルラントの喪失は確定された。ウィーン体制化で、この地はアラニエ=ナッサウ
家の下に北部ネーデルラントとともにネーデルラント連合王国へ統合された。
南東のルクセンブルク大公国は、同時にドイツ連邦にも属することになったが、
これはオラニエ=ナッサウ家がライン地方に持っていた所領を巡ってプロイセン
王国との間で駆け引きが行われた結果であった。
1830年に、カトリックが優勢な南部はベルギー王国として独立した(北部はカル
ヴァン派が優勢であった)。1839年にルクセンブルクの北西の2/3の領域はベル
ギーに併合されてリュクサンブール州となった。ウィレム1世は残存地域から
なるルクセンブルク大公国の自治を承認したが、その署名自体は1867年まで
行われなかった。
オランダ(ネーデルラント)王は1890年までルクセンブルク大公であった。
しかし、ウィレム3世の死後、ウィルヘルミナ女王がオランダの王位を継承した際
に、サリカ法典に従うルクセンブルクは、女王による統治とその権利を認めなかった。
そのため、オランダとルクセンブルクの同君連合は終わりを告げた。
1814年
ウィーン会議開幕。1815年6月9日まで。
1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウイーンにおいて開催され
た国際会議。
オーストリアの外相クレメンス・フォン・メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパ諸国の
代表が集った。会場はシェーンブルン宮殿。フランス革命とナポレオン戦争終結後の
ヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、オスマン帝国を除く全ヨーロッパ各国
代表が集まり、1814年9月1日から開催された。
会議を主導したのは議長国オーストリアのほか、イギリス、プロイセン、ロシアである。
中でも議長メッテルニヒとイギリス代表カースルレー子爵が中心的な役割を果たした。
この会議には、ナポレオン戦争に敗れたフランスも招待されており、その代表タレー
ランも会議において活躍した。
1792年より以前の状態に戻す正統主義を原則としたが、各国の利害が衝突して数か
月を経ても遅々として進捗せず、「会議は踊る、されど進まず」と評された。
しかし、1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を
抱いた各国の間で妥協が成立し、1815年6月9日にウィーン議定書が締結された。
このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序は「ウィーン体制」と
よばれる。
1831年
ズアーブ兵が創設。
※ズアーブ兵※
1831年にアルジェリア人、チュニジア人を基本に編成されたフランスの歩兵。
当時、北アフリカはフランスの植民地だった。
第一次世界大戦でも、フランス陸軍の精鋭部隊として活躍した。
第二次世界大戦後の北アフリカ植民地の独立により、1962年に廃止された。
背中の彫り物、髭、ジャケットなど兵士の風俗に特色がある。
特にその軍服のデザインは他国の軍隊でも参考にされた。
例えば、教皇領の軍隊でも採用され、教皇のズアーブ兵(Papal Zouave)と称し
てイタリア統一運動に対抗する戦力として用いられた。
アメリカ南北戦争でも、南北両軍にズアーブを称する義勇兵部隊があった。
民間用のファッションにも取り入れられ、ゆったりとしたズアーブパンツ、ズアーブ
ジャケットなどが生まれている。
1847年
シーメンスが設立される。当時は電信、電車、電子機器の製造会社であった。
※シーメンス※
ドイツのバイエルン州ミュンヘンにある電機メーカー。ジーメンスとも表記される。
もともと電信、電車、電子機器の製造会社から発展し、現在では情報通信、交通、
防衛、生産設備、家電製品等の分野で製造、およびシステム・ソリューション事業を
幅広く手がける会社である。
フランクフルト証券取引所上場企業 (FWB:SIE)。
2006年の連結売上高は873億ユーロ、連結純利益は303億ユーロ。
1847年12月12日に、ヴェルナー・フォン・ジーメンスによってベルリンに創業され
た電信機製造会社、ジーメンス・ウント・ハルスケに端を発する。
後にジーメンス・ハルスケ電車会社に発展し、世界で最初の電車を製造し、1881年
に営業運転を開始した。
20世紀初頭、ゼネラル・エレクトリックを相手にAEGの支配権を争う格好となり、
AEGと関係を深めた。かつてはリオ・ティントが代表的な株主であったが、現在は
ミューチュアル・ファンドのバンガード・グループ、マイケル・カレンが2001年に立ち
上げたソブリン・ウェルス・ファンドのNew Zealand Superannuation Fundである。
1869年
オーストリアで世界初の郵便はがきを発行。
1891年
スタンフォード大学開学。
(続く)
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