今日9月23日は、年始から266日目、年末まであと99日。
38年
ローマ皇帝カリグラが二番目の妹であり6月10日に亡くなった
ユリア・ドルシッラを女神であると宣言し、ヴェヌスとして神格化。
カリグラのお気に入りだったらしい。
近親相姦の噂や、離婚させられたとされていて、2度目の結婚は偽装結婚だと
噂されたりしている。
いずれも確たる証拠はないが、火のない所にたちのぼった煙というわけでもない。
1122年
叙任権闘争。
神聖ローマ帝国ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世が
ヴォルムス協約を締結。
叙任権闘争とは、中世初期において特にローマ皇帝(俗権)がローマ教皇(教権)との間で
司教や修道院長の任命権(聖職叙任権)をめぐって行った争いの事。
西欧では古代末期以来、私領に建てられた聖堂(私有協会)や修道院が増え、その種の聖堂の
聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。
世俗権力が強大化していくとその地域の司教の選出に対しても影響力をおよぼすようになり、
特にローマ帝国内では皇帝が司教たちの任命権を握って影響力を強くし、教皇選出にまで
影響力を持つに至った事から、俗権による叙任権のコントロールによるシモニア(聖職売買)
や聖職者の堕落という事態を招く一因になった。
10世紀にブルグンド王国に創立されたクリュニー修道院に対する俗権からの影響力を否定した
改革運動や、俗権による叙任を否定した教皇レオ9世、聖職者の綱紀粛正をはかった教皇グレゴ
リウス7世による教会改革は、教会に叙任権を取り戻そうという流れを生み、皇帝と教皇の間で
叙任権をめぐる争いが行われるようになった。
グレゴリウス7世は教皇権が皇帝権に対し優位にあることを主張し、1076年に神聖ローマ皇帝
ハインリヒ4世を破門、これを受けドイツ諸侯たちは、ザリエル朝のもとで王権・帝権の強化が
進んだことに懸念を抱いていたこともあり、ハインリヒの帝位を否定する動きをみせた。
翌1077年、自らの政治的地位が危うくなることを恐れたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に
贖罪した。(カノッサの屈辱)。
その後、勢力を立て直したハインリヒ4世は軍事力を行使し、グレゴリウス7世をローマから
逃亡させるに至り、グレゴリウス7世は客死、そしてハインリヒ4世没後も、皇帝と教皇の
争いは一進一退であった。
こうした背景のもと、1122年、ドイツのヴォルムズで結ばれたこの契約は、「根本問題を
なにひとつ解決していない不透明な妥協の産物」とも評されたが、叙任権をめぐる争いに
ピリオドを打つべく、教皇と皇帝の間で話し合いが重ねられた結果、教会側に叙品権が
与えられることで決着した。
この叙任(俗権すなわち教会領および付帯的世俗権力の授封)と叙品(教権による司教権の授与)
を分離すべきという考えはシャルトル司祭イボオ(1040?-1116?)の理論によるもの。
これとほとんど同じ内容の協定は、これに先立つ1107年に教皇パスカリス2世とイギリス国王
ヘンリー1世との間でも締結されている。
この協約の承認を求めるため第一ラテン公会議(1123年)が召集されることになり、中世に入って
行われていなかった公会議が復活することになった。
1338年
アルネマイデンの戦い。
英国と仏蘭西で始まった百年戦争最初の海戦。
英国船クリストファーが3門の大砲と1門の手銃を備えており、ヨーロッパにおける海戦で
史上初めて大砲が使われた。
1459年
薔薇戦争。
ブロア・ヒースの戦いが起こる。
同戦いは、薔薇戦争の最初の戦い。
薔薇戦争とは、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であり、
実状としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争い
へと発展したものと言える。
1543年
(天文12年8月25日)
種子島西村前之浜にポルトガル人を乗せた船が漂着(鉄砲伝来)。
1641年
10万ポンド以上の金(今日では10億ポンド以上の価値がある)の宝物を運ぶイギリス商船
マーチャント・ロイヤルがランズエンド岬沖の海で沈没する。
1803年
第二次マラーター戦争。アッサイェの戦い。
1803年から1805年にかけてイギリス東インド会社とマラーター同盟の三国グワーリヤルの
シンディア家、インドールのホールカル家、ナーグブルのボーンスレー家との一連の戦闘。
一般的にはイギリスの勝利とされている。
だが、実際にはイギリスがホールカル家に講和を持ちかけたこと、戦後にホールカル家および
シンディア家に占領地のほとんどを返還していることから、引き分けに近い状況であった。
アッサイェの戦いはこの戦争における最大の激戦となり、この戦いにおいては兵力で圧倒的
不利であったイギリスが勝利している。
マラーター側連合軍は5万兵と100基の大砲、対するイギリス軍は2歩兵連隊と1騎兵連隊の
計7000人、大砲は20基しかなかった。
イギリス側司令官アーサー・ウェルズリーはこれだけ兵力差がある大軍を相手にするには、
敵軍の側面をつくしかないと考えクリシュナ川渡河敢行、作戦は見事成功し、正面からの
イギリス軍の歩兵の突撃もあり、マラーター軍は大混乱、翌24日までに大勢の犠牲者を出し、
アッサイェから撤退した。
1806年
ルイス・クラーク探検隊が北アメリカ大陸探検の後、出発地のセントルイスに帰還。
1846年
ベルリン天文台のJ・ガレが天文学者U・ルベリエの計算に基づき、海王星を発見。
1862年
ビスマルクがプロイセン首相に就任。
1871年
明治政府が散髪脱刀令を布告。
1884年
ヴィルヘネス岬にて座標した蒸気船アークティク(Arctique)により砂金が発見され、
ティエラ・デル・フエゴのゴールドラッシュが始まる。
1889年
山内房治郎により京都府京都市下京区で花札製造・販売会社として任天堂(当時の任天堂骨牌、
または山内房治郎商店)が創業される。
1909年
ガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』が刊行。
1932年
ヒジャーズ・ネジド王国とハッサ、カティフ、ナジュドが統一してサウジアラビア王国が成立。
1938年
ズデーテン危機。
チェコスロバキアが動員令を発令。
第二次大戦勃発の要因の一つとなった、チェコスロバキア・ズデーテン地方の帰属問題。
1938年3月にオーストリアを併合したドイツの次なる外交目標となった同地方の領土分割
を求めるアドルフ・ヒトラーに、危機感を募らせたチェコスロバキアが動員令を発令、
非常事態宣言まで出されたが、イギリスのチェンバレン首相はじめとするフランス、
イタリア首脳の介入もあって戦争の危機は回避された。
チェンバレン首相は一時期英雄のように崇められたが、最終的に、これ以上の領土要求を
行わないことを条件にヒトラーの要求を全面的に認めた事で、ヒトラーとナチスを増長さ
せたと後に言われる事になる。
(条件はこの後ドイツによって一方的に無効化された)
1948年
帝国銀行から第一銀行が分離。
1950年
浅間山が大爆発。
登山中の高校生1人が噴石により死亡。降灰は東京にも見られた
1957年
ダイエー第1号店が大阪市の千林駅前に開店。
1973年
アルゼンチン大統領選挙選挙でファン・ペロンが18年ぶりに再選。
1981年
新日本プロレスのリング上でラッシャー木村がアントニオ猪木に「こんばんは」と挨拶して
失笑を買った「こんばんは事件」が起きた。
(いやwikiにあったんで、つい・・・)
1984年
蔵前国技館がこの日の秋場所千秋楽をもって閉館。
フランスではじめて『Journées Du Patrimoine(文化遺産の日)』が実施される。
この年以降、毎年9月の第3週の週末に、文化遺産の修復や保護に関わる人々の仕事をより
多くの人に知ってもらうことを目的に、1万件を超える行政施設や教会が公開されている。
1987年
沖縄県などで、日本では29年ぶり、20世紀最後の金環日食が観測。
2004年
ハリケーンジーンが発生。
特にハイチには死者2826人、被災者約30万人以上の甚大な被害をもたらした。
2008年
スマートフォン用オペレーティングシステムの初版Android1.0が公開。
2022年
西九州新幹線(武雄温泉駅-長崎駅)が開通。
2023年、今日。
雨だ。今は止んだ。
今年も残り99日と三桁を切った。
来年もよろしくお願いしたい。
今夜はサバの塩焼きにしようと思う。
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