台湾大好き

2016/02/01から90日滞在予定。

氣の威力a

2020年03月26日 | 健康増進
氣の威力a
氣で病を癒す「氣」は根源的な生命エネルギー私たちが人生を営むためには、衣、食、住、そして水と空氣が必要である。では、この五条件を満たすことで人間は生きられるのかといえば、答えはノーである。もう一つ不可欠なものがある。それが「氣」である。では、「氣」とは何か。わかりやすくイメージしてみよう。海に入って海水を両手で囲ってみる。そして、「これは私の水だ」と主張する。たしかに自分の手で囲っているから、それは「自分の水」かもしれないが、水自体は大海の水に変わりはない。手を離せばすぐ海の水になるし、また手を離さなくとも水は海の一部であり、常に交流している。私たちの生命も同じことがいえる。天地の氣の一部を自らの五体で囲って、「これは私だ」と主張しているだけなのだ。身体は「私」であっても、氣自体は天地の氣である。体内の氣がいつも天地の氣と交流しているのが自然であり、そうした状態を「生きている」といい、氣の交流が完全に止まった状態を「死」というのだ。ここでいう天地とは、単純に空と地面を示すものではない。私のいう天地とは絶対的天地、すなわち無限大に広がる大宇宙そのものをさしている。天地は、無限の半径で描いた無限の円周である。だから、私が右へ一歩動いたとしても、天地は右方が一歩短くなったということはない。相変わらず無限なのである。上下左右、前後、どの方向に対しても無限であるということは、「私は天地の中心である」と思っても少しもおかしくない。もちろん、天地の中心であるのは「私」だけではない。万物すべてが天地の中心なのである。釈迦は、これを「天上天下唯我独尊」といって教えたが、残念ながら後世の坊さんたちは、釈迦だけが独り尊いと間違えてしまったのだ。また、天地は無限に小なるものの無限の集まりと定義できる。一を二分の一にしても、そのもの自体は一である。これを二分一、二分の一と無限に続けても決してゼロにはならない。なぜならゼロより一は生じ得ないからだ。

つまり無限小が存在する。私はこの「無限に小なるものの無限の集まり」を総称して「氣」と呼んでいるのだ。具体的な例をあげて説明しよう。燦々とふりそそぐ太陽の光。この太陽は現在燃えているだけだが、燃え始める前はなんであったか。さらにその始めは?……とさかのぼって考えると、結局、「何もないが、何かあった状態」と答えるしかない。人間は何であったか。母親のおなかの胎児、その前は父親の精子と母親の卵子の結合、さらにその前はと探っていったら、あなたはなんと答えられるだろうか?だいたい母親も父親も、2~3歳の頃には卵子や精子などは体内に発見できない。成長するとともに体内に組成されていったのだ。その間に食べた米や大根やナスに、卵子や精子の素が入っていたわけではない。もし、あなたの父親が食べた大根に入っていたとすれば、あなたは「大根の子」だし、ナスだったら「ナスの子」ということになってしまう。結局、人間も、何もないが何かあった状態から生まれてきたのである。こう考えてくると、私たち人間はもちろん、草や木、大自然、地球、太陽、星、宇宙のすべてのものが、この「何もないが、何かあった状態」つまり無限小、「氣」から生じたということである。この氣のことを、全能の神と呼ぼうと、仏と呼ぼうとかまわない。それは、ただ名称が異なるだけなのである。万物すべて氣より生ず。万物皆同根。この真理を見つめることで、人類愛を超えた慈悲の心、万有愛護の精神が生まれてくる。氣は根源的な生命エネルギーなのである

偏差の原因

2020年03月25日 | 健康増進
偏差の原因
一方、「気功法」では、「偏差」の原因を次のように説明している。人間は本来、大変強力な「気」のパワーを秘めているのだが、通常では抑圧されている。「瞑想法」や「呼吸法」は、この気」のパワーを解放するためには絶好のトレーニングなのだが、心身の「準備」が不十分なうちに、強力な「気」を用いると障害を生じる。「準備」の一つは、身体をリラックスさせること(放松)であり、これができないうちに「気」を強くしてはいけない。もう一つは、心の持ち方であり、欲や憎しみや嫌悪感などを取り去り、「こだわりのない」「純粋な」精神状態にならないと、「偏差」を生じやすいという。「これは私の想像ですが、自催眠に入れたとき、欲や憎しみなどのこだわりがあると、それが無意識に定着して悪い影響を与える可能性があるのではないかと思います」「近代科学の方法論」に照らしていえば、「気」のトレーニングと、「超能力」の関係は何ら証明されていない。しかしながら、中国では昔から「気功法」の練達者は、「超能力」を発揮するようになるといわれてきた。まあ、手をかざしただけで、人の病気が治るなら、それ自体が「超能力」だといっても過言ではない。

無意識と一体になる

2020年03月23日 | 健康増進
無意識と一体になる
深層心理学という学問分野を樹立したユングは、自ら瞑想法を実践するとと もに、生涯にわたって「ヨーガ」や「易経」などの東洋哲学を研究した。彼は、 ヨーガに関するセミナーを何度も行っているが、「ヨーガ」修行の危険性につ いてこう語っている。人間が「無意識」を経験することは、本当はすばらしいこ となのですが、そこに一つの大きな困難が立ちはだかっています。それは、 人が「無意識」と一体化して愚かになってしまうということです。ヨーガの修行 が進み、「無意識」の中の神々の胚芽(クンダリニ・ヨーガでは眠っている聖な る蛇という)が目覚めると、人はいろいろな不思議な体験をします。こういった 体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかの ように扱うのが賢明です。もし同一化すれば、たちまち不愉快な結果が生じる でしょう。

あなたはたましいの誇張(lnflation〓一種のエクスタシー的昂揚状 態)に陥り、全く道を誤ってしまうでしょう。誇張というのはまさしく小さな形の 狂気、狂気の緩和された形なのです。そしてもしあなたが、完全な誇張状態 まで燃え上がってしまえば、精神分裂病になります。これは、おそらくユング 自身の経験を語っていると思われる。修行の途上で昔の聖人や天界の人 物、神や仏の幻覚が現れ、会話を交わしたりするのはよくある。このとき、自 分が「悟り」を開いた、ち錯覚して舞い上がってしまうと危ない、といっている のだ。もちろんユングの場合には自分自身が精神分析医だったため、冷静に うまく対処でできたのだろう。さもなければ、大変に危険だったはずだ。ゆめ ゆめ、ユングのような、自己流の「ヨーガ」の修行などはつつしむべきだろう。

気功法は危険な修行法b

2020年03月21日 | 健康増進
気功法は危険な修行法b
①心身症、自律神経失調症、ノイローゼに類するもの。
②「自発動」が常に発生し、身体の動きが制御不能になるもの。
③「気」が体内をかけ巡る感覚が激しかったり、逆に「気」が停滞したように思 えて耐えがたくなるもの。
④幻覚・幻聴・幻視の類。天上界の人や歴史上の聖人、あるいは死者と会っ て会話を交わす。
逆に地獄の妖怪や鬼や悪魔と出会っておそろしい目に遭う (禅ではこの状態を魔境に入る、という)。極端な場合には、命令的な幻覚や 幻聴にしたがって他人や自分を傷つけたり、物を破壊したりする。禅では、修 行が進むにつれ、いくつかの大きな「悟り」と無数の小さな「悟り」(大悟18 回、悟数を知らず)を通過しなければならないと教えており、魔境もそのプロ セスの一つだとしている。結局、瞑想法というのは「自己催眠」だろう、という。 「自己催眠状態」というのは、とても気持ちがいいので、注意しないと中毒に なってしまう。足が腐るまで座禅を続けるということは、中毒で抜け出せなくな ったと考えたほうが自然だろう。

それにより、「悟り」が開ければ、足の犠牲も 報われようが、凡人は中毒にならぬにこしたことはない。また、催眠状態とい うのは、「無意識」(潜在意識)が無防備にむき出しになっており、暗示を受け やすい。うっかりするととんでもない結果になることはよく知られている。深い 催眠状態にして、「さあ、あなたの手は、もう机から離れません」と暗示をかけ ると、被験者がいくら努力しても本当に手を机から離すことができなくなる。ふ つうの催眠術では、「もう机から手が離れますよ」という暗示により、前の暗示 の影響をなくしてから催眠術を解くのが常識だ。ところが、素人が遊び半分に やっている催眠術だと、こういうルールを知らず、暗示をかけたまま催眠術を 解いてしまうことがある。すると、被験者は机を見るたびに違和感や恐怖感を 覚えるようになり、ひどい場合には強度のノイローゼに陥ってしまう。何もしら ずに催眠術を用いたり、自己催眠に入るのは、とても危険なのだ。

気功法は危険な修行法a

2020年03月20日 | 健康増進
気功法は危険な修行法a
「トレーニングの危険性というと?」「いわゆる荒行が危険なことは当然です が、実は瞑想法、呼吸法、座禅などの、ごくふつうの修行法も、やり方を間違 えると大変に危険なのです」昔から、廃人になったり、精神病になった例は数 多く報告されている。だから、この種の東洋的修行法は、必ずしっかりした指 導法で、確かな指導者について、十分に注意をして実行しなければならな い。精神面における指導や、戒律がしっかりしている伝統的な宗教なら、比 較的安全だろう。長い年月の淘汰に耐えて、指導法が工夫されてきた「気功 法」や「ヨーガ」の流れをくむ方法なら、おすすめできる。新興宗教の中には、 危険なものもかなりあるだろう。こういう危険性に言及しないで修行法だけを 解説した「気功法」や「ヨーガ」、「超能力」の本は、要注意だ。興味本位の低 俗な本を見て、独習するなどというのはもっての外だ。江戸時代の白隠慧鶴 (1685~1768)といえば、臨済宗を復興し、白隠禅と呼ばれる座禅の大き な流れを確立した人としてよく知られている。白隠は熱心に座禅の修行をした が、トレーニング法が悪かったらしく、ひどい「禅病」に見舞われた。

1757年 に発行された彼の著書「夜船閑話(やせんかんな)」に、そのあたりの詳しい記 述がある。「心火逆上し、肺金は焦枯し、両足は氷のよう、耳鳴りがひどく、肝 胆は脆弱になり、いつも恐れ、疲れはて、幻覚にさいなまれ、脇の下はいつ も生汗、両眼はいつも涙……」今日でいえば、強度の心身症、ノイローゼ、あ るいは原因不明の難病として、検査が繰り返されるかもしれない。白隠が30 歳前後のときのことだ。このとき彼は、白幽子という名前の「仙人」に会い、 「なんその法」と呼ばれる内観法を教わる。色も香りも良い清浄なクリーム状 の大きな卵が頭の上にあることをまず想像し、それがだんだん体全体に流れ て浸透していくイメージを頭の中で繰り返す。この方法により、彼の「禅病」は 全快したのみでなく、他の人の「禅病」やいろいろな病気の治療に効果があっ たと記述されている。ただし、これであらゆる「禅病」が治るわけではなく、救う ことができなかった場合の、修行者の精神的な心得などにも触れている。こ のことから、当時の座禅の修行者の中では「禅病」はかなり一般的であり、中 には治らないで一生苦しみ続けた者も多かったと推定される。「気功法」で は、トレーニングにより生じたる障害を「偏差(へんさ)」と総称する。その症状 は大変幅広く、簡単な分類は困難だが、その主なものを示す。