不動産登記法第14条1項 地図作成作業に伴う 隣地立会コンサルティング
国土調査法に基づき、地方公共団体又は土地改良区等が行う地籍調査の
結果に基づいて作成された地図及び簿冊は、国土調査法(地図及び簿冊の閲覧)
第17条に基づき、当該地籍調査が行われた市町村の事務所に於いて、
二十日間一般の閲覧に供しなければならないと、定まっている。
他方、地方法務局が行なう登記法第14条1項に基づく地図作成作業成果の
縦覧及び異議申出は、現地事務所にて、2,3日間とされている。
よって、土地所有者は、法務局が実施する地籍調査における隣地立会には、
周到な準備をして立ち合いに臨む必要があるといえる。
今回のコンサルティングの依頼者Aさんは、山梨県甲府市岩窪町(1)番地に
屋敷1309㎡と住宅を所有する旧名主の家柄である。
屋敷は南側前面と西側全面に建築基準法第42条2項道路に面しており、
この南側道路の反対側に、(2)番地 宅地45.96㎡、その東側地続きに
(3)番地 宅地97.96㎡を依頼者Aさんが所有し、
駐車場兼倉庫として使用している。
今回のコンサルティングは、この(2)、(3)番地
合計143.92㎡(以下「本物件」という)についての、
不動産登記法第14条1項地図作成作業のための隣地立会に関する依頼である。
本物件は、東側隣地(4)番地と等高に面し、南側隣地(5)番地(3番地の南)、
(6)番地(2番地の南)より、コンクリート壁にて約1.5m高く、
西側隣地(7)番地(北西角地)とは等高に面している。
西側(7)番地は南側隣地(8)番地よりコンクリート壁にて、
約1.5m高くなっている。
第1回目の筆界立ち合いは、令和3年6月28日に行なわれた。
私は、昭和48年2月に旧図を転写して作成された地図に準ずる図面
(現在の公図と言われている)の写しを持参し、立会に臨んだ。
立会ったのは、法務局より依頼された土地家屋調査士
B氏とC氏(以下「調査士2名」という)である。
当初より、境界設定が揉めたのである。その原因は、本物件の内、
(2)番地と西側(7)番地の境界である。
(7)番地は、氏神が奉られ、地目は「境内地」になっており、
かつては依頼者Aさんの祖父が国へ寄付した土地である。
(2)番地と(7)番地の境界は、北から南へしっかりとした
コンクリート壁で定められており、(7)番地の方が(2)番地の方より
南へ3.5m長くなっている。
長くなっている部分の東側に(7)番地の上部より50cm低く1m幅で
(7)番地と平行に石垣にて土留めがされている土地(6番地の一部)が、
存在している。
この(6)番地の一部の土地を、(5)番地、(6)番地の所有者Dさんと、
(8)番地の所有者Eさんは、自分の土地では無いと主張した。
よって、この主張に基づき、調査士2名は(6番地の一部)は、
(7)番地に含まれ、境内地の一部であると判断したのである。
その結果、(6番地の一部)の東側、石垣で土留めされている部分が
(7)番地の境界であり、この境界を北へ伸ばした位置が本物件と
(7)番地の境界であると主張し、現在依頼人Aさんが、物置及び車庫として
長年使用している部分は、境内地の一部であり、依頼人Aさんが
無断使用しているというのである。
現在(7)番地にある氏神神社は、そもそも依頼人Aさんの屋敷内にあった道祖神を
(7)番地に移し、それと同時に(7)番地を、地域の皆さんの為に国へ寄付し、
氏神神社として奉ったものである。
地域住民の為に寄進した土地を、また自分のものにして物置を立てるなどと
言う不自然な行為は、およそ考えられず、尚且つ(7)番地と本物件との境界は、
コンクリート壁にて50年間以上もの間、明確に確定しているものであり、
私は調査士2名の主張に応じなかった。
第2回目の立会は、私からの要請により、甲府地方法務局表示登記専門官F氏が
加わり行われた。
この立会の前に、私は旧公図(昭和48年2月に閉鎖された地図、縮尺不明)の写しを取り、
昭和46年9月21日に分筆されている(2)番地と
(6番地と8番地は分筆されず一筆である)との分筆に基づく、
旧公図の境界線を確認したところ、登記簿には分筆の記載があるものの、
旧公図上には分筆線の記入が入っていなかったのである。
その後、昭和47年1月13日時点の(6)番地と(8)番地の分筆については、
旧公図に境界線が入っていた。しかし、この時も、前記分筆線は、記入されていなかった。
まったくもって、非常に不可解な状況であった。
よって、地図に準ずる図面(現在、公図としている)をもって、強引に主張したところ、
F登記官と調査士2名は、自分たちの主張を取り下げ、本物件(2)番地の南西の角を
辺長1m位とり、ここを(7)番地の土地に含むものとするとして合意し、
無事に立ち合いは終了した。
ところが、令和3年12月13日に突然、F登記官より私に電話があり、
相談したい旨の申入れがあった。私の事務所に於いて、
令和3年12月20日F登記官、G登記官と土地家屋調査士B、
そして私の4名にて会談を行なった。
話の内容は、「2回目の立会で合意した境界を破棄し、
新たに境内地である(7)番地171.82㎡のうち、南側66.82㎡(6番地の一部も含む)を、
依頼人Aさんの所有地としたい。」との申入れであった。
その事由は、(7)番地の所有者である、財務省(大蔵省)の主張によると、
「(7)番地の面積は26歩(26坪)の面積を昭和34年7月17日に於いて地積訂正を行ない、
その面積は1セ2分(32坪)105㎡である。」とのことであった。
私は、本物件周辺の全ての閉鎖登記簿謄本及び、過去の分筆時の地積測量図の写しを取得し、
これらを検討した結果、(7)番地(境内地)の地積訂正後の面積(測量図 現在なし)は、
登記簿に記載されている「1セ2分」では無く、正しくは「1セ22分」であることが判明した。
なぜならば、本物件の内、(2)番地と南側(6)番地の分筆の際、
公図に境界線を入れた登記官、本物件の内、(3)番地と南側(5)番地の分筆につき、
公図に境界線を入れた登記官、そして旧公図を現在の公図に転写した登記官の3名が、
時期を異にしているにもかかわらず(7)番地(境内地)が、1セ22分(52坪)で
あることを基準として、公図へ分筆線を入れているからである。
以上の通り、法務局と財務省(大蔵省)の主張は誤りであることが判明したので、
私はF登記官、G登記官の主張に対し応じなかった。
その後、間もなく、法務局より、本物件と境内地を含めた、
関係地主10軒(合計26筆)を、「筆界未定地」として、
各関係者に通知したのである。
依頼人Aさんは、この通知を見ることも無く放置していたところ、
法務局F登記官から私に電話があり、
「異議申出には、3日間の猶予があります。」との事であった。
その時会う日は約束した。
依頼人Aさんの所へは、筆界未定地とされた近隣の関係者が、
登記官Fから話があったそうで、わざわざ手土産を持参して、
「筆界未定地」にならないよう、よろしく立ち合いをお願いしたいとの要請があった。
私は、F登記官との約束した日に、「これらは法務局の過去の記載ミスである。」
ことを説明したが、まったく応じる気配すらなかった。
そこで私は、境内地である(7)番地の中の南側部分(6番地の一部を含む)66.82㎡が、
依頼人Aさんの所有となった場合、不動産取得税、固定資産税等を納付する必要があるか、
関係各所に問い合わせしたところ、境内地であることの証明等を添付し、
免税の申請をすることによって、納付免除となる確認を得られたこと、
又、依頼人Aさんの近隣の人たちにも、今回の出来事の対する事実が周知されており、
依頼人Aさんからも快諾を得られたので、法務局の申入れに応じる事とした。
依頼人Aさんの祖父が善意で寄進した土地が、再度孫の依頼人Aさん所有となるという、
誠に不可解で矛盾した事例であった。
依頼人Aさんの承諾後、「筆界未定地」の図面は即刻撤回され、令和4年4月1日付にて、
今回の調査の成果が反映されることとなる。
国土調査法に基づく地籍調査と、不動産登記法第14条1項に基づく地籍調査では、
作業手順及び成果の決定期間が異なることを、初めて知った事例である。
以上
令和4年 3月28日
山梨県甲斐市篠原780-7
山梨県知事(14)第528号
不動産コンサルティング
マスター登録番号(6)第6461号
郷土開発 代表者 山縣 誠
国土調査法に基づき、地方公共団体又は土地改良区等が行う地籍調査の
結果に基づいて作成された地図及び簿冊は、国土調査法(地図及び簿冊の閲覧)
第17条に基づき、当該地籍調査が行われた市町村の事務所に於いて、
二十日間一般の閲覧に供しなければならないと、定まっている。
他方、地方法務局が行なう登記法第14条1項に基づく地図作成作業成果の
縦覧及び異議申出は、現地事務所にて、2,3日間とされている。
よって、土地所有者は、法務局が実施する地籍調査における隣地立会には、
周到な準備をして立ち合いに臨む必要があるといえる。
今回のコンサルティングの依頼者Aさんは、山梨県甲府市岩窪町(1)番地に
屋敷1309㎡と住宅を所有する旧名主の家柄である。
屋敷は南側前面と西側全面に建築基準法第42条2項道路に面しており、
この南側道路の反対側に、(2)番地 宅地45.96㎡、その東側地続きに
(3)番地 宅地97.96㎡を依頼者Aさんが所有し、
駐車場兼倉庫として使用している。
今回のコンサルティングは、この(2)、(3)番地
合計143.92㎡(以下「本物件」という)についての、
不動産登記法第14条1項地図作成作業のための隣地立会に関する依頼である。
本物件は、東側隣地(4)番地と等高に面し、南側隣地(5)番地(3番地の南)、
(6)番地(2番地の南)より、コンクリート壁にて約1.5m高く、
西側隣地(7)番地(北西角地)とは等高に面している。
西側(7)番地は南側隣地(8)番地よりコンクリート壁にて、
約1.5m高くなっている。
第1回目の筆界立ち合いは、令和3年6月28日に行なわれた。
私は、昭和48年2月に旧図を転写して作成された地図に準ずる図面
(現在の公図と言われている)の写しを持参し、立会に臨んだ。
立会ったのは、法務局より依頼された土地家屋調査士
B氏とC氏(以下「調査士2名」という)である。
当初より、境界設定が揉めたのである。その原因は、本物件の内、
(2)番地と西側(7)番地の境界である。
(7)番地は、氏神が奉られ、地目は「境内地」になっており、
かつては依頼者Aさんの祖父が国へ寄付した土地である。
(2)番地と(7)番地の境界は、北から南へしっかりとした
コンクリート壁で定められており、(7)番地の方が(2)番地の方より
南へ3.5m長くなっている。
長くなっている部分の東側に(7)番地の上部より50cm低く1m幅で
(7)番地と平行に石垣にて土留めがされている土地(6番地の一部)が、
存在している。
この(6)番地の一部の土地を、(5)番地、(6)番地の所有者Dさんと、
(8)番地の所有者Eさんは、自分の土地では無いと主張した。
よって、この主張に基づき、調査士2名は(6番地の一部)は、
(7)番地に含まれ、境内地の一部であると判断したのである。
その結果、(6番地の一部)の東側、石垣で土留めされている部分が
(7)番地の境界であり、この境界を北へ伸ばした位置が本物件と
(7)番地の境界であると主張し、現在依頼人Aさんが、物置及び車庫として
長年使用している部分は、境内地の一部であり、依頼人Aさんが
無断使用しているというのである。
現在(7)番地にある氏神神社は、そもそも依頼人Aさんの屋敷内にあった道祖神を
(7)番地に移し、それと同時に(7)番地を、地域の皆さんの為に国へ寄付し、
氏神神社として奉ったものである。
地域住民の為に寄進した土地を、また自分のものにして物置を立てるなどと
言う不自然な行為は、およそ考えられず、尚且つ(7)番地と本物件との境界は、
コンクリート壁にて50年間以上もの間、明確に確定しているものであり、
私は調査士2名の主張に応じなかった。
第2回目の立会は、私からの要請により、甲府地方法務局表示登記専門官F氏が
加わり行われた。
この立会の前に、私は旧公図(昭和48年2月に閉鎖された地図、縮尺不明)の写しを取り、
昭和46年9月21日に分筆されている(2)番地と
(6番地と8番地は分筆されず一筆である)との分筆に基づく、
旧公図の境界線を確認したところ、登記簿には分筆の記載があるものの、
旧公図上には分筆線の記入が入っていなかったのである。
その後、昭和47年1月13日時点の(6)番地と(8)番地の分筆については、
旧公図に境界線が入っていた。しかし、この時も、前記分筆線は、記入されていなかった。
まったくもって、非常に不可解な状況であった。
よって、地図に準ずる図面(現在、公図としている)をもって、強引に主張したところ、
F登記官と調査士2名は、自分たちの主張を取り下げ、本物件(2)番地の南西の角を
辺長1m位とり、ここを(7)番地の土地に含むものとするとして合意し、
無事に立ち合いは終了した。
ところが、令和3年12月13日に突然、F登記官より私に電話があり、
相談したい旨の申入れがあった。私の事務所に於いて、
令和3年12月20日F登記官、G登記官と土地家屋調査士B、
そして私の4名にて会談を行なった。
話の内容は、「2回目の立会で合意した境界を破棄し、
新たに境内地である(7)番地171.82㎡のうち、南側66.82㎡(6番地の一部も含む)を、
依頼人Aさんの所有地としたい。」との申入れであった。
その事由は、(7)番地の所有者である、財務省(大蔵省)の主張によると、
「(7)番地の面積は26歩(26坪)の面積を昭和34年7月17日に於いて地積訂正を行ない、
その面積は1セ2分(32坪)105㎡である。」とのことであった。
私は、本物件周辺の全ての閉鎖登記簿謄本及び、過去の分筆時の地積測量図の写しを取得し、
これらを検討した結果、(7)番地(境内地)の地積訂正後の面積(測量図 現在なし)は、
登記簿に記載されている「1セ2分」では無く、正しくは「1セ22分」であることが判明した。
なぜならば、本物件の内、(2)番地と南側(6)番地の分筆の際、
公図に境界線を入れた登記官、本物件の内、(3)番地と南側(5)番地の分筆につき、
公図に境界線を入れた登記官、そして旧公図を現在の公図に転写した登記官の3名が、
時期を異にしているにもかかわらず(7)番地(境内地)が、1セ22分(52坪)で
あることを基準として、公図へ分筆線を入れているからである。
以上の通り、法務局と財務省(大蔵省)の主張は誤りであることが判明したので、
私はF登記官、G登記官の主張に対し応じなかった。
その後、間もなく、法務局より、本物件と境内地を含めた、
関係地主10軒(合計26筆)を、「筆界未定地」として、
各関係者に通知したのである。
依頼人Aさんは、この通知を見ることも無く放置していたところ、
法務局F登記官から私に電話があり、
「異議申出には、3日間の猶予があります。」との事であった。
その時会う日は約束した。
依頼人Aさんの所へは、筆界未定地とされた近隣の関係者が、
登記官Fから話があったそうで、わざわざ手土産を持参して、
「筆界未定地」にならないよう、よろしく立ち合いをお願いしたいとの要請があった。
私は、F登記官との約束した日に、「これらは法務局の過去の記載ミスである。」
ことを説明したが、まったく応じる気配すらなかった。
そこで私は、境内地である(7)番地の中の南側部分(6番地の一部を含む)66.82㎡が、
依頼人Aさんの所有となった場合、不動産取得税、固定資産税等を納付する必要があるか、
関係各所に問い合わせしたところ、境内地であることの証明等を添付し、
免税の申請をすることによって、納付免除となる確認を得られたこと、
又、依頼人Aさんの近隣の人たちにも、今回の出来事の対する事実が周知されており、
依頼人Aさんからも快諾を得られたので、法務局の申入れに応じる事とした。
依頼人Aさんの祖父が善意で寄進した土地が、再度孫の依頼人Aさん所有となるという、
誠に不可解で矛盾した事例であった。
依頼人Aさんの承諾後、「筆界未定地」の図面は即刻撤回され、令和4年4月1日付にて、
今回の調査の成果が反映されることとなる。
国土調査法に基づく地籍調査と、不動産登記法第14条1項に基づく地籍調査では、
作業手順及び成果の決定期間が異なることを、初めて知った事例である。
以上
令和4年 3月28日
山梨県甲斐市篠原780-7
山梨県知事(14)第528号
不動産コンサルティング
マスター登録番号(6)第6461号
郷土開発 代表者 山縣 誠