四月中旬、小田原から箱根湯本まで歩きました。
曇り時々雨という天気予報でしたので、空模様の心配をしながらの一日でしたが、
幸いにも途中たいした雨に降られることもなく、無事に行って帰ることができました。
小田原には、本当にず~っと前30~40年位前に行った記憶があるのですが、細かいことはほとんど憶えていません。
今回、小田原城を中心に小田原の街を歩いてきました。
◇ 小田原城
小田原城は、15世紀後半に西相模一帯を支配していた大森氏が築いた山城が前身で、
その後、戦国大名の小田原北条氏の居城となってから、支配地域を拡大しながら次第に拡張されていきました。
城下町全体を総構(そうがまえ)と呼ぶ9Kmにも及ぶ土塁で囲み、堅牢な城郭を築き難攻不落を誇りました。
しかし、秀吉に抵抗したため、天正18年(1590年)秀吉軍22万に包囲され、3か月以上籠城しましたが、
秀吉の石垣山一夜城の完成と降伏勧告に5代城主・氏直は降伏を決意し落城しました。
こうして小田原北条氏は5代・96年で滅んでしまったのです。
北条氏滅亡後、家康の家臣・大久保氏が城主になると、城は改修され近世城郭の姿になります。
その後、大久保氏が改易され約50年間稲葉正勝が城主となり稲葉時代となりますが、
再び大久保氏が城主になり、明治まで180年間続きました。
幸田門跡……小田原城三の丸の城門のひとつ 東側に続く三の丸土塁が小田原郵便局の裏側まで残っています。
二の丸東堀 学橋
二の丸東堀
東堀に架かる学橋 三の丸小学校が見えます。まるでお城の一部のようです。
馬出門……二の丸正面に位置する門で、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持ちます。
馬屋曲輪(うまやくるわ)へ通ずることからこの名が付いたようです。
馬出門を枡形の中から見た様子
住吉橋
銅門(あかがねもん)……二の丸の表門、 門扉が銅板で筋状に覆われていたことによりこの名があるようです。
常盤木門……本丸御殿の正面にあり、城内で最も堅牢な門
常盤木門を抜けると本丸御殿跡です。将軍宿泊専用の御殿で、畳だけでも670畳もあったそうです。
元禄16年の大地震で倒壊焼失し、その後は再建されなかったようです。
さあ、その先にいよいよ天守閣が見えてきました。
天守閣は、戦時には望楼でもあり、また最後の戦闘拠点ともなりますが、平時は武具や食料の倉庫であったそうです。
折角なので、天守閣に上ってみました。
◇ 報徳二宮神社
幕末の農政家・二宮尊徳を祀った神社で明治27年(1894年)の創建だそうです。
城内の一角、天守閣のすぐ隣にありました。
お宮参りをしているご家族がいました。
通称は金次郎。薪を背負って本を読む姿の像は、小さい頃見たことがありましたので、なんだか懐かしい気持ちになりました。
金次郎は、天明7年(1787年)小田原郊外の豪農の家に生まれましたが、16歳の頃に両親と田畑を失い困窮する中、
努力して勉学に励み、19歳で独立、23歳で父が失った田畑を取り戻したのだそうです。
その後、 質素倹約を旨として報徳仕法と呼ばれる独特の合理的手法で小田原はじめ北関東の農村復興に尽力したのだそうです。
三の丸小学校の校門、かっこいいですネ! 箱根口門跡
◇ ういろう(外郎)
創業600年。我が国最古の薬屋です。
外郎家の先祖は中國「元」の官僚で、元が明に滅ぼされたので日本に渡り帰化したのだそうです。
中国での官職名「礼部員外郎」から「外」の字を「うい」と読んで「外郎(ういろう)」と名乗ったそうです。
家伝の薬「ういろう」は小粒の丸薬で胃腸・のどの痛み・痰に効き、船酔いにも効くといわれたそうで、
旅人は常備薬として買い求めたようです。
また、朝廷が外国使節を接待する際に供するお菓子を創り出し評判となり、それがお菓子の「ういろう」になったのだそうです。
お店は、北条時代の8棟造りの姿をしていました。
店内ではお薬とお菓子が売られていて、お客さんで賑わっていました。お薬の「ういろう」は一人二箱までしか購入できませんでした。
◇ 小田原城総構早川口遺構
城下町を囲んだ総構(そうがまえ)の土塁と堀の南西の虎口(城の出入り口)にあたる所です。
◇ 大久寺
小田原城主・大久保家の菩提寺。大久保寺の意味で「大久寺」と名付けたそうです。
◇ 上方見附跡
板橋見附とも呼ばれていたそうです。現在は信号の地名となって残っていました。
◇ 板橋地蔵尊
本堂右脇に木彫りの大黒天像がありました。
本日のお昼ごはんは、蒲鉾で有名な「鈴廣」でいただきました。一階の売店では色々な蒲鉾の試食が出来て、楽しかったです。
金目鯛の炙り飯が美味しかったです。
◇ 風祭一里塚跡
日本橋から21里目の一里塚。 案内板の前の石仏は「小田原の道祖神」です。
◇ 紹太寺と稲葉一族の墓地
江戸時代の初期に3代・50年にわたり小田原城主だった稲葉氏の菩提寺。
当時は広大な敷地に七堂伽藍があり黄檗(おうばく)宗では関東一の大寺院だったそうです。
寺は、幕末と明治初年の火事で焼けてしまい、現在は稲葉一族と春日局のお墓が残っているだけのようです。
長い階段を上っていきます。
上りきった所。 蜜柑の木が植えられた果樹園や山林になっていました。
樹齢330年以上のシダレザクラです。 もうすっかり若葉になっていました。 咲いているのを見られず残念でした。
この後、箱根登山鉄道に沿うように歩いて箱根湯本駅に向いました。
若葉がしげる新緑のなかを歩くことが出来、とても楽しかったです。
車でしか来た事がなかった湯本に、歩いて来たという事が信じられませんでしたが、
すこしずつでも、一歩一歩進めば此処まで来られるのだという事が分かり嬉しかったです。
ういろう(お菓子)や蒲鉾も美味しかったです。