茅ヶ崎は、思っていたよりも大きくて立派な街でした.
キョロキョロと周りを見回しながら、初めての街をワクワクしながら歩きました。
街の中心街を少し過ぎたあたりに鶴嶺八幡宮の参道があり、その脇にある民家の庭の片隅に、弁慶塚がありました。
頼朝の乗った馬が源氏ゆかりの鶴嶺八幡宮に差しかかった時、義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、
それに驚いた馬が棒立ちとなり、頼朝は落馬してしまったそうです。 頼朝は重傷を負い翌年亡くなったと言われています。
そこで、里人は弁慶塚を造って、義経一族の霊を慰めたと伝えられています。
☆ 南湖左富士(なんこひだりふじ)の碑
江戸を出てから旅人は富士山を右手に見ながら旅を続けてきましたが、ここで初めて富士山を左手に見ることになります。
そのわけは、西に向かっていた東海道の道筋がここから右に曲がり、道が北に向って進むわずかな距離があるからです。
その間だけ、富士山が左側に見えるのです。
上の石碑の写真で、お天気が良ければ車の向こう側に雪の富士山が見えるはずでした。
残念ながら曇っていたので見ることが出来ませんでした。
☆ でかまん
東海道名物の「でかまんじゅう」です。
大きさは6種類あり、一番大きいのは縦32cm×横22cmもありました。
見かけより美味しく、餡の甘さも上品でとても美味しかったです。機会があればまた是非とも食べたいです。
☆ 旧相模川橋脚
関東大震災の時に、液状化現象により水田の中から鎌倉時代の橋脚が出現しました。
鎌倉時代の相模川は、今より少し東寄りのこのあたりを流れていたようです。
現在目にするのはレプリカで、実物は保存のため地下の元あった位置に埋設されているそうです。
いよいよ、平塚市にはいります。
☆ 馬入川(ばにゅうがわ)と馬入(ばにゅう)の渡し
相模川の河口近くを馬入川と呼びます。頼朝の馬が暴れて川に入ったからその名が付いたと言われているようです。
江戸時代には現在の場所を流れていて、橋は架けられていなくて舟渡しでした。
渡船時間は明け六つから暮れ六つまでで、夜間の渡河は禁じられていたそうです。
増水や強風時は「川留」といい、渡船は禁止となりました。
明治19年に橋が架けられ渡船は廃止となったそうです。
海へと連なる河口付近 対岸には平塚市が見えます。
☆ 馬入一里塚跡
日本橋から15里目の一里塚
平塚市内
☆ お菊塚
怪談「番町皿屋敷」に登場するお菊の墓跡である紅谷町公園に、お菊塚がありました。
お菊は、平塚宿の役人の娘だったのだそうです。
☆ 平塚江戸方見附跡
通りの向こうに小高い山が見えてきました。”高麗山”です。
歌川広重の「東海道五十三次 平塚」に描かれている山です。昔は、高い建物などはないので、よく見えたのですね~
☆ 平塚脇本陣跡
☆ 平塚高札場跡
☆ 平塚本陣跡・問屋場跡
本陣跡 問屋場跡
☆ 平塚の碑
天安元年(857年)坂東平氏の始祖といわれた平政子が、一族とともに東国へ向かう途中ここで没したため、
平らな塚を築き葬ったそうです。この塚を「ひら塚」(もとは「たいらつか」と呼んだ)といい、平塚の地名の起こりとなったそうです。
お花がとても綺麗でした。
☆ 平塚京方見附跡
京方見附あたりからの高麗山
平塚京方見附を過ぎ、 大磯町に入ります。
高麗山と花水川(金目川)
長閑な雰囲気がして癒されます。
☆ 高来(たかく)神社
高麗山の麓にある神社。
この辺りは「高麗」や「高来」と呼ばれるが、国を追われた高句麗の王族や従者の一部が渡来しこの辺りに住んだことから、
そう呼ばれるようになったそうです。
☆ 化粧坂(けわいざか)と虎御前化粧井戸
鎌倉時代に大磯には宿場があり、宿の中心はこの化粧坂あたりで、多くの白拍子(遊女)が住んでいたそうです。
曽我兄弟の兄・十郎祐成(すけなり)の恋人であった白拍子・虎御前が井戸の水を汲み化粧をしたという伝説(化粧井戸)があります。
化粧坂の一里塚跡・・・日本橋より16里目 「 東海道53次 大磯 」
大磯宿江戸方見附跡 この辺りに一部松並木が残っていました。
次回は日本橋から八番目の大磯宿を歩く予定です。
明治の別荘地としても有名な大磯なので、とても楽しみです。
感心することばかりです
川から海に続く景色が綺麗ですね
富士山は右手と思いこんでいたらいけませんね
平塚は七夕まつりで駅周辺しか行ったことがないので
大磯まで散策してみたくなりました
そうなんですよ~
富士山が、左側に見える所があるなんてビックリでした
私は、平塚の七夕まつりには、行ったことがないので
今度、機会があったら是非行ってみたいと思っています。
日本の三大七夕まつりの一つなんでしょう ?