ゲーム業界の巨人であった岩田聡
任天堂社長の岩田聡(いわた・さとる)氏が2015年7月11日、胆管腫瘍のため死去しました。ゲーム業界の巨人であった岩田聡が永遠に離れていきました。「天才」と呼ばれるその腕が、任天堂の成長を決める鍵でした。
大学在学中、岩田聡氏は「株式会社HAL研究所」(通称ハル研)にアルバイトとして事業に参加していました。
1982年大学卒業後はそのままHAL研究所の正社員となりました。ファミリーコンピューター時代には、『ピンボール』『ゴルフ』や『バルーンファイト』などの任天堂ゲームソフトのプログラミングを担当しました。
1992年(当時32歳)、HAL研究所が多額の負債を抱えて和議を申請した際、当時取締役開発部長であった岩田聡氏が代表取締役に就任しました。このとき、当時任天堂の社長であった山内溥が岩田を社長に指名したと言われています。
2000年と2001年の2年間以外は、岩田聡氏が常に社長職に就き、プログラマ志望でありながらも、社会人となってから半分以上は社長業に就任している事になりました。
2000年、岩田聡氏が任天堂に入社し、取締役経営企画室長に就任しました。
2002年、岩田聡氏が42歳のときに山内から指名を受け、2002年6月1日付けで代表取締役社長に就任しました。
2006年4月20日に、岩田聡氏が任天堂社長という立場で、一度開発者の立場で中止した『MOTHER3』を発売しました。そして、彼は「『MOTHER3』を一回中止にしたことは今のDSやWiiにつながっている」と強調しました。
2009年3月期決算で任天堂は業績がピークを迎え、Wiiは任天堂創業以来最大の普及台数(約1億台)を記録しました。
2013年には任天堂の米国法人CEOも岩田が兼任することとなりました。
2014年6月に胆管腫瘍を患っていたと公表されました。
2015年(平成27年)7月11日、胆管腫瘍のため死去しました。
岩田聡氏はかなりの読書家であり、多忙な中でもビジネス書をはじめとした読書を欠かさなかったです。HAL研究所時代はそれほど本を読んでいたわけではなく、糸井重里に薦められて読んでいましたが、段々逆に糸井へ薦める程になったとのことでした。
岩田聡氏は入社2年で社長に抜擢し、2015年3月にはスマホゲームの大手DeNAとの提携を決断するなど、型にはまらない異能のゲーム人生でした。
PS:wikipedia中の岩田聡を参考しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩田聡
16Laoからの言葉:
ゲーム業界の巨人よ、神様よ、天堂で、安らかに眠りたまえ。