オメガねこ

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「水」 と 「尼」

2020年11月08日 | 国際情勢
 「尼」の字義は、仏教での「戒めを受けた女性」の事で「比丘尼(ビクニ)」の略称の「アマ」です。心の歪んだヒト(⇒人で無し)が、この「アマ」を「低俗な女性」の意味で使用していた時期があり、汚れたイメージが潜在意識の中に刷り込まれた人がいるようです。勿論、現在は「汚れた尼」がいないとは言いませんが。

 本来の(インドや支那大陸ではなく、日本での)意味では、現世その物が汚れているので、そこから仏門に入り「現世の汚れを払いをとした女性」と言えるので、「尼」を低俗な女性と考える人は、更に低俗な餓鬼にも劣らないヒトと言えます。但し、元の意味での「比丘尼」は既にいないそうで、いるのは日本式の「尼」だそうです。

 「水」は、日本では自然でも「清浄」なイメージですが、多くの国では「処理」しなければ飲めない「人工的」な飲み物です。

 「水」と「尼」が合わさって「泥」になるのですが、字義からすると日本では「戒めを受けた清浄な女性」になります。水田の「泥」から神勅の稲穂を収穫できるように、清浄な女性から赤子が生まれると理解するのが(本来の)日本人です。

 「屁負い比丘尼(へおいびくに)」と言われる女性もいて、貴人の娘などに御仕えし、その娘が「おなら」をした場合に自分がしたことにして、娘に代わり非難を受ける役の女性です。何方が「清浄」かは国柄によって違うとは思いますが、私なら「屁負い比丘尼」を高貴とします。

 インドで生まれた「仏教」が、支那大陸を通過すると「泥」は不浄のモノに変質し「妙法蓮華経」の漢字が当てられて、「泥」が汚名を着せられたのではないかと、以前書きました。ガンジス川は、他国の人から見れば「不浄」に感じますが、現地の人にとっては「聖なる川」として信仰の対象になっています。

 ガンジス川の「汚染」が進んでいるようですが、「科学的」には汚れていても「精神的」には清浄とされているようで、汚染対策が滞っています。これは、インド人が古代から「泥は汚物ではない」と考えていた証拠の様な気もします。

 ガンジス川の医学的危険性は寧ろ、医療の発達が齎したのではないかと言われています。それは、宗教上の理由から「自宅にトイレ」を設けない家庭が多く、下水処理されないでガンジス川に流され、人口増と共に感染症も多くなり、人や家畜に使用された抗生物質や抗菌剤が多用された為に、耐性菌が川で繁殖すると云う悪循環が繰り返されていると云うものです。

 「宗教」と「科学」とは「科学的」には相容れないのですが、「宗教」は科学を受け入れがちです。その典型例が「チベット国や東トルキスタン国等の共産主義の受け入れ」です。「共産主義」は「凡人」の大脳皮質が考え出した「統治理論科学」の一つです。マルクスは「ボン大学」に通い「ボンの街」で無頼漢の様な生活を送ったそうです。まさに「ボン人」です。

 中共はこの特性を利用して「科学的共産主義」を世界中に広めようとしています。元副大統領の息子はその中共から数千億円の資金を得て、元大統領の娘と共に、無頼漢の様な生活を楽しんでいます。

 これを、通常は「親の顔に泥を塗る」と言いますが、その「泥」の出所が「支那大陸」か「秋津洲」かで意味が変わります。或いは、「その親あって、この子あり」なら、最初から「泥」を不浄のモノとは思っていないのかも知れません。



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