「昭和憲法」には日本の領土の範囲は書かれていません。外務省の判断では「現在の日本の領土は,第二次世界大戦後の1952年4月発効のサンフランシスコ平和条約により法的に確定されました。」とされています。
「サンフランシスコ平和条約」の第2条には、日本が放棄すべき領土の範囲が書かれていますが、日本の領土範囲は書かれていません。しかし、この条約の意味からすると、戦前の日本の全領土から放棄すべき領土を除いた部分が現在の日本の領土である事は、国際法上認められていると考えられます。
これは、日本国の領土範囲を外国が認めているのであって、日本が法律で明示的に主張しているわけではありません。
昭和憲法によると、日本国の主権者は日本国民であり、国民個人の財産権も保障されています。 憲法で国民に土地の所有権を認めるという事は、その土地の領有権が日本国政府にある事が必須となります。しかし、政府に対する主権も日本国民に有るので、主権のある自分達がその土地の所有権を自分に保障している事になります。
つまり、外国人によって領有権が保障された土地の所有権を、自分が自分に認めている事になります。
日本人が日本人を拉致した場合、日本の法律で裁きを下すことは出来ますが、外国人が国家として日本人を拉致しても、その外国人を裁くことは出来ません。事実として、北朝鮮による拉致事件で裁かれた外国人はいません。 ここで、拉致事件と書いたのは、本来外国人による拉致は「国家主権」の侵害なのですが、昭和憲法には「国家主権」に関する条文が無い為です。
日本国民に主権が有っても、主権が有るとされる日本国民自身が自分に与えているのであって、外国人に対しては意味を持ちません。「国家主権」が担保されない限り、国家間の主権侵害には対応でき無い事になります。
これらの矛盾点は、「成文憲法」に拘っているからです。
慣例法(不文法)を重視する国際法では、日本の国土は日本国に領有権が有る事を認めています。同時に「国家主権」や自衛権も国際法によって当然に認められています。
(独立)国家とは外交権や領有権・自衛権等を持っている事は当然で、「国家主権」の発動を自分の意思で決定できなければ、国家とは言えません。
日本の憲法学者の多くは、憲法に書かれていない事で自衛権を否定し、自衛隊を違憲だと主張します。 そもそも憲法学者とは、国内法が憲法違反かどうかではなく、憲法が国際法に準拠しているかどうかを研究するのが本来の仕事です。
法律や行政が憲法違反かどうかを審査するのは、裁判所の仕事です。
また、憲法学者が成文憲法を重視するのなら、国連憲章第51条に書かれている「・・・個別的又は集団的自衛の固有の権利・・・」が昭和憲法に書かれていない事を指摘し、憲法改正を主張しなくてはなりません。
更に、国連憲章第45条「・・・加盟国は、合同の国際的強制行動のため国内空軍割当部隊を直ちに利用に供することができるように保持しなければならない。・・・」と書かれているように、国連加盟国である日本は空軍を保持する義務を負わされているにも拘らず、昭和憲法の制約により国際法に違反する状態が続いています。
日本には「国家主権が無い」為に、この「空軍の保持」を在日米軍が代行しています。
これは昭和憲法前文に書かれている「・・・われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、『国家の名誉』にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」との理念とは、かけ離れた状態になっています。
憲法自身が「自国の主権」は「理想と理念」であって「達成する目的」である、と「国家主権」の現存を否定しています。
それどころか、「憲法を守れ」と言う人は『国家の名誉』の言葉自体を「右翼の言いぐさ」として毛嫌いします。これは、憲法を読んだことが無いからだと思います。
国際法と日本国憲法の優先順位の違い。そこに存在する矛盾点。国内法しか感心がない国民に中々周知されません。
職場でも時折、憲法の話やGHQ裁判への疑問など述べることがありますが、あきれた顔をされたり、時には「事実を捻じ曲げるような、そんな話は聞きたくないな」などと言われます。
彼らは、ネット情報をほとんど見ません。テレビ、新聞しか見ない人たちです。日本人の半数以上が同じような生活を送っていると思います。
日本人の「情報」に対する意識の低さ(無批判)は、どうなっているのでしょう。いったいいつになったら日本国の「国家主権」は確立されるのか、とむなしくなります。
世界が侵略戦争で最も混乱していた18世紀の日本は、江戸時代で最も安定していた時代でした。「動乱」に対して「空虚」とも見えます。
その「むなしい」時代に書かれた「葉隠」に「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」と書いてあるように、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」だと思います。
今の日本は、「国民主権」によって「公」が「他人の多数決」で決まってしまいます。私は「自分の奉ずる公」を探していますがまだ見つかりません。
恐らく過去の「日本人」と同様に「緩急あれば」自然に見つかると思います。