【ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。】
「信仰」とは、本来は神を信じる事だと思われますが、一般人には神(の言葉)を理解する能力は有りません。そこで、キリストやブッダの様な悟りを開いた人の教えを信じる事で「宗教」が生まれます。しかし、キリストもブッダも本源的な神ではないので、「神を信じなさい。」と言う「人の言葉」を信じているに過ぎません。実際には、キリストもブッダも自身が宗教を広めた訳ではなく、その弟子たちがその教えを広め、宗派ごとの「宗教」が始まりました。これを「信教」と言い、決して「神」そのものを直接理解している訳では有りません。
ここで「信教」を定義してみると、「一般人が、経験的にも合理的にも理解したり制御することのできない現象や存在に対して、意味や価値を与えたり理解をした(超)人の信念や行動、教えを信じる事。」と言えます。そして、「共産主義」も、この定義に合致しています。
「共産主義」は、歴史を振り返って考えても、経験的にも合理的にも理解したり制御することのできない「現象」である事は明らかですが、マルクスやエンゲルスの体系論や、レーニンやスターリン、毛沢東の実践論を信じた数多くの共産主義者がいます。
「宗教」の名のもとに多くの人が殺されたのと同様に、「共産主義」の名のもとに多くの人が殺されました。この理解しがたい現象も、「共産主義」は進化(劣化?)した「宗教」の一つと考えれば、当然の成り行きとも言えます。一般に、一神教の世界では他の信教を排除します。「共産主義」の場合は「宗教」どころか他の「思想」も排除するので「共産原理主義」と言った方が相応しいかもしれません。
一神教では、この世の総てのモノは神が創造したとされ、神の形に似せて作られた「ヒト」が「モノ」の支配権を有しているとされています。また、神を信じない「ヒトモドキ」は「ヒト」の支配下に置かれ、運が悪ければ抹殺されます。ここでの「ヒト」と「モノ」は唯物史観から捉えた「人」と「物」です。「宗教の原理」に矛盾するようにも見えますが、自然そのものが神の創造物なので「ヒトの心(意識)も自然の法則に従う成分に過ぎない」と言え、「唯心論」で神聖な自然を変える事は許されないからです。但し、「ヒトモドキ」は対象となる一神教とは別の「人の心」を持っています。
「共産主義」では、この世の総ての「モノ」は「ヒト」が認識する事で物質となり、物質は等しく人民の「モノ」ととされ、人民の代表が「ヒト」や「モノ」の支配権を有しているとされています。また、「共産主義」を信じない「ヒトモドキ」は人民の支配下に置かれ、運が悪ければ抹殺されます。しかし、ここで言う「ヒトモドキ」は「共産主義」には無い「人の心」を持っています。
「唯心思想」の範疇である「宗教」では、「物の本質」は「空」であり、人の邪念が「モノ」を生むとされます。ならば「人の本質」も「空」であり、人の邪念が「ヒト」と成すとも言え、聖者以外は「唯物論」に帰結します。
「唯物思想」である「共産主義」では、「人の心」は「科学の結果」であり、「科学」に対する人の無知が邪教に奔らせるとされています。当然「唯心論」を否定し、粛正による「殺人」も「科学の結果」に過ぎません。
「唯識思想」はその中間的思想で、人の英知が認識する事で「モノ」に意味が生じ「物」に成ります。また「ヒト」も、意識している間は「人」として存在し続ける事が出来ます。
日本の神道では最初に宇宙が在り、「モノ」が生まれ、そこに神が内在する事により物が生成されます。 岩石が砕けて砂になれば、砂の数だけ神がそこに内在する事になり、これは、エントロピー増大の法則にも合致した自然法則であり、宗教ではありません。逆に、さざれ石が巌(いわお)となる場合は、一見すると「秩序だった方向」に進んでいるようにも見えますが、実際には重力の影響で熱を放出しながら固化するので、系としてはエントロピー増大の法則にしたがいます。そして「巌」の神が内在します。
人体も元々は「モノ」ですが、神が内在する事により「ヒト」が「人」になります。「人の心」は「内在神」の相互作用と言えます。神や主義を信じても信じなくても、物質や人間には神が内在しているので、最初から平等であり支配関係は生まれません。その役割が違うだけです。神道には、道があるだけで教えは有りません。与えられた「人の役割」も、道に沿っていれば自由に変える事が出来ます。つまり、神道は宗教ではなく「道徳」です。
「信仰」とは、本来は神を信じる事だと思われますが、一般人には神(の言葉)を理解する能力は有りません。そこで、キリストやブッダの様な悟りを開いた人の教えを信じる事で「宗教」が生まれます。しかし、キリストもブッダも本源的な神ではないので、「神を信じなさい。」と言う「人の言葉」を信じているに過ぎません。実際には、キリストもブッダも自身が宗教を広めた訳ではなく、その弟子たちがその教えを広め、宗派ごとの「宗教」が始まりました。これを「信教」と言い、決して「神」そのものを直接理解している訳では有りません。
ここで「信教」を定義してみると、「一般人が、経験的にも合理的にも理解したり制御することのできない現象や存在に対して、意味や価値を与えたり理解をした(超)人の信念や行動、教えを信じる事。」と言えます。そして、「共産主義」も、この定義に合致しています。
「共産主義」は、歴史を振り返って考えても、経験的にも合理的にも理解したり制御することのできない「現象」である事は明らかですが、マルクスやエンゲルスの体系論や、レーニンやスターリン、毛沢東の実践論を信じた数多くの共産主義者がいます。
「宗教」の名のもとに多くの人が殺されたのと同様に、「共産主義」の名のもとに多くの人が殺されました。この理解しがたい現象も、「共産主義」は進化(劣化?)した「宗教」の一つと考えれば、当然の成り行きとも言えます。一般に、一神教の世界では他の信教を排除します。「共産主義」の場合は「宗教」どころか他の「思想」も排除するので「共産原理主義」と言った方が相応しいかもしれません。
一神教では、この世の総てのモノは神が創造したとされ、神の形に似せて作られた「ヒト」が「モノ」の支配権を有しているとされています。また、神を信じない「ヒトモドキ」は「ヒト」の支配下に置かれ、運が悪ければ抹殺されます。ここでの「ヒト」と「モノ」は唯物史観から捉えた「人」と「物」です。「宗教の原理」に矛盾するようにも見えますが、自然そのものが神の創造物なので「ヒトの心(意識)も自然の法則に従う成分に過ぎない」と言え、「唯心論」で神聖な自然を変える事は許されないからです。但し、「ヒトモドキ」は対象となる一神教とは別の「人の心」を持っています。
「共産主義」では、この世の総ての「モノ」は「ヒト」が認識する事で物質となり、物質は等しく人民の「モノ」ととされ、人民の代表が「ヒト」や「モノ」の支配権を有しているとされています。また、「共産主義」を信じない「ヒトモドキ」は人民の支配下に置かれ、運が悪ければ抹殺されます。しかし、ここで言う「ヒトモドキ」は「共産主義」には無い「人の心」を持っています。
「唯心思想」の範疇である「宗教」では、「物の本質」は「空」であり、人の邪念が「モノ」を生むとされます。ならば「人の本質」も「空」であり、人の邪念が「ヒト」と成すとも言え、聖者以外は「唯物論」に帰結します。
「唯物思想」である「共産主義」では、「人の心」は「科学の結果」であり、「科学」に対する人の無知が邪教に奔らせるとされています。当然「唯心論」を否定し、粛正による「殺人」も「科学の結果」に過ぎません。
「唯識思想」はその中間的思想で、人の英知が認識する事で「モノ」に意味が生じ「物」に成ります。また「ヒト」も、意識している間は「人」として存在し続ける事が出来ます。
日本の神道では最初に宇宙が在り、「モノ」が生まれ、そこに神が内在する事により物が生成されます。 岩石が砕けて砂になれば、砂の数だけ神がそこに内在する事になり、これは、エントロピー増大の法則にも合致した自然法則であり、宗教ではありません。逆に、さざれ石が巌(いわお)となる場合は、一見すると「秩序だった方向」に進んでいるようにも見えますが、実際には重力の影響で熱を放出しながら固化するので、系としてはエントロピー増大の法則にしたがいます。そして「巌」の神が内在します。
人体も元々は「モノ」ですが、神が内在する事により「ヒト」が「人」になります。「人の心」は「内在神」の相互作用と言えます。神や主義を信じても信じなくても、物質や人間には神が内在しているので、最初から平等であり支配関係は生まれません。その役割が違うだけです。神道には、道があるだけで教えは有りません。与えられた「人の役割」も、道に沿っていれば自由に変える事が出来ます。つまり、神道は宗教ではなく「道徳」です。
茶道とか花道っていうのもそうですね。
ただお茶を入れて飲んだり、花を生けて愛でたりしているだけなら、
最も自然なあり方=神の道と言えるが。
ヒトモドキは不自然なモノに変えていく。
宗教もヒトモドキが作った不自然な代物に過ぎない。
本来宇宙は共産主義。
ヒトモドキはそれを悪用しているに過ぎない。
無から生まれた「宇宙」は破壊の限りを尽くして現在に至り、未来(エントロピー増大の法則)は破壊するモノが無くなり無に帰します。この事実に恐怖心を抱いて生まれたのが「一神教」で、この事実を現世利益に利用したのが「共産主義教」です。
エントロピー増大の法則を理解し受け入れたのが「神道」です。
香港人は中国共産党から見るとヒトモドキですが、日本から見ると人間で、神道は人道に通じます。