「東條による言論弾圧」と言われている例として、松前重義・中野正剛・新名丈夫の事件を「懐疑的に」調べてみました。
松前重義は当初、日米開戦には賛成したものの、開戦後に「日本の生産力はアメリカに敵わない」事を知って、戦争に否定的になった事から、「二等兵として召集され、南方戦線へ送られたのは、東條による懲罰徴兵だ」と思ったようです。実際には、松前は戦闘には参加せず、軍政顧問として勤務し無事に復員しました。戦後は社会党の国会議員になり、ソ連との交流促進に尽力したとされています。
中野正剛は戦前の朝日新聞の元記者で、独ソ不可侵条約締結時にはヒトラーを偉大な政治家と讃え、ドイツによるソ連侵攻が始まるとヒトラーに対して否定的になりました。(中国)南進論・日独伊三国同盟を支持し、国家社会主義思想の持ち主で、東條批判をした事が「特高や憲兵による弾圧」に結び付いたとされています。しかし、この批判は戦前・戦中に戦争を煽った「朝日新聞」の紙上記事が主で、「自分から仕掛けた朝日の罠に、自ら嵌まった」とも考えられ、その後自刃しています。
新名丈夫の「竹槍事件」は、東条の所謂「竹やり作戦」に対する批判記事を毎日新聞に執筆し「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」と更なる「海軍の軍拡」を主張しました、これは「海軍と陸軍の抗争」に起因し、これに反発した東條が「新名を二等兵として陸軍に懲罰召集をかけた」とされる事件です。 東條の小賢しい処分ですが、戦時中に毎日新聞を利用して陸・海軍の対立を煽る様な記事を書いた人物に対する処分としては軽すぎます。これは逆に「東條が独裁者では無かった」事を示しています。
東條による本土決戦の為の「竹やり作戦」は、原爆が使用されなかったベトナム戦争では成功しました。ベトナム戦争では多くの元日本兵も対米参戦していたそうです。
最大の言論弾圧とされる「横浜事件」なども、多くは「ソ連共産党を賛美」した事に対するもので、当時にしてみれば当然の処置と言えます。東條は近衛と違い、「コミンテルンの罠」に気付いていたのかも知れません。当時の状況から、「日ソ不可侵条約」下にあるソ連を表立って敵視したり、逆に融和的になりすぎてもソ連の謀略による日本侵攻を早める恐れがあったからです。
1944年に「海軍」はマリアナ沖海戦で失態を犯して大敗しましたが、東條には海軍には勿論のこと、サイパンの陸軍部隊も含めて一切の指揮権は無かったにも拘らず、閣僚(岸信介)の裏切りによって辞任に追い込まれました。事実は、「大本営海軍報道部」がマリアナ沖海戦での被害を過少に発表し、この動きに対して東條は「これは陸海軍の共同作戦ではなく連合艦隊だけの作戦で、陸軍が発表についてとやかく口をはさめない。」と発言しています。首相には軍隊に対する指揮権が、元々無かった事を示しています。
明治憲法では総理大臣による閣僚に対する罷免権も無かったので、良し悪しは別にして「独裁的に首相が閣僚を罷免できる昭和憲法より民主的」とも言えます。
戦後の東條に対するイメージや「陸軍悪玉説」などは、毎日・朝日・NHKが誤解や偏見、或いは意図をもって創作したもので、過去を現在の知識や常識で論ずることは困難です。
戦前戦後を含めて「言論弾圧」をしているのは「報道機関」です。
戦前は「国家社会主義(ナチスの思想)」が左翼か右翼かは、私には判断できません。寧ろ「極右」とも思えます。
自分の上は、地球の裏側では下になります。自分の左は、向いの人の右になります。
コミンテルン自体がグローバル資本の罠に嵌まっているとも言え、「左右」の定義も怪しくなります。
この、どちらとも言えない「現象」から、西洋人は「勝った方が正しい。」と主張し、「正義は勝つ。」と結論付けたと思います。
「本来の保守的な日本人」は「勝敗と正邪は関係ない。」と理解し、私は「左右」は相対的なモノと理解しています。