「検閲」には、一般的に使う意味での ①「基準や規程にあっているかどうかを調べあらためること。」と、法的な意味として使う ②「書籍・新聞・映画・放送などの著作物により表現される内容を、公権力が事前に強制的に調べること。」があります。
憲法第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
最高裁判決(1984年12月12日)で「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表を”禁止する目的”で、対象とされる表現物を一般的・網羅的に、”発表前に審査”した上、不適当と認めるものの発表を禁止すること。」とされています。
憲法により禁止されているのは ② です。あくまでも「公権力」と「事前」が必須です。例えば、GHQが報道機関に対して「事後検閲」したと言われていますが、これは法律用語ではありません。朝日新聞やNHKがGHQに忖度した事を隠蔽するために使われた「造語」です。
また「検閲」に似た言葉で「検定」がありますが、教科書検定は「教科書を採用する目的で」審査するので「検閲」とは言いません。
憲法第89条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
公の財産を「公の支配に属さない団体」の使用に供する事は禁止されているので、公が「公序良俗に反していると判断」した場合は中止を求めることが出来ます。また、「公の支配を拒否する団体」に公金を支出した場合や、公的施設を利用させた場合は「憲法違反」になり、責任を問われる恐れが出て来ます。
例えば「猥褻は芸術だ。」と言っても、猥褻物の撤去は可能です。また、これは「検閲」とは言いません。「検閲」では、個人的な特定の場所での公開も禁止する事が可能ですが、今回の不自由展の「汚物」は既に「私的に公開済み」です。トリエンナーレの場合は公の場所なでの、公開は公の判断が優先され「検閲」とは言いません。
河村たかし市長は「(展示物は)表現の不自由という領域ではなく、日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない。厳重に抗議するとともに、展示の中止を含めた適切な対応を求める。」と、「中止を含めた適切な対応」を「展示物の発表後」に「任意に調べ」て主張しました。この「当該公権力者ではない」市長の発言は「検閲の条件」を全く満たしていません。市長には「展示を中止(禁止)させる権限は有りません。権限が有るとすれば県議会だと思いますが、大村知事は権限を越えて「中止を発表」した可能性が有ります。
一般市民が①の「一般的に言う検閲」として非難する事は可能ですが、これを「憲法21条」を引用して非難する事は、論外と言えます。
しかし、「表現の不自由展・その後」のコンセプトは「組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、いかにして排除されたのかを展示不許可になった理由とともに展示すること。」なので、平穏に展示会が継続されていれば「違法な検閲や忖度」が無かった事になり、「今回の展示会は失敗」となる筈でした。
ところが、「展示会を中止」した事で、「・その後」の罠に嵌まったとも言えます。まさに、今が「・その後」です。
更なる「ところが」ですが、余りにも杜撰な開催者側の過去の行状が暴かれ始めて、この件は収束に向かいつつあります。
「雇い主とその仲間たち」には「悪たれ」はつかないと思います。
それでも、安全を保障し「カネを出すから中共の悪口を書いてくれ。」と言えば、なびくかも知れません。