広島の「原爆死没者慰霊碑」には「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と書かれていて、「主語論争」がありますが、書いた人に聞けば議論の余地は無いと思います。
その碑文の責任者が述べたのは「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」です。
明らかに主語は「慰霊する人(全て)」です。また、「再び過ちを・・・」と言っている事から、先の戦争自体が「過ち」であると判断しているのも明らかで、当然その当事者には「犠牲者」も含まれます。何故なら、戦争で生き残った人と戦争の犠牲者とを、明確に「戦争責任の有無」で分ける事は出来ないからです。
若しも「戦争責任の有無」を判断できるとしたら、「犠牲者」と「生存者」を分けたのは「アメリカ大統領の意志」と言え、穿った見方をすると、「碑文の責任者」は「アメリカの大統領の意志に従う」と言っている事になります。
ところで、「この戦争が過ち」だったとしたら、戦時中に戦争の責任を担った「犠牲者」と、戦後に生まれた「慰霊する人」に関して、何方に「より大きな責任」が有るかです。この慰霊碑の責任者は、両者の何方が戦争の責任を多く担う義務が有ると考えているのかを聞きたいものです。推測ですが、「過ちは繰り返しませぬから」の意味からすると、最初に「過ち」を侵したのは「犠牲者」側であり、「繰り返しませぬ」のは戦後に生まれた「慰霊者」側となり、過去の戦争責任を「犠牲者」に押し付けていると言えます。勿論、平和の責任は「慰霊する人」が担うので、戦後に生まれた人には何の瑕疵もありません。
慰霊:死んだ人の霊魂をなぐさめること。
「犠牲者」側に「過失の責任」があったと言われて、魂が慰められるとは思いません。そもそも、原爆被害者はその殆どが民間人で、中には米国人も居たと聞いています。恐らく「宗教」に携わる人も居たと思います。その「被害者」たちが、「貴方たちの過失の一端を、私が担います。」と聞いたら、何と思うでしょうか。多くの人は、敵・味方の関係なく「正義の為に戦っている」と信じていたと思いますが、それが「過失」であったと言われるのです。
生き残った人が「自分たちの過失で犠牲者を出した」と、個人的に反省するのなら理解できますが、慰霊碑の前で「犠牲者」に対して、或いは未だ生まれていなかった人にも「過失」が有ると言うのは「反省した振り」をする欺瞞と言えます。
欺瞞で「平和」を維持しようとする事は、「中共の侵略」を見て見ぬふりをする態度に通じます。それこそが「過ち」と言えます。
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その碑文の責任者が述べたのは「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」です。
明らかに主語は「慰霊する人(全て)」です。また、「再び過ちを・・・」と言っている事から、先の戦争自体が「過ち」であると判断しているのも明らかで、当然その当事者には「犠牲者」も含まれます。何故なら、戦争で生き残った人と戦争の犠牲者とを、明確に「戦争責任の有無」で分ける事は出来ないからです。
若しも「戦争責任の有無」を判断できるとしたら、「犠牲者」と「生存者」を分けたのは「アメリカ大統領の意志」と言え、穿った見方をすると、「碑文の責任者」は「アメリカの大統領の意志に従う」と言っている事になります。
ところで、「この戦争が過ち」だったとしたら、戦時中に戦争の責任を担った「犠牲者」と、戦後に生まれた「慰霊する人」に関して、何方に「より大きな責任」が有るかです。この慰霊碑の責任者は、両者の何方が戦争の責任を多く担う義務が有ると考えているのかを聞きたいものです。推測ですが、「過ちは繰り返しませぬから」の意味からすると、最初に「過ち」を侵したのは「犠牲者」側であり、「繰り返しませぬ」のは戦後に生まれた「慰霊者」側となり、過去の戦争責任を「犠牲者」に押し付けていると言えます。勿論、平和の責任は「慰霊する人」が担うので、戦後に生まれた人には何の瑕疵もありません。
慰霊:死んだ人の霊魂をなぐさめること。
「犠牲者」側に「過失の責任」があったと言われて、魂が慰められるとは思いません。そもそも、原爆被害者はその殆どが民間人で、中には米国人も居たと聞いています。恐らく「宗教」に携わる人も居たと思います。その「被害者」たちが、「貴方たちの過失の一端を、私が担います。」と聞いたら、何と思うでしょうか。多くの人は、敵・味方の関係なく「正義の為に戦っている」と信じていたと思いますが、それが「過失」であったと言われるのです。
生き残った人が「自分たちの過失で犠牲者を出した」と、個人的に反省するのなら理解できますが、慰霊碑の前で「犠牲者」に対して、或いは未だ生まれていなかった人にも「過失」が有ると言うのは「反省した振り」をする欺瞞と言えます。
欺瞞で「平和」を維持しようとする事は、「中共の侵略」を見て見ぬふりをする態度に通じます。それこそが「過ち」と言えます。
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大砲で死ぬか、原爆で死ぬか、経済封鎖で死ぬか、選択の自由は残されています。
当事者には「過ち」は認識できません。「過ち」と決め付けている未来の人は、自分が「過ち🐀」の当事者で有る事には気付きません。更に未来の人類も同じ事を繰り返します。現に私も「行き過ぎているかもしれない投稿」を継続🐁ですが、今の自分には認識できません。
「過ち」とは「行き過ぎた事」ですが、どこまでが正常でどこからが行き過ぎなのかは、行動が「過去」となってから「未来」に判断する事なので、人間が進化する限り必ず「過ち」は形を変えて繰り返されます。
軍人達もみんな軍国主義に洗脳されてたんじゃないですかね。
そういうこともすべてひっくるめて「過ち」と認識しない限り、同じ過ちが繰り返されるでしょう。
「戦没者」の内、軍人(二百万人)の場合は「愛国心や天皇崇拝(国体護持)」が強ければ強いほど、多くの他人に代わって死ぬことが出来ます。
「死んだ二百万人のお陰で、生き残ることが出来た」と考えるのは国際標準です。
「生き残った人の過ちで、二百万人が犠牲になった」と考えるのはまだ許容範囲です。
「国を守る為に戦った事が過ちだった」と考える人は、誰かに騙されているか、腹に一物のある人です。
「行き過ぎた愛国心」が洗脳だとしても、「行き過ぎた平和思想☮」が洗脳でない証拠は有りません。
その型枠には「侵略者と戦争をすると5%が死に、平和を貫くと国を失う。あなたは何方の型枠を選びますか?」と書かれています。🐒
日本は5%が死にました。
チベット、ウイグル・・・は国を失い臓器移植の養殖場になりました。🐡
今の日本の有り様を見て戦没者達が慰められているとは到底思えないでちゅ🐰