オメガねこ

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「神の実在」 と 「賭け」

2019年11月14日 | 思想・思考

 「パンセ」の233節にある「パスカルの賭け」では「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す。」と提起されています。この提起の真偽を「神が実在しない方に賭けた人の損得。」と比較する事で確認してみます。但し、前者を(A)後者を(B)とし、ここでの「神」とは「一神教の絶対神」とします。

① 神の実在が証明された場合。

 Aは、報奨を受け取ることが出来ますが、受け取る前後での生活は変わる事は有りません。また、受け取った報奨にも意味は無く、ただ神に仕えているだけです。

 Bは、賭け金を失いますが、過去を悔い改める事で新しく正しい人生が始まり、賭け金を失った事を神に感謝します。

② 神は実在しないことが証明された場合。

 Aは、賭け金を失うばかりか、今まで無駄な人生を送ってしまった事を悔やみます。

 Bは、報奨を受け、今まで以上の豊かな人生を送ることが出来ます。

③ 神の実在や、実在しない事を証明できない場合。

 悪い事をして天罰が下ると「神の存在」を仄めかす事になりますが、あくまでも証明は出来ない事が前提なので、BはAを騙しても神の罰を受ける事は無く、法律に反しない範囲で楽しい生活を送る事が出来ます。それでも、AはいつでもBを許し、心豊かな生活を送ることが出来ます。

 つまり、これは「パスカルの提起」とは反対に、「神は実在しない」方に賭けたBが得をすると言えます。これでは「宗教」の尊厳が失われるので、パスカルよりも500年以上前に浄土宗では、死ぬ直前まで仏を信じない人でも、死の間際に「南無阿弥陀仏」と数回繰り返す事で浄土に逝けるとされています。それどころか、浄土真宗では「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という「悪人正機」を親鸞は教えています。

 「悪人正機」では、人間はその存在自体が「悪人」であるとしています。若し、自分自身を「善人」だと思うのならば何もしなくても「善人」と言えますが、何もしない人間は怠け者であり「善人」ではないと言えます。だからと言って「善人」になろうと努力する事は「自分が善人ではないと認めている」と言えます。また、善い事をしなければ救済されないとの思う人は「阿弥陀仏」を疑う心を持つ「悪人」と言えます。

 神は「絶対」なので、人間の諸行は総て神の意志に拠ります。阿弥陀仏は「救済根機」を人間に与えていて、どの様な人間でも必ず救済します。これらは、一神教の原理なので、「自由に生きる方が得をする」と言えます。但し「倫理」が必要になります。

 しかし、神道では「神は萬物に内在している」ので、「神は実在しない」事は定義済みであり「賭け」の対象にはなりません。自分の行動を「自分の内在神も見ている」ことが、日本人の行動を特徴づけています。これを「道徳」と言います。



2 コメント

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Unknown (topstartkana)
2019-11-15 11:16:12
テレビとうさんさんこんにちは!

私は以前、クリスチャンでした(でした、という言い方も変なんですが)

キリスト教の信仰と決別した理由は、武士道を読んだ影響も大きかったと思いますが、道徳により秩序を護り、おおむね歴史を通じ平和を保ってきた日本人にとって、この唯一絶対の神への信仰は不要だ、と感じたからだと思います

また、旧約聖書と新約聖書には多くの矛盾が見られる、と思いますが、それも唯一絶対の神の壮大なご計画なのです、という言葉を聞いた時、さんざんっぱら戦争を引き起こしておいてそれかい!
と、何かが急速に冷めて行った、そんな感じでした

いつも良い記事、楽しみにしております
ありがとうございました
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Unknown (yk-soft-85)
2019-11-15 16:22:42
小平次さんへ。 コメント有難うございます。

キリスト教徒でも倫理観が有れば問題ないと思います。但し、最初から倫理観が有れば神様にすがる必要はないとも思えますし、お国柄によって倫理観が違うので「郷に入っては郷に従え」が最低条件だと思います。
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