陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

安倍龍太郎の小説『等伯』

2014-07-27 | 読書論・出版・本と雑誌の感想


歴史小説、とくに、まったく創作の時代劇ではなくして、事実に即した大河ドラマのようなものである場合、読者の興味はあの事件の背景はなにか、ということに尽きます。歴史とは人間の営みそのものですから、人がぶつかりあうことである事実が生まれる。それの善悪は語り部によるとしても、起った事実を覆すことはできない。

そして歴史上の美術家を扱う場合にも、当然ながら同じことが言えます。名にしおうあの傑作、時代を代表し、その当時の美意識を塗り替え、それが歴史のメルクマールとなりえるような名作。はたして、それはどのような経緯を持って生まれたのか。そこに至るまでに、作り手にどのようなドラマがあったのか。読者、視聴者が知りたいのはまさにそれであったはずです。

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私はそのような期待をもって、直木賞受賞作の『等伯』の頁を開きました。
安倍龍太郎という作家の書きものを読むのははじめてですが、いささか裏切られた感じがしました。ひじょうに多くの文献にあたり、調べたことを書き尽くしているのはよいのですが、肝心の画家としての等伯の面白さ、画面に向かう絵師の凄味がいっこうに見えてこないのです。このあまりに冗長なドラマからは。

北陸は能登で、絵仏師であり染物屋として地元では知られた長谷川家の婿養子だった、将来有望な信春(のちの等伯)。しかし、彼はもともと武門の生まれであったがため、実の兄にそそのかされ主家の再興運動に加担し、出奔せざるをえなくなる。もともと上京して一旗揚げたいという田舎ものならではの野心はあったものの、妻子を連れての逃避行は苦難の連続。やがて狩野家への弟子入りを果たしたものの破門される。彼はめきめきと腕を上げ、次第に長谷川一派を築き上げるまでに。

長谷川等伯のおおよその人生というのは、学生時代の美術史の講義で知っていましたし、「松林図屏風」や智積院の「楓図襖」などは実見しています。しかし、悲しいかな、本作ではまったく、「画家としての」長谷川等伯その人の本能というものが見えてこない。筆を執るシーンはあるもののおなぐさみ程度の描写でさっさと絵ができあがっており、味気ない。しかも、なぜかチャンバラ劇に演じたり、武人としての腕前ばかりが前面に出されたり、そうかと思えば、貴族の姫君にうつつを抜かして騙されたり、家庭をまもる堅実な奥さんを泣かせるような羽目に陥っても反省せずに、才能ある息子にすら嫉妬したりする。なんというか、かなり情けないオヤジとしか思えない長谷川等伯です。

足利義輝、近衛前久、織田信長、豊臣秀吉などなど、当時の実在してであろう重要人物の動向をからめて、かなりダイナミックに物語が動くのですが、いかんせん、描写があっさりしていて、しかも時代がかったレトリックがないので、歴史の重みが感じられないのですね。当時の空気感が感じられない。等伯自身が小人物ぶりで魅力がないし、その才能を発揮させたであろう作品の経緯についてときめくようなエピソードがないし。くよくよ悩んでばかりで苦労をかけた先妻に「選ばれた身の上」──その台詞が説得力を持つだけの絵に対する情念などの描写が作中では薄いので寒く感じる──などとお尻を叩かれないと筆が持てない、喰えないのに自信家の芸術家きどりぶりが鼻について嫌味があります。なにかあったらお酒に逃げたり。それなのに、戦災で焼け出されて自作が失われる危機にも無頓着など、創作者の姿勢としてどうなのか、と思う節もあり。

資料を多く集めたのでしょうか、法華経がどうたらとか、そのあたりの説明もくどい。そのわりに絵に対する説明は、失礼ながら、どっかの美術館のパンフレットの解説を抜き書きしてきたようなあたりさわりのない感じがします。著者は題材として珍しいし、信長の同時代で書きやすいから選んだだけで、美術そのものには興味がないのかな、と鼻白む思いでした。描写がすごくよそよしくて、画家が描いたものと真っ正面から対話して感じとってきたものが、そこにはなかったのです。

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とはいえ、終盤の「松林図屏風」が生まれるあたりのエピソードの盛り上げ方は圧巻でした。ただ、息子の久蔵を失った直後に淡々としていたり、あまりに狩野永徳や石田三成などをヒール役としていびつに造形しすぎたきらいがあります。首をひねりたくなる点はいくつかあります。等伯がミケランジェロやダヴィンチの絵を知っていて、西洋の遠近法を真似たいと思っていたとか、亡くなった夫人の顔を「モナ・リザ」に模して描きたいとか言い出してしまったところ。そういう学説があるのか知らないが、かなり無理があるのでは。

当時の絵師は一個人の感性よりも為政者の美学を体現する表現者という位置づけであるのに、それを否定していながら注文を受けたいあまりに権力にすり寄っていく等伯の姿に違和感を覚えました。そのわりに賄賂で買収を画策したくせに、金にあかせて注文をとるのは汚いと駄々こねてみたり。自分が魂かけた画業に割り切っていないんですよね。武士は喰わねど高楊枝とか、芸術家は求道者で金に目が暗むな、とか作者の持論のような、中途半端な精神論が多い。

好きなものを好きなだけ描けばいい、「私」のステキな感性だけが大事!というアマチュア的な意気込みは、近代的なアーティストの感覚です。現代人の、創作者でもない、ただの傍観者の目線でしかない。

当時の画家は職人に過ぎなかったというのをよく捉えていたのは、おなじく等伯との因縁を永徳を主人公にして描いた山本兼一氏の『花鳥の夢』のほうで、読み比べてみるとよくわかります。こちらのほうは群像劇として、またトリビアとして周辺知識をつまみぐいするには面白いと思いますが、やはり美術家の人生を描いたものとしてはもの足りないです。線や色に残された画家の叫びに真摯に向き合っていないというか、等伯ってそんな人じゃないでしょ、という想いがあって。拳とか剣とかではなくて、美の表現で天才永徳を脅かしたというところをもっと見せつけてほしかったというか。直後に『花鳥の夢』を読んでしまったので、よけいにそう感じました。ただし、山本版のほうは、等伯の存在感がやや希薄すぎて、そこも不満だったりはしますが…。


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美の名門に生まれ、才気に走り、嫉妬に狂う。桃山の天才絵師・狩野永徳の半生を高い美意識で描いた山本兼一の歴史小説。


【画像】
長谷川等伯『松林図屏風』(右雙・部分)
1593-95年頃、六曲一双、紙本墨画、東京国立博物館蔵



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