執拗にくりかえしますが、この作品ではロボットは無駄な要素、もしくはお慰み程度に存在感をもつ小道具ではありません。「ロボット」という要素は、「百合」に劣後するものではない。絶妙に脂身のあるところからしっかりした筋骨まで、なにもかも、すべておいしく頂けるんですよ、というのが本考察の主旨であります。なぜかというに、一見設定が雑っぽく思えるけれど、スタッフが細かいところまで制作してあるからです。
さて、前座の結論が出かけたところで、具体的に各話を掘り下げてみるのですが。その前に。
大ざっぱに本作品でのロボットについて、もういちど、復習しておきましょう。え~、まだロボットの話するの~? そろそろ、姫子と千歌音のキャッキャウフフについて語ってよ、とおっしゃる方。まあ、ここはひとつ気長にお願いします。乱暴な仮説には、もうすこし土台固めが必要です。
旧版ブックレットには、ロボットのカラー図入りでの解説頁があります。
第三巻がオロチ衆、そして第四巻にはアメノムラクモが特集されております。残念ながら、2009年DVD-BOXの新版ブックレットにはこちらが記載されていません。しかも、このDVD-BOX版はボックス外装の表紙にすらロボットが描かれていません。なので、こちらの新版をお求めになられた方は事前情報無しに視聴すると、いきなりロボットが出てくるので驚かれたのではないでしょうか。見晴らしのいいハイウェイをご機嫌で疾走していたら、いきなり、熊が襲って来ましたよ、みたいなスリルが味わえます。ちなみにモノクロであれば、原画集や設定資料集にもロボットのスケッチだけは載っています。今回は、この旧版冊子をもとに考察していきますね。
第三巻冊子の「『オロチ分身大図鑑』~八大巨神のすべて~」で、オロチ衆八体(いや、神様だから八柱というべきか)をまとめた特徴として、以下の記述があります。
・ロボットに似た外見とギミックを持つが、あくまで「神様」である
・搭乗者の性格、嗜好、精神状態によって戦闘力が変化する
・コックピットは連携しあっていて、異空間であり、搭乗者どうしが行き来できる
・不死身なので倒されても、何度も再生してしまう
・戦闘不能となると石化して崩壊してしまう
・全部が融合して合体ヤマタノオロチになることができる
便宜上、ロボットと呼んでいますが、作品上の扱いは「神様」。
八機にはそれぞれ日本神話をモチーフにしたと思われる神様らしい名前があります。でも、オロチ衆の全員が全員、正しい名前を読んでいません。かってに愛称をつけていたりします。いや、ほんと、訳がわかりませんね。しかも、搭乗者次第で外見や戦闘力まで変わってしまうときてる。神という、人間とはまったく別の存在で、しかも名前を与えられたものなのに?
各機体の解説を読むと、それぞれの特徴や得意技、合体されたときの部位などがしるされていますが、気がかりなのは持ち主の「分身」という扱いになっています。「分身」というのは、自分から生まれたもの、分かれ出たもの、という意味あいですよね。わかりやすく例えると、忍者の分身術みたいに、本体はあるけど、そのコピーが複数体あるというような。「神様」の名前をもっている機体なのに、人間から分かれ出たもの、という扱い。この「分身」という設定は、機体が「神様」である、という設定と相容れないように感じます。「神」という唯一無二の絶対存在である者が、なぜに人間の「分身」扱いされねばならないのか? この西洋近代的な「神」の概念では、説明がつきにくい事象であります。
日本では付喪神(つくもがみ)と言って、使い古した日常の道具などをお祀りする習慣があったりします。
道具のみならず自然万物に神が宿る古代のアニミズム的信仰というよりも、モノを大事にする、手仕事の成果は自分の腕前ではなく、神の才能が降りてご助力いただいたものだから、という日本人らしい謙虚さによる言い伝えだろうと思われます。この場合の神というのは、実体のないもの、言うなれば、プラトン哲学のイデアとでもいうべき形のない存在になりますよね。我が国では、宗教文化と芸術表現が結びつき花開いた端緒が大陸渡来の仏教であり仏像だったので、『日本書紀』や『古事記』にしるされた神話上の神々を具体的に象徴物として描いてきませんでした。そもそも、その神話上の古代の神を『記紀』という文献に登場させたのすら、仏教が国内に浸透したのちのことです。仏教やキリスト教ですと、寺院や教会にはかならず仏像なりイエスの荊刑像なりがありますよね。でも、神社にはその縁起となった祭神の名前はあるけれども、ご神体はだいたいモノですよね。奈良の大神神社みたいに、山そのものがご神体というのもあります。すなわち、神に近い礼拝の対象であっても、人間が使役できたり、接触できたりするものですよね。
この日本の古神道独自の概念で考えますと、本作における、なぜ神がいかにも近未来的なロボットという成りをしているのか、という問いに答えが与えられるのです。ロボットというのが、その時代の欠かせない道具になっているのですから。しかも、ご神体が「神さまの降りる場所である」という考えを敷衍すれば、コックピットが異空間であり、搭乗者どうしが行き来できる、ということの説明もつきます。終盤、ヤマタノオロチとアメノムラクモが組んず解れつの戦闘になって、姫子が敵機がわへ乗り移ったのに、いきなり月のお社に渡っていたのも、これで説明がつきますよね。ソウマとツバサのロボット戦が、なぜか、本人どうしの生身のタイマン勝負になっている理由も。本作におけるロボットは、人間どうしの愛憎関係をとりもつ「空間」なのですから。ツバサがソウマを殴る蹴るしているのは、弟の憎悪を燃やさせオロチ衆に引き入れないと、やがて彼の身が滅ぶことを知っているからです。愛情があるところに、ロボット来たり。けっしてロボットの存在がないがしろにされているわけではないんです。
この考察によって、第三回で呈示された、ロボットと神という設定が相容れないという違和感が解消されました。
したがって、巫女とロボットも共立できる余地がある、と言えますね。搭乗者たるオロチ衆たちが、自分の自転車かペットみたいに、かってに名前をつけいていたのも、神さまの宿るものだけど、道具なので、と考えれば納得できますね。設定にはありませんが、オロチ衆たちの機体は実は、彼らが身近に愛着を感じていたモノかもしれませんよね。大神兄弟だったら、子どものころ遊んでいたロボット玩具だったとか、ミヤコ機ならマリア観音だったとか。でも、本人の属性とはかけ離れた外見もあるので、よくわかりません。
神無月の巫女精察─かそけきロボット、愛に準ずべし─(目次)
アニメ「神無月の巫女」を、百合作品ではなく、あくまでロボット作品として考察してみよう、という企画。お蔵入りになった記事の在庫一掃セールです。
【アニメ「神無月の巫女」レヴュー一覧】
さて、前座の結論が出かけたところで、具体的に各話を掘り下げてみるのですが。その前に。
大ざっぱに本作品でのロボットについて、もういちど、復習しておきましょう。え~、まだロボットの話するの~? そろそろ、姫子と千歌音のキャッキャウフフについて語ってよ、とおっしゃる方。まあ、ここはひとつ気長にお願いします。乱暴な仮説には、もうすこし土台固めが必要です。
旧版ブックレットには、ロボットのカラー図入りでの解説頁があります。
第三巻がオロチ衆、そして第四巻にはアメノムラクモが特集されております。残念ながら、2009年DVD-BOXの新版ブックレットにはこちらが記載されていません。しかも、このDVD-BOX版はボックス外装の表紙にすらロボットが描かれていません。なので、こちらの新版をお求めになられた方は事前情報無しに視聴すると、いきなりロボットが出てくるので驚かれたのではないでしょうか。見晴らしのいいハイウェイをご機嫌で疾走していたら、いきなり、熊が襲って来ましたよ、みたいなスリルが味わえます。ちなみにモノクロであれば、原画集や設定資料集にもロボットのスケッチだけは載っています。今回は、この旧版冊子をもとに考察していきますね。
第三巻冊子の「『オロチ分身大図鑑』~八大巨神のすべて~」で、オロチ衆八体(いや、神様だから八柱というべきか)をまとめた特徴として、以下の記述があります。
・ロボットに似た外見とギミックを持つが、あくまで「神様」である
・搭乗者の性格、嗜好、精神状態によって戦闘力が変化する
・コックピットは連携しあっていて、異空間であり、搭乗者どうしが行き来できる
・不死身なので倒されても、何度も再生してしまう
・戦闘不能となると石化して崩壊してしまう
・全部が融合して合体ヤマタノオロチになることができる
便宜上、ロボットと呼んでいますが、作品上の扱いは「神様」。
八機にはそれぞれ日本神話をモチーフにしたと思われる神様らしい名前があります。でも、オロチ衆の全員が全員、正しい名前を読んでいません。かってに愛称をつけていたりします。いや、ほんと、訳がわかりませんね。しかも、搭乗者次第で外見や戦闘力まで変わってしまうときてる。神という、人間とはまったく別の存在で、しかも名前を与えられたものなのに?
各機体の解説を読むと、それぞれの特徴や得意技、合体されたときの部位などがしるされていますが、気がかりなのは持ち主の「分身」という扱いになっています。「分身」というのは、自分から生まれたもの、分かれ出たもの、という意味あいですよね。わかりやすく例えると、忍者の分身術みたいに、本体はあるけど、そのコピーが複数体あるというような。「神様」の名前をもっている機体なのに、人間から分かれ出たもの、という扱い。この「分身」という設定は、機体が「神様」である、という設定と相容れないように感じます。「神」という唯一無二の絶対存在である者が、なぜに人間の「分身」扱いされねばならないのか? この西洋近代的な「神」の概念では、説明がつきにくい事象であります。
日本では付喪神(つくもがみ)と言って、使い古した日常の道具などをお祀りする習慣があったりします。
道具のみならず自然万物に神が宿る古代のアニミズム的信仰というよりも、モノを大事にする、手仕事の成果は自分の腕前ではなく、神の才能が降りてご助力いただいたものだから、という日本人らしい謙虚さによる言い伝えだろうと思われます。この場合の神というのは、実体のないもの、言うなれば、プラトン哲学のイデアとでもいうべき形のない存在になりますよね。我が国では、宗教文化と芸術表現が結びつき花開いた端緒が大陸渡来の仏教であり仏像だったので、『日本書紀』や『古事記』にしるされた神話上の神々を具体的に象徴物として描いてきませんでした。そもそも、その神話上の古代の神を『記紀』という文献に登場させたのすら、仏教が国内に浸透したのちのことです。仏教やキリスト教ですと、寺院や教会にはかならず仏像なりイエスの荊刑像なりがありますよね。でも、神社にはその縁起となった祭神の名前はあるけれども、ご神体はだいたいモノですよね。奈良の大神神社みたいに、山そのものがご神体というのもあります。すなわち、神に近い礼拝の対象であっても、人間が使役できたり、接触できたりするものですよね。
この日本の古神道独自の概念で考えますと、本作における、なぜ神がいかにも近未来的なロボットという成りをしているのか、という問いに答えが与えられるのです。ロボットというのが、その時代の欠かせない道具になっているのですから。しかも、ご神体が「神さまの降りる場所である」という考えを敷衍すれば、コックピットが異空間であり、搭乗者どうしが行き来できる、ということの説明もつきます。終盤、ヤマタノオロチとアメノムラクモが組んず解れつの戦闘になって、姫子が敵機がわへ乗り移ったのに、いきなり月のお社に渡っていたのも、これで説明がつきますよね。ソウマとツバサのロボット戦が、なぜか、本人どうしの生身のタイマン勝負になっている理由も。本作におけるロボットは、人間どうしの愛憎関係をとりもつ「空間」なのですから。ツバサがソウマを殴る蹴るしているのは、弟の憎悪を燃やさせオロチ衆に引き入れないと、やがて彼の身が滅ぶことを知っているからです。愛情があるところに、ロボット来たり。けっしてロボットの存在がないがしろにされているわけではないんです。
この考察によって、第三回で呈示された、ロボットと神という設定が相容れないという違和感が解消されました。
したがって、巫女とロボットも共立できる余地がある、と言えますね。搭乗者たるオロチ衆たちが、自分の自転車かペットみたいに、かってに名前をつけいていたのも、神さまの宿るものだけど、道具なので、と考えれば納得できますね。設定にはありませんが、オロチ衆たちの機体は実は、彼らが身近に愛着を感じていたモノかもしれませんよね。大神兄弟だったら、子どものころ遊んでいたロボット玩具だったとか、ミヤコ機ならマリア観音だったとか。でも、本人の属性とはかけ離れた外見もあるので、よくわかりません。
神無月の巫女精察─かそけきロボット、愛に準ずべし─(目次)
アニメ「神無月の巫女」を、百合作品ではなく、あくまでロボット作品として考察してみよう、という企画。お蔵入りになった記事の在庫一掃セールです。
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