「わたしは離れないよ。どちらが先でも後でも。千歌音ちゃんがどこに行っても、またきっと追いかけていく。きっと、千歌音ちゃんと横に並んで──」
「姫子と手を繋いで」
千歌音も思わず、艶の乗った声を重ねる。
それでも、もし自分だけが先に感染してしまったら──やはり、私は姫子を突き放すのだろう。両手を伸ばして引き寄せられる範囲の向こう側へ。姫子のために、私は他人でいるしかない。その決意のほどは、噛みしめた奥歯で顎が痛いくらいに確かめられる。
「千歌音ちゃんといっしょに歩く──そんな未来を憧れる。そんな昔を懐かしむ。だから、今は我慢しようね」
姫子の声はいつだって冷めていない。
やさしく鼓膜を撫でられた気分になってしまう。姫子はどうしたいのと答えを誘い出しながら、刃を覆って柄のほうを選ばせようとする独り勝手な自分にその柔らかな指をすべりこませて、全身で抱きしめてくれる。居場所だけ与えても、あなたがいないと駄目なんだよと温かみを添えて教えてくれる。
「ありがとう、姫子。そうね、この運命を乗り切っていかないとね」
「また千歌音ちゃんの腕のなかでいい夢を見させてね」
ふ、と声にならない甘いため息が胸に落ちる。花をひろげたように、千歌音の顔は綻んでいた。
寄りかっているのは私なのに、貴女はもたれていいと言うのね。このまま静かに瞳を閉じたら、誘われるように夢のなかへ落ちて──そこでは、ふたりはひとつであってほしい。そんな願いをこめてこその、このからくりだったのだ。特注のアクリルスタンドでは自分が見えないけれど、互いだけを見せている。いつぞや、姫子はこの寝室へ来てくれる。だからこそ、なおのこと、今しばし、私たちは遠くにいなくてはいけない。
どちらの想いが後か、先かでも構わない。
でも、いまはただ、ふたりであの月を見上げることができる。夜を同じくして眠ることもできる──ただ、それだけでも幸せなのだ。
幸せはひとつ、ふたつと数え上げるものではない。
ものの取り分を比べるように、その太さや厚みや高さを競いあうものでもない。過去にさかのぼって減った分を嘆くものでもない。手に取れるものにしてしまったら、その尊さが消えてしまったことがすぐはっきりしてしまうような、そんなものではない。私たちが生み出してきたものは、そんなものではない。きっと、いつか、近い将来に、マスクの下に阻まれてしまった睦言を、手袋に遮られた指先の熱っぽさを。透明な板に拒まれてしまった愛のひとときも。なにもかも取り戻すことができるのだろう。私たちのあたりまえだったあの素敵な日々を。
私たちの人生には、いつなんどき、何があるのかわからない。
けっして誰も望んで、そうなったものじゃない。こんな壊れきった窮屈な生活は、足掻けど、もがけど、斜面の砂のように降りかかる手前の見えなさ加減は、私たちの願ったものじゃない。けれど、苦難を乗り越えた数だけ、魂の結わえが強くなるのならば。ふたりが互いを選んで助けあいたい理由が濃くなるのならば。こんな厳しい日々を私たちが生きる意味だってあるのかもしれない。
そのとき、部屋の照明が落とされて──。
描かれたふたりの少女像が、煌々と光り輝いたのだった。下部の台座から浴びせられたライト──のはずが、光源はどこだか定かではない。まばゆくこの世のものではない発光のよう。暗闇の扉を押し開いて、手を取り合って真正面に進むふたりの背後から、月光が差し込んできたようだった。間違いない、ふたりは同じ方向を! どちらから見ても、姫子と千歌音のふたりがほほ笑み揃えて相並んでいる絵なのだ。夜の暗さとやにわの月光に照らされて、明るみになる不思議なアクリル板のマジック。窓が開け放たれて、カーテンがふゆりと柔らかい風に揺れていた。
姫子と千歌音は同時にふたりを隔てる一枚のものを眺めやった。
その背景はつねに透明、取り巻く景色が変わろうとも、ひとつの絵になれるような永久(とこしえ)のふたりのままでいたい。わたしたちの間を隔てるものは、わたしたちの姿だけ。けれど、わたしたちを結ぶるものも、わたしたちの気持ちだけ。あれこそは、永遠に私たちの理想像。いっしょに大人になって、互いがたがいの一部になりつづけるような、どちらから開いていてもいい扉のような。遮るものではなく、向かい合ってくれる壁として。きっと、また、あのふたりに辿り着こう。はじめての、あの若かった日の私たちに──…。
【了】
【目次】神無月の巫女二次創作小説「想いの後先」