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宗教とは何か~一神教と多神教

2024-02-18 18:40:16 | 本質

宗教とは何か~一神教と多神教

イスラム圏の人やアメリカ人と宗教について話をした。

※以下は私の考えであって、日本人を代表しているものではありません。そのことは伝えて説明しています。そしていつものように私は正しいことは言いません。答えもありません。

僕は日本人は自然そのものだったり、自然の神様、そして神道や仏教があるが、それは世界の宗教とは違う。

日本人はいちいち宗教とか考えなくても、ご先祖様だったり自然の中だったり、あらゆるところに神がいて、さらに物質だったりつまりここにある消しゴムにも机にも紙がいると自然に思っているのだよ。

私たち一人一人が神でもあると考えている。

そして仏教は仏陀を崇拝する訳では無く、仏陀は私たちがどうやってこの現世を生きていけば良いかを説明している。哲学やこの世の仕組みを説いているもので、これも宗教とは言えない。

自力と他力で生きていきなさいと教えている。

この自然の仕組みの中にあらゆる神が存在する中に仏陀の教えが存在している。

無宗教では無く、自然とそうなっている。だから私は信仰を持っていると言う必要も無いのだよ。と説明した。

そうするとみんな、そうだその考えは素晴らしいと理解する。

しかし、彼らにとっては自分の信仰が一番大切である。彼らは一神教なのだ。

僕は一神教よりも日本的考えが世界に広まれば世界は平和になるのではないだろうかと述べた。

それも理解できると共感してくれた。

ただ、やはり一神教である。

縄文時代から江戸時代に至るまで、特に江戸時代までは日本人は世界でもありえないくらい陽気な人々で、礼儀正しく、清潔な人々だと当時、日本を訪れた外国人の本や手記などに記載されている。

僕は日本人の精神性について説明しながら、いやどうもおかしいな。今の日本人は全く陽気ではなく、どちらかというと電車に乗っている姿を見ても覇気がなく、どちらかというと鬱々としている。

僕の説明と合わないのだ。

そして、彼らは非常に礼儀正しく、安心感に包まれている。

どうしてあなたたちはとても穏やかな顔をしているのかと僕は尋ねた。

そうすると、彼らはこう答えた。

この世界は厳しく暴力的なのはその通りだが、私たちは常に神とともにいて、神と対話し、神に守られている。

だから心が穏やかになり、安心感があると。

もっともこれは誰でもそうであるのでは無く、信仰の厚い人に限られると思う。なぜなら世界は宗教があるのに日本よりも、もっと暴力的だからだ。これは彼らも認めていた。

そこで僕は気づいた。一神教と多神教の違いの一つは、一神教故のシンプルな安心感と言うものが在るのかもしれないなと。

僕は八百万の神が日本には存在して、どこもかしこも自分の中にも神性があると信じているが、普段は意識していない。

あまりにもありすぎて焦点が合わない。漠然としているのだ。

しかし、彼らは常に神とともにあり、常に神と対話しているのだ。そして厳しさも過酷な運命も神から与えられたものだと信じている。

それが僕には無いのだ。何しろ八百万の神だから、その時その時神を意識はできるが、それは初詣や受験や健康やお墓参りの時など、あるいはキャンプをして自然の中にいる時に意識されるが、普段は神とは対話をしていない。

単に僕が不信心で感謝が足りないだけかもしれない。

一方彼らは、常に神を意識して、神と対話し神とともに在る。

一神教なので、神を意識しやすく、対話もしやすく、神とともにいることが出来る。

一方、八百万の神だと、僕はとても意識しにくいし、お天道様が観ているとは言うものの、僕にはあまりに漠然としているし、対話もしにくいし、ともに在るのもなんだか難しい。夜には隠れてしまう。

ニールドナルドウォルシュの「神との対話」では無いが、神とは対話できてもお天道様や八百万の神とは対話しにくい。

彼らの安心感がなんだかよく理解できた。

縄文時代や宗教という概念も無く、文字を持たず本能的で感覚や直観で生きていた人々は、あらゆるところに存在する精霊などと容易に交信できたと思うが、現代の直観や感性が衰え物質的になりすぎた日本人にはそれが不可能になっており、実際は日本人の奥深くに持つ神性が抑えつけられて無理が生じて、今の日本人は鬱々となっているのかもしれない。

これから日本人は本来の在り方に戻ろうとするのだと思う。今は過渡期なのであらゆる崩壊が起きている。

彼らとの対話が終わってから、僕はなんだか安心感に包まれた。

神をイメージし易くなったのだ。

といっても僕はイスラム教でもなく、キリスト教でもユダヤ教でも無い。

まあ親が浄土真宗なので自動的に仏教なのだ(僕は仏教は面白くて好きだ)、そして神道的な神性も好きだ。

ただ一神教の安心感、その意味の一部が少しわかった気がする。

人間は人間を信じても心は安定しない。なぜなら人智を超えたものが確実に存在するからだ。

僕らはそれらに対してなんら答えを持ち合わせていない。それを神とするならば、現世での問題は”大いなる何か”サムシンググレートや神と言う大きなものに任せてしまうのは、この厳しい現世に安心感をもたらすものだと思う。

人智を超えたものにサレンダー(降伏)すると幸福になるようだ。

ちなみに聖書も好きで、キリストも好きだ。僕たちは混乱して、破壊を繰り返して、暴力的で、自己中でどうしようも無いのだ。

だからサムシンググレートが必要になり、それは必要なだけではなく確実に在る。それを神と表現できるだろう。

そういうことを繰り返しながら、自らの神性を取り戻し、神(サムシンググレート)一体化する学び場が現世なのだろうね。

 

本質的な話


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