何度か話題に出したニュートラルという表現についてです。
前回の話にもかぶりますが、この「中立の」という意味合いで基本的には作品を創りたいし、舞台にも立ちたい、ということです。
日本の演劇史の背景を考えると、思想を全面に出したり、政治的な意見の表明となるような演劇があり、そうしたものに優れた作品もあったのだろうと思うのですが、自分が作るものとしては「中立」的で、人間が自由意志を用いて判断し決断し生きていく物語を語りたい、ということです。
また、創り手として、集団創作の担い手の一人としても、中立の立場で自分の信念を抱えながら一切妥協せず、しかし他者を受け入れて創作していきたい、ということです。
よく新興宗教などで洗脳が話題になりますが、あと催眠術っていうのもありますが、僕自身はあり得ない話ではないかもしれないけれど、人はそう簡単に操れないだろう、と思います。
昔、「24」を観ていて、あの作中と観劇の時間が同時進行してシンクロしていくというアイデアとそれを実際にやってのける脚本と演出の妙に興味がわいてみていましたが、登場人物たちが情報を得るために最終的には必ずといっていいほど家族を人質にとるのがいやでした。
人の尊厳というか、信念はそんなに簡単には折れないのではないか、と思うのです。
日本は非常に眼に見えない形での圧力を感じやすい社会背景であったり、“世間”であったりすると思いますが、その中で真に中立に生きていける人物像を描きたいなあ、ということもあります。
なんだか二回連続で精神的な話になってしまいましたが(本当はこの演出家の眼シリーズはがんがん技術論を書いていきたいのです)、恐らく次回作がいまだ決まっていないのがダメなのだろう、と思っています・・・。
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